剣崎順から学ぶ天才の描かれ方
前回は、エンタメフィクションにおいて、主人公の持つ天才性と、敵やライバルの持つ天才性を述べてみました。
主人公は自ら積極的に状況を動かすにせよ、周囲から巻き込まれて状況の当事者になるにせよ、物語の中心人物として事件の解決を担当するか、解決はできなくても(ホラーサスペンス系が多い)事件をほぼ最後まで見届ける役割を背負わされます。事件の解決能力か、最低でも終盤までの生存能力および事件の観察・分析能力、そして周囲のキャラへの何らかの影響力、感化力を備えていなければ、主人公とは呼びにくいです。
一方、主人公に対峙する敵やライバルは、主人公に匹敵あるいは凌駕する程の存在感、物語を動かす原動力だったり、主人公が乗り越える壁だったり、主人公を成長させる要因だったりするので、最終的に主人公に敗れるにせよ、主人公に勝るとも劣らぬ天才性を示していることが多いです。
稀に、主人公がライバルに敗れる形で物語が終了するようなケースもあるわけですが(『あしたのジョー』とか)、その場合は主人公以上にライバルが人気を博すこともあったりして、ライバルキャラの持つ天才性は研究に足るテーマです。
そして、前回は『リングにかけろ』の主人公・高嶺竜児に対峙するライバルにして、チームメイトにして、もう一人の主人公とも呼べる剣崎順こそ、自他ともに認める稀代の天才キャラとして紹介し、持ち上げました。
そう、フィクション世界において天才と称されるキャラクターは数多くあれど、剣崎ほどのスーパースターにしてカリスマ、天才を自称してもギャグにならず、格好良さを貫き通した天才の中の天才、天才王とでも称すべきキャラクターは、NOVAの知るかぎり、他にいません。
その魅力を分析し、剣崎の魅力をパクるのではなく、自分の創作に取り込むにはどうしたらいいのでしょうか?
そこを考察してみたいと思います。
天才は孤高である
まず、その作品世界において、天才はレアキャラです。
一方のリアルには数多くの天才が存在して、野球の天才とサッカーの天才が異種競技でぶつかることはまずありません。もちろん、分野が重なっても世代が異なれば直接対決はできませんし、ドラクエのすぎやまこういちと、FFの植松伸夫の作曲家としてどっちが上かというのも、そう簡単に結論が出せる問題ではありません。
渡辺宙明と菊池俊輔のどちらが上か、とか、鳥山明と高橋留美子のどちらが天才かなど、白黒付けたがるファンもいるのかもしれませんが、リアルでは天才が並び立つことも普通にあるわけですな。
しかし、フィクションの世界では、天才は数多く存在していて、主人公の前に登場する敵キャラはそれぞれが天才と言える個性を持ちながら、敗れて、主人公を育てる餌とも経験値ともなります。敗れた天才はメッキが剥がれて、格落ちするのがフィクション。
それでも死ななければ同志(とも)となって心強い仲間に変わって、より強大な敵と戦う際の協力者になって、「かつての敵が今日の友」といったドラマツルギーを見せることも多く(天才の再利用)、もちろん、そういうことを重ねた結果、キャラが増えすぎて、主人公の仲間ポジションから残念ながら脱落するキャラも出てくるわけですが、真の天才はそういう過酷なポジション争いでも勝ち残ることができるのですね。
いや、勝ち残ったから、ますます天才度が高まったと言えるのか。
主人公に敗れて、戦闘力のインフレに付いて行けなくなって、ポジション争いから脱落した結果、天才wwwと弄られネタ消費されてしまうリスクを考えると、あまり軽々しく天才を名乗るべきではないのでしょうが、調子づいている時は誰でも天才と自認したくなるもの。
まあ、その結果、壁にぶつかって身の丈を知って、謙虚さを知ったり、自分が生きられる世界を見出すのも一つの人生ドラマと言えなくもないですが、さておき。
剣崎に話を戻すと、天才は孤高、すなわち友だちの少ないぼっちのイメージが付きまといます。
