Shiny NOVA&WショーカのNEOスーパー空想(妄想)タイム

主に特撮やSFロボット、TRPGの趣味と、「花粉症ガール(粉杉翔花&晶華)というオリジナルキャラ」の妄想創作を書いています。

中村主水=藤田まことさんを偲びながら3

 自分でも、妄想力全開、想いのたけを振り絞って書き綴っている気がしますが。
 これまでインプットしてきたものを、一通りアウトプットしないと、気が済まないモードに入ってますな。

追跡編

 今となっては全てが懐古なんですが、80年代半ばの自分にとっては、中村主水の「今」を追跡しつつ、「過去」を探求することが、ほぼ同時並行にできたわけですね。
 これは、当時の仕事人ブームの波に乗って、夕方の時間帯に多くの旧作が再放送されたからなんですが、とにかく再放送と書籍資料による過去作品の探求作業は、小学生時代から特撮物でいろいろ経験していたりします。当時の主な研究対象は「ウルトラ」と「ライダー」で、そこから中学に入って「ゴジラ」にシフトしていった頃。
 当時の感覚では、「ウルトラ」と「ライダー」が子供向きで、「ゴジラ」が大人向き。そして、背伸びしたがる中坊時代の現役ヒーローが、刑事ドラマであり、必殺だったのですな。


 「仕事人IV」と、その副産物である映画「The 必殺」。そのパンフレットから研究の糸口をつかんだNOVAは、「仕事人IV」で秀との別れを経験し、次の「仕切人」で勇次との別れを経て、その後で新たな仕事人と遭遇します。
 それが、花屋の政と、組紐屋の竜。最初は秀と勇次の二番煎じに見えた、この二人の新顔と次第になじむにつれて、NOVAは自分の進んだ道が間違えていなかったと確信します。何せ、政を演じる村上弘明氏は、数年前に自分が応援していたスカイライダーの人。また、竜を演じる京本政樹氏は、自身が特撮ファンであることを表明する、当時稀有な役者だったわけで、要するに「特撮ヒーロー→必殺」というレールが自分の前に伸びているのを、はっきり感じられたと。
 しかも、政と竜の登場編である、『仕事人意外伝』がいわゆる時代劇の枠からブッ飛んだ、時空を越えたタイムスリップ異色編というキワ物だったわけですが、これが当時、SF魂を意識していた自分のハートには、ドンピシャ大当たりだったわけです。もうね、必殺シリーズの全てが、自分を両手を広げて歓迎しているような錯覚さえ覚えました。まあ、若いころは趣味に関して大変、自意識過剰だったんですね。今も、その名残みたいな情熱を時々示して、バカをすることもありますが、昔はバカに輪をかけた大バカまっしぐら爆走中と。


 そして、夕日の海に消えた秀を心残りにしつつも、政や竜を等身大感覚で見守っている自分がいます。
 もう、順之助は、感情移入の対象外。だって、彼、いつまでも受験生を続けているんですよ。1985年当時、自分が中3で受験生になっちゃいました。ええと、思春期の少年は背伸びしたがるものなんです。順之助に追いついちゃったら、彼の言動が子供に見えて仕方ない(自分も子供なのに)。おまけに順之助をモデルになんてしちゃったら、受験に落ちて浪人生になっちゃうじゃないですか(笑)。
 いや、まあ、中村主水をモデルにしちゃったら、種無しかぼちゃの昼行灯になっちゃう……なんてのは、思いもしませんが。
 ええと、その当時、自分は受験勉強のストレスからか、技術で作った金属加工のドライバーを、やすりで磨いて、鋭利な刃物に仕立て上げたり(仕置人・棺桶の錠のマネ)、手品用の紐に鈴をつけて組紐屋のマネをしたり、どこかの家から伸びている木の枝を折る……のはさすがに悪いと思ったから止めておいて、松の葉っぱぐらいをちぎってみて、「松葉の〇〇」なんて仕事人になりきってみたり、いろいろ遊んだ覚えがあります。無邪気だ。
 それでまかり間違って、「殺しの美学」なんて称して、誰かを殺っちゃったりしたら、ちっとも美しくなかったんですが、幸い、中村主水が「殺しの苦さ」をしっかり教え込んでくれたので、過ちを犯さずに済みました。そう、仕事人は「頼み料」をもらわずに殺しに手を染めたらダメなんだ。誰も、NOVAに頼み料をくれたりしなかったから、NOVAの裏稼業はあくまで妄想の世界だけに留まったわけで。
 もし、妄想を実演していたら、数年早いオタク殺人鬼事件として、マスコミに叩かれ、全国の特撮ファンや必殺ファンに怨まれていたろうな、と思うと、ふう、ギリギリセーフ。誰の心にも闇はある、というのが自分の実感。それを抑えるのは、現実に根ざした想像力とか、先達の教えを素直に受け止める心とか、周囲に迷惑をかけたくないという良心とか、妄想を適度に昇華する趣味とか、拙い自分のバカさを笑って受け止めてくれる趣味仲間との付き合いとか、そういった諸々ですね。
 で、ここまで書いて、改めて思ったこと。仕事人に憧れ、いろいろと武器の研究をし、受験勉強は……まあ、適度の処理して、やっていることがほとんど順之助ですな。あ、松田屋のお聖ちゃんには憧れていないぞ。自分は、中森明菜派だったから。


