自分でも、ここまで記事が長くなるとは思ってなかった。
まさに、書けども書けども、想い尽きまじって気分を味わってます。
本日は、久々の休みで、気分転換に、大阪に行ってみる。
そこで、書店やDVDショップをのぞいてみると、まことさんの追悼フェアなんてやっていた。さすが、関西人の商売人魂! と感じながらも、否定はしない。やはり、こういう形で、いろいろとまことさんの思い出を分けて行くのは、ファンとしてもありがたく思う。
目についたのは、この本。
2006年に出た本で、まるで死期を悟ったかのような内容の自伝に、目頭が熱くなる。
『剣客商売』の秋山小兵衛役を、松竹のスタッフに頼み込んで勝ち得たエピソードで、
「原作者の故・池波正太郎氏は、『仕掛人』の作者でもあるけど、『仕置人』以降の必殺シリーズをあまり好んでいなかったらしいので、存命中なら、中村主水役の自分が小兵衛を演じることを許さなかったかもしれない。あの世で会うことがあったら、どう言うかな」的な言葉がつづってあって、
いろいろ考えさせられた。
自分としては、藤田さんの秋山小兵衛の演技なら、きっと原作者も納得してくれるだろう、と信じたい。
あとは、仕事人や、他のシリーズのDVDがいろいろ陳列してあって、
自分はさすがに資金の問題で、まだまだ持っていないのが多いので、何を買おうかな、と迷う。
で、結局、選んだのは、『必殺仕置屋稼業』。
ちなみに選択肢は、仕事人シリーズの他は、これと『仕業人』『商売人』。う〜ん、『仕置人』『仕留人』『新仕置人』は、すでに売り切れていたのか。
マニアだったら、「全部買え」って意見もよく分かるけど(苦笑)、そこはそれ、自分の金銭事情に合わせて、少しずつ揃えていくのも、探求者の道ということで。
探求編
「仕事人III」以降の作品は、リアルタイム追跡なので、視聴順をたどるのは簡単だ。
でも、それ以前の作品は、再放送に頼ったので、どういう視聴順だったか、記憶を呼び起こすのにしばしの時間が掛かった。
主水シリーズ本来の放送順は、『仕置人』『仕留人』『仕置屋』『仕業人』『新仕置人』『商売人』『仕事人』『新仕事人』の通りである。
でも、自分の視聴順は、『商売人』『仕留人』『仕置屋』『仕置人』『仕事人』『新仕事人』『仕業人』『新仕置人』となる。もちろん、一度見たものを再視聴することもあったわけだが、『商売人』に始まって、『新仕置人』に至る中村主水探求の自分史は、ちょっと感慨深い*1。で、今現在を考えるなら、『商売人』に始まって、最後に『商売人』に着地して、見事にループしたなあ、と思っている。
で、80年代当時の自分にとって、「過去編とも言うべき探求編」はあくまで自分の視聴順に沿って、話を進めたいと思う。ふつうに番組放送順に客観的に論じていく記事は、山田誠司さんとか、京極さんとか、名のある必殺マニアの方々に任せて、自分は名もなき一視聴者視点を貫くってことで。
商売人
これが現在追跡中でして、自分がいかに何も分かっていなかったかを再確認している最中。
たぶん、「仕事人III」の頃に見たんだな。その頃は、必殺シリーズの全体像をちっとも把握しておらず、『商売人』の位置づけも全く見えていなかった。何で「江戸プロフェッショナル」なんて枕詞がついているのかも、何で中村主水がどうしてトリのバラードで殺さないのかも、分かっておらず、単に「これは仕事人とは別の世界の主水の話なんだ」と受け止めていた。
はっきり言えば、入るところを間違えて、子供が大人の世界に迷い込んだ気がしていた。
で、次に見た『からくり人 富嶽百景』の方が、面白いと思っていたわけですな。
そちらは、山田五十鈴さん(お艶という字が読めず、おりくさんと呼んでいた)と、沖雅也の唐十郎と、芦屋雁之助の宇蔵がメインの殺し屋。それぞれ、仕込み三味線や、伸びる竹ざおや、魚篭やら、映像インパクトあるギミックが、メカ好き魂を刺激した。
からくり人というタイトルも、からくり仕掛けから普通に納得し、むしろ商売人よりもしっくりハマッていた感じだった。自分の中では、しばし地味な商売人と、派手な(自分好みの)からくり人という認識。
中学時代の自分には分からなかった商売人の良さを、書籍資料などを通じて知るようになるのは、後年のことである。
暗闇仕留人
商売人のときは何も分かってなかったけど、その後、映画のパンフレットから基礎知識を得て、少しは物の見方が分かった時期に視聴。
はっきり言えば、もし基礎知識がなければ、この作品が必殺シリーズだとは分からず、見逃していたろうね。何せ、タイトルに「必殺」の文字がないから(笑)。
もちろん、分からないこともいっぱいあった。
そもそも、どうして黒船?