天才性を露骨に振りまくと称賛されることもありますが、そこで天狗になってしまって周囲を見下すムーブをすると、確実に嫌われます。
初期の剣崎はまさにそれ。まあ、敵役なんだから嫌われ者ムーブの塊でした。
貧しい人間が努力して、その誠実さやひたむきさで信頼を集めて友情を獲得し、勝利をつかむことで幸せになる。昭和のフィクションは主人公の頑張る姿に美徳を見出す傾向が強いので、試練を次々に与えて、勝負に挑ませます。
その中で、最初から金持ちで、恵まれたキャラは性格も傲慢で、それでも追従する手下(友ではない)は大勢いて、何でも手に入ると勘違いして、自分になびかない主人公にはひれ伏させてみせると執着し、主人公の秘められた才能や不屈の雑草精神、そして成長力の前に生まれて初めての敗北の味を知る。
そこで、「おのれ〜、こしゃくな。次こそは必ず葬ってくれるわ」と傲慢さを崩さずに悪役ムーブを繰り返すと前時代のドクターヘルなんですが(笑)、剣崎の場合は真の天才なので、「自分を初めて破った竜児と姉の菊の強さ」を認めるんですね。まあ、年寄りじゃなくて、成長期の少年だからこそ、見苦しい幼児性から脱却して、高嶺姉弟の持つ心根と強さから学ぶことができた。
だから、相手の可能性を受け止めて、自身を改善するための猛特訓をする。まあ、それで体を壊していては元も子もないのですが、昭和ですから、大成するには体を酷使する姿を見せることが本気の現れという根性論ですな。
そう。天才が根性を習得して、主人公から感化された姿を示したからこそ、成長につながったんです。己を成長させる理由を竜児の中に見出して、竜児を宝のように育てる役回りを選ぶことで、剣崎が竜児の兄貴分として一皮剥けるわけです。
剣崎自身は、友だち作りが致命的に下手ですが、竜児の兄貴分としてのポジションを確立したことで、竜児の友人となった石松、支那虎、河井の3人に対しても、兄貴分そしてパトロンとして君臨できるようになります。
性格は相変わらず傲慢ですが、仲間を見下すことはしなくなり(竜児の友は、己が友と思えるぐらい竜児に心酔していますから)、漢気や侠気や誇り高さが持ち前の天才性と相まって、頼れる副将の地位を確保。
孤高ながら、拳を交えた相手への敬意は示しつつ、誇りを持った強い相手と、クズに等しい雑魚の区別はしっかりできるようになります。
そう、かつての剣崎は強者とザコの区別も付かず、自分の周りにはザコしかいないと思い込む井の中の蛙でした。しかし、竜児との対決で、相手の力量を評価する審評眼をも獲得。まあ、アメリカへ渡ったことで世界が広がったこともあるでしょう。とにかく、チームの知性派軍師役としても機能するようになります。
黄金の日本ジュニアには、剣術や武道の専門家である支那虎や、音楽という芸術ジャンルの専門家である河井や、庶民派代表でコミュニケーションスキルの高い石松と、心根の純粋さと不屈なタフネスで人を感じ入らせる竜児と精鋭が揃っていますが、世事に長けたインテリ情報通がいない。
財閥御曹司として、チームマネージメント役もこなせるような資質を開花したのが、剣崎の魅力ともなっています。
兄貴分どころか、一人だけ大人の世界を知っているんですね。外見的には、支那虎がおっさん風味ですが(のちの車田マンガからは外されたポジション)、精神年齢的には剣崎の方が上に見えますな。
剣崎家の教育環境は断片的にしか描かれておりませんが、相応の帝王学は施されていて、然るべきでしょう。
剣崎の性格だから、素直に教育を受け入れていたとは思えませんが、天才ですから自分に必要なことは素早く取り入れて、活用することができると考えます。
グループマネージメントなんてのは、他のメンバーには学ぶ機会さえありません(黄金の日本ジュニア活躍当時、彼らは中学生です)。しかし、剣崎だけはチームリーダーとして財閥運営のために学んだマネージメント技術を活用できたのではないでしょうか。
そして、チームマネージメントの基本は、メンバー一人一人の資質の把握と、チーム全体の目標の共有です。誰に何ができて、それぞれのモチベーションを高める手法を知って、実践できる。