 で、これだけ書いて気付く。中村主水のことを書くつもりだったのに、少し方向がそれてます。
 主水さん、主水さん……(記憶を必死に呼び覚まして)、そうそう、当時の主水さんは、いわゆる省エネ殺法の時代ですが、それが自分たちには非常に格好良かった。
 役人の立場を利用して、「実はですね」と近づいてきて、ブスッ。
 十手を落として、それに気を取られた相手が拾い上げる。「何だ? 汚い十手だな」と吐き捨てた相手に対し、「汚い十手で悪かったな」 もうね、殺しのシーンが、アクション要素の薄い代わりに、そのまま見事なコント芸なんです。これが中学生には受けて、もう主水の真似が流行りまくり。
 チャンバラで刀を振り回す*1のは、小学生時代ならともかく、中学時代にそれをやるのは恥ずかしい。だから、小道具や、小ネタに走るのが、うちの周りの中学ライフでした。一番使ったのは、シャープペンシル。コンパスはさすがに危ないと自制が働きますが、三角定規を銃に見立てたりとか、分度器手裏剣とか、いろいろやってました。
 でも、主水は、道具がなくても、言葉だけで演技ができちゃうわけですね。もちろん、見えない刀で突き刺すアクションを同時に行っていますが。授業中に友達の落ちた消しゴムを拾って、「何だ? 汚い消しゴムだな」と言って渡す。すると、「汚い消しゴムで悪かったな」 ブスッというリアクションが帰って来る(笑)。
 やっぱり持つべきは、ネタの分かる話し相手ですよ。まあ、誰がネタを分かってくれるか、探り当てるまでが、多少の勇気とコツがいりますがね。そして、友人の出したネタには、返礼として、きちんとリアクションを返す。それぐらいの勉強はするべきなんです、という知恵は、必殺から学んだと言えるのかな。
 しかし、今、思うと、自分の芸ネタとか、その根底の精神には、確かに中村主水から受け継いだものもあるなあ、と再実感しました。ちょっと感動。


 あ、中村主水の偉大さを示すエピソードも思い出した。
 強すぎる敵がいて、政や竜が、怖気づいて手が出せない。いや、直接仕掛けていないのに、その佇まいから相手の力量を察する二人も、今にして思うと、大したものなのですが、とにかく普段、派手なアクションを見せて、主戦力となっている二人が、言うわけですね。「あいつは八丁堀に任せよう」
 当時はまだ八丁堀を信用しきっておらず、しょっちゅう生意気な口を利く二人が、八丁堀の力量には信頼を置いているんですね。まあ、厄介な敵を押し付けているだけ、と見る向きもあるのですが、それでも強敵に対して、いよいよ八丁堀の出番、という真打ちめいた感覚、すなわち「本気を出せば非常に強い」という威厳は、仕事人時代の主水も十分見せていましたよ。
 というか、「能ある鷹は爪隠す」じゃないけど、商売人時代みたいな本気の主水は封印しておいて、普段はそつなく仕事をこなすのが真のプロフェッショナルと自分は感じていたのですが。つまり、同じ裏の仕事でも、「本気モード」と「通常モード」の2つの顔を使い分けるに至ったのが、熟成した中村主水だと考えております。


 その本気モードの主水をかいま見せたのが、続く「激闘編」だったわけですが、書くこと結構あるなあ、と思いつつ、続きは次回。

PS:思いつくままに書きながら、中村主水のことをいろいろ再発見している気にもなったり。

*1:ほうきや傘を刀に見立てるわけですな。