中村主水って江戸時代の人でしょ? 黒船来たら、時代が変わっちゃうじゃん。
中村主水が「時空をかけるおじさん」だと認識したのは、後に『意外伝』を見たとき。
まあ、きっと、この作品に関しては、「アンバランスゾーン」の力が働いていたんでしょう。何せ、主人公が石坂さんだから*2。
中村主水がどうして「北町奉行所」なのか、など謎はいくつかあったけど、商売人よりは見る目も肥えてきた分、入りやすかった。
石坂さんのバチ殺しは、山田五十鈴さんの系譜で慣れていたし、
石屋・大吉は、同じ名前のキャラを「渡し人」で経験している。おまけに、レントゲンによる心臓つかみは、ああ、これが噂に聞く必殺の映像トリックだな、と分かっていた。
さらには、主題歌を歌う「西崎みどり」さんも、渡し人・大吉の奥さん役で役者出演しており、おかしな方向で作品間のつながりを感じたりもしていた*3。
でもね、この作品を見る前には、やはり「仕置人」から入るべきでしたね。
何せ、第1話で仕置人時代の密偵役の半次や、おきんと再会した主水が、「もう一度、前みたいに裏稼業を始めようぜ」と言った際、半次が「鉄や錠みたいな強い奴がいないと無理だよ」と泣き言を言っていたのが、引っ掛かって。
ええ、鉄や錠の名前や役者は知っていたけど、そのセリフを聞いたNOVAの思いは、「鉄や錠って、そんなに強いのか?」と、まだ見ぬ強豪との対面を期待するモードに変わっていた。第1話を見た瞬間に、前作の方を早く見たいって気持ちになってしまったら、ダメでしょう(笑)。
仕留人の印象はいろいろ語れるんだけど、主水絡みでインパクトが強かったのは、第2話『試して候』。
この回で、密偵役の半次が他の被害者といっしょに、攘夷役人の大筒砲撃の実験台にされるわけで。
かろうじて一命をとりとめた半次がボロボロの姿で、おきんのところに帰還し、事件の全貌が判明するんだけど、その時の半次の全身包帯まみれで横たわる姿が本当に凄惨。それでも、仕留め料の分配で手を伸ばす半次に対して、主水が一言。
「こいつ、こんな姿になっていても、欲の皮がツッパってやがるぜ(ニヤリ)」
ちょっと、こういうセリフは、仕事人時代の人情味を示す主水には、言えないよなあ。
仲間が死に掛けたときだったら、やるせなさそうな表情で、「何てこった。こいつもバカだが、ここまでやられるこたあねえ。やられた分は、きっちり落とし前をつけてやろうじゃないか」と一応の仁義を見せていたろうと思う。
まあ、半次が死なないと分かっていたから、そういう軽口も出たんだろうけど、視聴者の立場としては、「いかにも死にそうで、えげつない姿の半次」に掛ける言葉としては、キツいなあ、と思ったり。
もちろん、この時期では、まだ仲間との死に別れを経験していない主水だから、後年に見せる重さを会得していなかった、とも思いますが*4。
「仕留人」は、まだ若く、殺しに熱い理想を重ねる主水が、兄弟分の糸井貢の死でそれを粉砕され、軽さを失う過程を描いた話と受け止めることもできる。
仕事人時代は、若い殺し屋の派手なアクション曲とは対照的に、悲哀あふれるバラードに乗って殺すことが定着した主水。でも、バラードの起源はどこにあるかと言えば、最初の『仕置人』の「やがて愛の日が」インストから、この作品の『旅愁』にかけて、と考える。