チームを一丸にまとめるには、自分ではなく竜児をトップに掲げることが有効だし、自分は竜児の後見役としてサブに徹する方が、他のメンバーも竜児との友情のために頑張るという姿勢で立場を共有できる。
剣崎の人心掌握術は、大将の竜児を神輿に掲げることで、自分は軍師役のポジションでバックアップするという立ち位置を明確にしたことですね。自分が出しゃばるのではなく、手腕をフルに発揮できる立ち位置に身を置くということです。
もちろん、決定権は竜児にあるわけですが、竜児が人に意見を押しつけるキャラでないことは分かってますからね。
そして、全員勝利の高い目標を掲げることで、一人一人の力量を対等な仲間として認めたという証です。天才を自認する男に、力量を認められるというのは、誇らしいですよ。
天才というネームバリューには、それだけの価値がある。
孤高ではあっても、孤立はしておらず、チームを引っ張って、仲間の力量や漢気には敬意をきちんと示す。
中学生とは思えぬリーダーシップだなあ、さすがは剣崎順、スーパースターよ。
なお、剣崎順の後継者は、フェニックス一輝だとずっと思って来ましたが、そのリーダーシップの取り方は、城戸沙織お嬢さまが違う形で継承しているなあ。
お姫さまのために戦うというのは、リンかけではなくて、次の風魔の小次郎からの定番ですが、北条姫子というヒロインは途中で物語からフェードアウトして、結局、小次郎はヒロイン色皆無の物語になった。
一方、続く星矢は、剣崎要素の一部を沙織お嬢さまが継承し、さらに沙織お嬢さまの昏睡状態は、飛鳥武蔵の妹の絵里奈ちゃんが持ってた悲劇性を戦士の戦う動機として昇華した要素があるかな、と今さらながら思いついた。
ともあれ、当初はぼっちだった剣崎ですが、ぼっち=孤高ではない。
孤高とは、自立心、独立心を意味しても、決して仲間外れとか、チームに溶け込めないわけではなく、
馴れ合い感情で突き動かされず、チーム内での己が役割をきちんと果たすポジションに身を置き、クールに振る舞うことです。
そもそも、チームから完全に距離を離してしまっては、高みにいる姿も見せられない。
チーム内でも、しっかり孤高を保ち、存在感を維持し続けた。これも剣崎順の天才性の証明である。
剣崎を創作の素材に料理するとして
元々、敵だから傲慢かつ尊大な物言いも、キャラとして許されるというのは大きいですな。
主人公以外には、負け知らずというのもいいし、仲間と認めた人間に対しては、見下さずに敬意を示すというのもいい。
そう、尊大ムーブで失敗するキャラ造形ってのは、相手構わず見下す一つ覚えなところです。
拳を交えて、力量と人格を把握して、一人の漢と認めた相手には、相応の敬意を示す。
「この天才が認めた男だ」とか、「お前ほどの男がそう言うとは、何かあるのだろうな」とか車田マンガの人気キャラの多くは、尊大ながらも相手を持ち上げる発言が格好よくて、相手を持ち上げることで自らの格もいっしょに高めるセリフが光ります。
天才は、誰かれ構わず相手を見下すのではなくて、相手の資質を把握してから言葉を選ぶものですな。
だから、天才の発言には重みがある。
やたらと他人を見下すのが天才だと勘違いしている創作家は、天才というものが分かっていない。
もちろん、全てを見下す神のような傲慢さが売りのキャラもいます(例:BASTARDのダークシュナイダー)。
あれは、邪悪な魔術師という設定から、派生したギャグ的な個性と認識していますが、全てを見下す自称・天才は、ふつうに嫌われます。と言うのも、他の登場人物の魅力を損なって、彼独りのワンマンショーになって、世界とそこに生きるキャラの魅力を貶めることになりますからね。普通はそうなる前に負けるのですが。
まあ、『バスタード』という作品は80年代後半から90年代にかけて一世風靡し、その後、21世紀に入ってから未完の続きをゆっくり発表はされていたのですが、2010年にまた中断。
天才を語る際に、DSのキャラの特異性も注目には値するのですが、キャラ立ちしているのは間違いないとは言え、彼をモチーフに作品を作ると、物語世界の魅力を自ら損なってしまうという理屈になります。
元々、『バスタード』という作品が既存の少年マンガの常識に対するアンチテーゼという趣きが強く、破壊することで生み出すカタルシスこそが魅力の一つでした。普通の創作は世界観の構築を目指して、魅力的なキャラや世界観の確立にファンを引き込むものだと考えますが、『バスタード』は90年代という時代性ゆえか、世界の破壊と否定をテーマにしている節があります。多分に世紀末風なんですね。
比較対照できるのが『新世紀エヴァンゲリオン』なんですが、あちらは少年の心象風景とセカイを重ねて、いわゆるセカイ系の物語を展開した挙句、破壊前の世界の再生と新出発に帰結したと考えます。
エヴァの帰結先は、結局、世紀末の旧エヴァも、新劇場版のゴールも碇シンジが生きる新たな世界の再生なんですが、その新世界の描写が異なる。旧エヴァのゴールは、聖書よろしく失楽園のアダムとエヴァを想起させる生き残った男女の再出発でした。ハッピーなのか解釈に迷う世界で、たった2人の生き残りがサバイバルしていくしかないのだろうな、と。少年と少女が仕方なく寄り添って生きるしかない、ほぼ世界滅亡とも、2人からの新出発とも受け取れる神話風帰結点。
一方の新劇場版のゴールは、昭和っぽい田園風景で、自然豊かな新世界。現在の理想郷とも言えるレトロでエコな世界に帰結します。昭和って我々の世代にはノスタルジーですが、今の若者たちにとっては旧世紀の半ば神話伝承に近い世界イメージです。
我々の世代にとっては、少年期の30年前って50年代、つまり戦争直後の初代『ゴジラ』辺りの世界観ですな。感覚としては、おじいちゃんたちが生きていた頃で、神話とまでは行かなくても伝承でしょう。ゴジラというだけで神話っぽくなる感ですが。
いずれにせよ、エヴァは破壊の後のノスタルジー的新出発を、世代を越えて違うイメージで描いてみせた。形は違えど、破壊と再生です。昔よりは、明確なハッピーエンドに見えますな。
一方、同じような神話物語の『バスタード』は、破壊を描くけど、再生にまでは漕ぎ着けずに、風呂敷がたたみきれない物語です。その世界観については、構築しているように見えて、実は破壊するために描いているだけの「虚飾性に満ちたハリボテ」でしかなく、そこに生きる人たちの生活的リアリティを感じません。
最も生活色のあるキャラは、ルーシェ少年の洗濯シーンぐらいですが、DSを始め、登場人物がみんな世界を守るという意義に足場を固めていないうえ(アニメ最近作でも抽象的な武士道精神とか、言葉が上滑りしているんですね)、そういう人たちさえ、DSが敬意を示すことなく、ザコどもと平気で見下す。主人公が悪漢タイプなので、知り合いの女の子は守るけど、世界のことはどうでもいい的な感覚です。
そして、作者がDSに作中キャラをディスらせ、世界にも関心を向けない態度をとることで、己が力を注いで構築したキャラクターたちや世界の光景を自分で貶める形をとって、自分で作って自分で壊す、では、その作ったものに少しでも魅力を感じた読者の気持ちは? と言うと、その崩し方、壊し方を芸として楽しめる人なら、いっしょに楽しめるのかもしれません。
仕込んだ花火をパーンと弾けさせ、その刹那的な大輪の花が夜空を照らす様を愛でる感じなら、美しい破壊の物語を堪能できるのでしょうか。
『バスタード』は何かを創造する作風ではなくて、破壊の美学を感覚的に楽しむ作品だから、ダーク・シュナイダーもそれに特化したキャラクター性をしているのだと考えます。だから、非常に世紀末な空気を表現した作品なんですな。
自分で描いたキャラたちでさえ、他人の信念や理想でさえ、平気でDSに貶めさせて笑いをとって、マウントをとる。多分に感覚的な作品です。表面をさらって自虐的に積んでは崩すことを楽しめるなら、『バスタード』のキャラ像から学べるものはあると思います。