『旅愁』は、糸井貢を初め、仕留人全体を彩るメインテーマだけど、中村主水の悲哀を初めて生み出すに至った名曲とも感じられる。
仕置屋
仕留人の直後に見たのが、これだったと思う。
ただ、この作品、初視聴のときは、最終回が見られなかった。そこのところを補完したのは後年になってからなので、市松を逃がした後に降格を申し渡された際の中村主水のラストの悲痛な姿は、最初の印象にはない。
初視聴の際の印象は「美しい必殺」。これは市松の「殺しの美学」っぷりが大きいのだけど、前作「仕留人」に比べると重さが昇華され、明るさと華やかさが加味されている。また、コミカルなノリもあって、シリーズ作品としては洗練された雰囲気を感じた。
それは、オープニングの「現代映像」からも感じ取れるんだけど、世直しのために熱い気持ちで人を殺していた主水がプロとして「裏稼業」に邁進する姿と、すでにプロの殺人機械として冷徹に殺しを遂行していた市松が対比されることで、テーマ性も明白。ファンとしては、中村主水の目から市松を見ることも、また、市松の心情描写から裏稼業の宿命を感じることもできる。
仕留人では、どうしても幕末の世相が背景にあって、その中で運命の波に翻弄される人々が描かれていたけれど*5、仕置屋では時代を遡った形にし、また主水の勤め先も「北町」から、おなじみの「南町奉行所」に移らせ、後の仕事人に通じる流れを作った*6。
ともあれ、中村家を除けば、キャラシフトは全く一新され、市松に対しても、「昔、お前に顔が似た棺桶の錠って奴がいてなあ」的ツッコミはなし。仕留人とは異なる世界観といって問題ない作風ということで。
でも、自分にとっては、市松を見て「からくり人の唐十郎さん?」と認識したり、捨三を見て「渡し人の大吉さん?」と認識したり、歴史をさかのぼった受け止め方をしていたわけで。何だか、この時期、やたらと「渡し人の大吉」を連想していたのは、やはり、あの自分にとっての「初レントゲン体験のインパクト」が大きかったんだなあ、とおもいます。
だから、主水に小物扱いされる捨三がキレて、主水の腸をひねったりしないか、とドキドキしていた(笑)。いや、本作の力仕事担当は、破壊坊主の印玄なんだけどね。
仕置屋は、仕事人から入った当時の自分にとって、違和感なく安心して見られる初の旧作必殺だったと言える。
ただ、殺しのテーマの方は、アップテンポのアクション曲ではなく、仕留人を受け継いだスローアレンジ。当時は、「どうしてアップテンポにしないんだろう?」と疑問だった。
もっとも慣れてくると、曲の転調による流れの変化が感じられるようになり、歌詞の「あの人は優しさを」の部分から勢いが増してくるのが分かり、それが殺しのシーンに非常にマッチしていると思うようにも。
つまり、最初はスローテンポで、じわじわと殺しの準備をしていたのが、そのうち「行け!」と背中から突き出すように勢いが高まっていき、悪人の「止めて助けて、止めて助けて、うわあ!」と落下していく……実に印玄の殺しのシーンにマッチした名曲だったわけで(笑)。
え、他のメンバーは?