ただ、自分的な価値観からは、DSのキャラ像を参考にするのは自分の世界観やキャラへの愛着すら破壊する双刃の剣だと考えます。
全てを見下すキャラは、自分の足場さえ破壊する天災レベルの天才なので、扱うのが非常に難しいと考えます。破天荒とはこのことかと。
話を戻して、剣崎順です。
己の天才性に絶対の自信を持ち、傲岸不遜で、主人公以外には負け知らず、という意味で、DSとの類似性が強いキャラなんですが、DSの場合は女主人公のヨーコさんには頭が上がらないのですね。
なお、DSの原型は『西遊記』の孫悟空にあると考えますが、異世界の妖怪みたいなものだから、あそこまで破天荒に振る舞えた、と。
剣崎は異世界人ではなく、社会のルールの範囲で生きてますから、リングの上に銀河や隕石のイメージを召喚することはできても、不死身ではありませんし、異世界でバトルして、その天才ぶりが通用するとも思えません。せいぜい、制極界を張ってカウンター狙いかな。
まあ、聖闘士の世界に行けば、あっさり小宇宙に目覚めて、ギャラクティカ・マグナムで異世界の壁を突き破って行けそうですけど、ここでは物理的常識の話ではなく、人間性、キャラクター性の話です。
やはり、本人の力量もさることながら、解説役もできますし、他人の見せ場も奪わない名脇役的なポジションも取れる、キャラとしての使い勝手の良さが魅力ですね。
つまり、剣崎一人で、主役、悪役、チームリーダーおよび軍師ポジション、資金提供のパトロン役、ラブロマンスの男優、さらに続編を含めると主人公の父にして、乗り越える壁となった伝説のボクサーまで実に多芸。コミカル芸が一切ないのも、天才としての貫禄を保つには欠点と言えないし。
ある意味、空条承太郎に近いほどのキャラ立ちをしている、と。
出しゃばらずに脇役となって、他のキャラを立てるムーブが行えると、キャラとして物語世界を表現・解説するうえで本当に重宝します。
「これぐらいの敵なら、天才の俺が手を出す必要もない。後は任せたぞ」
「ああ、お前は先の強敵の相手を頼むわ。後から追いつくから」
「フッ、死ぬなよ」
「いいから、さっさと行け。時間がないんだからよ」
こんな感じのムーブですな。これがもしもDSの場合、
「これぐらいのザコ敵が、この超絶美形主人公の俺さまの行く手を遮るだとぉ? 身の程を知るといいわ。爆烈(ダムド)」
チュドーン。
「お、おい。危うく俺たちを巻き込むところだったぞ。もう少し加減しろよ」
「何ぃ? お前たち下僕の命がどうなろうと、俺さまの知ったことか。自分の身が守れないなら付いて来るな。足手まといだ」
「ちょっと、ルーシェ君。味方に対して、そんな酷いことを言う子はお仕置きだぞッ」
「ヒィイイッ。ヨーコさん、ごめんなさいぃ」
「……やれやれ、仕方ないですな。今は時間がありません。つまらない内輪もめはそれぐらいにして先を急ぎましょう」
たぶん、こんな感じ。
『バスタード』を知ってる読者さんにDS以外のセリフが誰かを当てることができれば、自分の即興会話芸もなかなかの物と思ってみます。
で、DSがそこにいた場合、他人の見せ場をあっさり奪ってしまって、しかも格好良いシーン作りよりも、ギャグ風なやり取りに尺を使って、仕切り役がアビゲイル辺りになってしまう、と。
DSは突撃隊長になれても、チームリーダーにはなれないんですね。味方をサポートするタイプじゃなくて、勝手に付いて来いタイプなので。まあ、女性キャラ相手だと、多少のフォローはできるでしょうが(しばしば下心込みで)。
これで格好よく尊敬できる天才キャラかと言えば、お笑いキャラの方向性かと。
何にせよ、DSのキャラを声優さんが演じようと思えば、テンションの上げ下げが激しくて、いかにも大変そうだなあ、と自分で書いてみて思いました。
改めて凄いな >谷山紀章さん。
ともあれ、剣崎順に見られる天才を描くコツは、「強固な信念や美学をしっかり持っていて、良いものと悪いものをしっかり区別する」でしょうか。
能力面は作品ジャンルによってまちまちですが、感情論で好き嫌いを短絡的に決めつけるのではなく、信念や美学をセリフにすれば、そのまま格言にもなるレベルで、物事を考えている。本質をしっかり言い当てる。これが天才です。
つまり、天才は自分にとって本質でない枝葉にはとらわれない、というか気にしない。アウトオブ眼中です。ただ、自分にとって本質であることに間違った意見を聞くと、スルーできずに、ついうっかり口を挟んでしまう。
天才に口を開かせる方法は、簡単です。その人物の専門分野で、明らかな間違いを示せばいい。喜んで、こけ下ろして、信念を語ってくれることでしょう。
天才である自分の前で、よくもまあ、そんな愚かなことを口にできるもんだ。
そこで自制できる天才と、自制できない天才がいて、前者は「いやいや、ここで議論に乗っても仕方ない。時間の無駄だ。誰かがこいつのおかしな考えを正してくれれば十分。誰か出て来ないか?」と考えるのだけど、そうやって様子見しているうちに、話題が次に切り替わって、タイミングを外してしまうのも経験あり。
後者の自制できない天才は、感情的になりますので、とりわけ自分の足元でそういう議論が行われていると、喜んで参戦して来ます。自分も経験ありますからね。
なお、コミックの演出だと、剣崎辺りは正面から受けて立つのではなく、「おい、待てよ」と相手の後ろに立っていて、目を閉じて、壁に背をもたれかけながら腕組みしている。相手に振り返らせるのがポイントですね。いつの間に後ろに立って、悠々と話を聞いているポーズをとるのがいい。
コミックには絵がありますので、立ち位置指定までできる。会話劇だと、まず無理ですね。
会話で同じことをしようと思えば、
謎の声「ちょっと待った」とか「意義あり」と発言して、
「何者だ?」とか「まさか、お前は……」とリアクションさせて、
段取りを踏んでから、反論させる流れです。
まあ、掲示板議論では、そういう天才っぽい小細工は無理なので、文章の中身で勝負するしかないのですが、別に掲示板議論について書きたいわけじゃなくて、今は創作論ですな。
天才は元来、語りたがりなんですが、つまらない話はしたくない。ジレンマです。
寡黙な天才は、その話を上手く引き出して、理解してくれる人間が必要です。インタビュー記事の対談相手は、軽妙でウィットに富んだ口調で、天才芸術家などの胸のうちを引き出してくれます。インタビューの天才は、相手の本質を汲んだ取材を行ってくれますが、三流週刊誌のインタビュアーは相手の本質なんかに興味がなくて、ただセンセーショナルな記事が書ければいいので、そういう誘導を試みようとします。
本質を探るのが天才インタビュアーで、天才というものは自分の仕事に対して真摯なものです。
逆に、真摯ではなくて、手っ取り早く結果だけを求める非天才は、話を誤解して、勝手にそれっぽくウケるようにアレンジします。その誤解の度合いが大きいほど、インタビューされた本人が言ってないことまで捏造されるわけですね。
一方、冗舌な天才は、今の時代、インターネットで自己発信しますので……って、剣崎の話じゃないな、これ(苦笑)。
ええと、剣崎は冗舌キャラでもなくて、実は作者の車田正美さんも決して冗舌なタイプじゃない。含蓄ある硬派な言葉を、ビシッと手堅く突きつけるタイプだ。
だから、自分もビシッと突きつけます。
剣崎は、挑発的な爆弾発言をビシッと言い放つキャラです。
短兵急を刺す、的な発言で、相手の気分を逆撫でしつつ、余計な議論はしない。拳で決着をつける。だって、ボクシング漫画であって、議論が本題じゃないから。
そして、剣崎のストレートな短い言葉を、双子の弟の影道殉総帥が兄の本心を含めて解説してやると、凄く良い流れになる。
影道総帥が登場したことで、言葉足らずで挑発的な剣崎も、実にキャラとして丸くなったように印象づけられたなあ。
そんなわけで、天才キャラを読者に受け入れやすいように演出しようと思えば、その本心を代弁できるキャラを近くに配置するといいよって結論でした。