いや、市松の場合は、女性コーラスの入った曲がしばしば採用されたし、主水にも重量感あるBGMが作られていた。仕置屋には、にぎやかなアップテンポの曲は、かえって似合わないという結論に達した次第。
この時期の必殺の殺しのBGMをいろいろ聞くと、スロー調のテーマにも、悲哀だけでなく、静かな怒りとか、盛り上げのタイミングとか、いろいろな仕掛けが分かるようになってきたのですな。そうなって初めて、スタッフの選曲センスをあれこれ論評することもできるわけで。
なお、仕置屋と言えば、ラストの「おむすび」(あるいは握り飯)の中に入った一両、というのが、「中村主水の想いを伝えたもの」という論評があったわけですが、先週の商売人記事の際には、ぼくも深い考えもなく、単になつかしいなあ、の気分で書いていた。
でも、それから藤田さんの逝去があって、「握り飯の中の一両」という言葉に重みが加わった。それを別所のコメントで意識させられ、ああ、自分も「小判入りの握り飯」を受け取った一人なんだな、という認識に同意したわけで。
そう、必殺シリーズは、「お金のやり取り」を「想いのやりとり」のメタファーに使っている。もちろん、「想い」は、お金だけじゃなく、映像や歌曲、言葉、いろいろな形で伝え合うことができるんだけどね。
必殺シリーズの主題歌は、多くの歌謡曲同様、恋愛感情を詠ったものが数々あるけど、恋愛感情をフィクション作品や、そこに登場した役者さんへの愛情にまで拡大解釈するなら、今の気持ちにも通じるんじゃないかな。
で、仕置屋の主題歌「哀愁」の歌詞も、非常にマッチしているわけで、それを示して、本記事を終わらせたい。
あの恋も過ぎてみれば 淡い夜の夢
いつの間にかとけて滲む 心の片隅に
あの人は やさしさを
あの人は ときめきを
置き去りに消えた人
夜の嵐去った後に 登る朝日よ
ひとつふたつ通りすぎる 愛の嵐よ
まずはこれまで あらあらかしこ
*1:『商売人』では殺しのプロとして、ある意味、完成された主水像を描いており、一方の『新仕置人』はそこに至るまでの総決算の趣がある。過去を遡る探求としては、きちんと起承転結が付いているように思う。まあ、自分の見方だけが絶対の正解じゃないし、途中、情報不足で紆余曲折をたどりもしているんだけど。
*2:うちのメイン読者には言うまでもないかもしれないけど、石坂浩二さんは「ウルトラQ」のナレーション。不思議な世界への案内役という印象もある。
*3:「大吉の奥さん」=「西崎みどり」という印象から、仕留人・大吉の情婦役の妙心尼との重なりを覚えてしまい、後に西崎さんが「橋掛人」で尼さん役をやったときに、いつ「なりませぬ」と言うか、妙な期待をしてしまった自分がいる。
*4:ちなみに、この「大筒の試し撃ちの的にされる密偵役」というシチュエーションは、後年の必殺スペシャル『大暴れ仕事人 横浜異人屋敷の決闘』でも再現されたのだけど、犠牲になった加代の姿は、衣装がボロボロになっただけで、どこかドリフの爆発コントにも似たコミカルさに、変更されていた。さすがに70年代のストレートなどギツさが90年代初頭ではオブラートに包まれているなあ、と感じたりも。
*5:主水もラストで悪人の件そっちのけで、「黒船」の方に脅威を感じ、「日本はこれからどうなるんだ?」と途方に暮れていた。キャラクターと、物語で直面する事件よりも、背景描写の方に焦点が当たった感じで、フィクションとしては若干こなれていない物を感じた。
*6:ちなみに、主水シリーズの物語の整合性を考えるなら、「暗闇仕留人」「必殺商売人」そして劇場版の「主水死す」を黒歴史的に封印あるいはパラレルワールドとして扱うのが正論なんだろうけど、そこで描かれたドラマは捨て難いというのがジレンマ。