シュウ・シラカワの使い魔のチカとかも、そういう役割だし、寡黙な天才なら、本心をうまく読みとって、代弁できるキャラがいれば、その魅力が伝えやすいってことですね。
シャーロック・ホームズのワトソンなんてのも、そうだし。
フッ、やはり、そういうことか
天才には、彼を理解する相方が付くのが望ましい、という結論は、月並みと言えば月並みですが、そこを掘り下げようと思えば、相棒(バディ)論に話が拡張しますので、今回はこれぐらいにして。
ここでは、次に手軽に天才キャラを構築できる「天才セリフテンプレ」を分析していきたいと思います。
小見出しどおり、「フッ、やはり、そういうことか」。とりあえず、このセリフを言わせれば、作者はこのキャラを天才らしく格好いい人物として思い描いているし、読者にもそう思って欲しいことでしょう。
少々、形を変えて、「フッ、なるほど、そう来たか」とか、「フッ、その技はすでに見切ってる」「フッ、ムダなこと」とか、「ふむ。やはり、そうなるよな」とか、いろいろ応用パターンを考えて、アレンジすると幅が出ていいでしょうが、
まずは、基本テンプレを分析しながら、使用上のご注意も試みたいと思います。
1.フッ(高みに立ったように鼻で笑う)
天才というか、クールキャラのテンプレですな。
なお、車田キャラですと、この笑みとともに目を閉じると、スカしている感じが高まって、美形キャラっぽさが上がります。
基本は、格上が目下相手に使う前置き口調ですが、仲間のセリフに同調するように、軽い同意の笑みを浮かべるとか、寡黙キャラが自己アピールするのにも使えます。
ただし、「ふう」とか「ふ〜」と伸ばすと、疲れて一息ついてるとか、呆れてため息をついているようにも聞こえますので、短く、シャキッと切り詰めるのがコツです。
また、格下がそれまで負けていたのに、相手の技の仕掛けが分かったりして、これから逆転に移る際にも使えます。
「フッ。どうやら俺にもようやくだが、仕掛けが見えて来たようだぜ。今の技、もう一回、打って来いよ」
「何を生意気な。貴様ごときに見切れる技だと思うてか。よかろう、次こそトドメを刺してやる。くらえッ、(技名)!」
(やはり、そうだ。一見、隙のない完璧な動きに見えて、左肩の回し方がやや不自然だ。さっきの激突の際に、痛めたのを無意識に庇っているのか? こちらの攻撃もムダじゃなかったみたいだな。その隙を活かせば、万に一つの勝機が得られる。勝ち筋が見えた!)
こんな感じで、相手の力量や弱点、攻略法を見切れたと確信したときに、余裕を見せつけることが可能ですが、その直後に逆転されることも有り得ますね。フッと笑った後に逆転されると、非常にマヌケにも見えますので、カウンターには要注意。
「フッ。また、それか。その技は通用せんと何度言ったら……って何ッ!? 技の軌道が急に変わった? こ、これは一体?」
余裕を見せていたのに、油断して負けるフラグにもなっていますので、フッの使い過ぎにはご用心。
一番、安心なのは、味方を応援してる観戦モードで使うことですね。「フッ、どうやら勝ちは見えたようだ」
あと、負けが確定したときに、覚悟を決める際にも使えます。「フッ、どうやらここまでのようだ。さあ、トドメを刺すがいい」
この「フッ」を一文字違いの「クッ」に変えるだけで、潔さを悔しさに変えたり、女戦士のエロシーンを連想しますので、負けモードに早変わり。
フとクを入れ替えるだけで、既存のセリフもニュアンスが大きく変わって来ますので、試しに読み比べてみるのも一興です。
「フッ、バカなことをするな」(余裕顔で制止する)
「クッ、バカなことをするな」(焦り顔で懇願する)
2.やはり(前もって分かっていたかのような副詞)
「やはり」、リアルでもよく使う副詞です。
「フッ」はどちらかと言うと、芝居っぽく響き、現実で使う人はあまりいないと思いますが(「ふう、終わった終わった」と作業終了後に使うのはあり。でも、「フッ、終わったな」と格好つけて喋る人っている?)、
予想どおりのことが起こったら、「やっぱり、今日は雨か。チッ」と呟いてみたり、「やはり、無理か」と上手くいかないのを嘆いたり……どちらかと言えばネガティブ語だな(苦笑)。リアルでは意識しないと、予想がネガティブになりがち。
まあ、たまに「やっぱり、その問題出たやろ。よしよし」って言う時もあるし、「やっぱ、こういう時はカツカレーっしょ」と験を担いだ食べ物を決めるときにも使う。
この言葉単独だと、天才とは程遠いな(苦笑)。
人によっては、「やっぱ、この馬に賭けて正解だったな」とか、「やはり、この作品はいいよなあ」とか、「やはり、俺ってツイてる。超ラッキー」とか、「やっぱり、俺って天才だよな」とか、良くも悪くも応用範囲が広いです。
そして、やはりの反意語は「まさか」と思うんですね。
予想どおりのことが起こった「やはり」に比べると、思いがけないサプライズで慌ててる感じ。
「まさか、雨かよ。チッ」
「まさか、無理だったとは。行けると思ったのに〜」
「まさか、本当にその問題が出るとはな。念のためチェックしておいて良かった」
「まさか、こう言うときにカツカレーを食べない手はないよな」
「まさか、この馬が来るとはな。大穴狙いしとけば良かった。当てた奴はいいなあ」
「まさか、この作品がこんなに化けるとはな。あまり期待してなかったのに、追っかけて正解だった」
「まさか、今日は厄日か? この俺がこんなつまらんミスをするなんて。疲れているかもしれんし、慎重に行こう」
「やはり」を「まさか」に置き換えても、日常使用できそうです。
まあ、世の中、予想どおりに行ったり行かなかったり、どっちもあるので、「やはり」だけでもつまらないし、「まさか」ばかりで驚きまくりの人生もカオスだらけで、面白くはあるけど頭がおかしくなりそう。
両方バランスよく使えてこそのリアルだし、フィクションでもメリハリがあってよろしい。
なお、フィクションでは「やはり」が天才キャラの常套句ですし、「やはり、貴様は愚かだったようだな」とは他人を見下すときにも使えます。
しかし、「まさか、これほど愚かだったとは、思いもしなかった」と言われる方が、愚かの度合いが強調されませんか?
全てが天才の予想の範囲内で収まる物語って、つまらないと言うか、天才の優位性を示すのに夢中になりすぎて、物語が予定調和に収まり過ぎると、天才が出ているにも関わらず、ストーリーが平板になってしまう。
天才がいつも「やはり」と言っていたんじゃ、物語がハネないわけです。
さしもの天才も、「まさか」と驚く異常事態が起こってこそ、物語が刺激的に膨らんでいく。
天才がバカの一つ覚えで、「やはり」を繰り返していては、物語の面白さに貢献できません。物語をつまらなくしてしまうのでは、何のための天才設定なのやら。
作中の天才キャラって、事件の通常性と異常性を受け手に伝えるリトマス紙の効果を発揮します。威厳のある天才にとっては、十分予想できる「凄いけど、まだ当たり前のこと(やはり)」と、天才すら驚愕するほどの「異常事態、大災害、奇跡(まさか)」の使い分けで、物語のメリハリが付いて来ます。
全てを「やはり」で済ませてしまう人間ってのは、頭が良さそうに見えて、退屈です。何というか、話をしてもつまらない。本人は賢い自分を演出しているつもりかもしれないけど、感動のなさ、平板さに慣れた人間はクリエイティブとは言えない。
これはリアルで人と会話する時の注意点ですが、相手の話を聞きながら、「やはり、そうですよね」と相槌を打つのは、同意を示す定番句で悪くはない。悪くはないんですけど、それしかできずに何を聞いても、「やはり、そうですね」じゃ、話を受け止めているようで受け止めていないように聞こえるんですね。
相手の話の中には、「当然の常識」と「驚かせたいポイント」の両方があるわけで、話し相手には、その両方を理解してもらいたいわけです。まあ、常識や正論しか言わない相手もつまらないですが、普通、人に何かを話したい人間は「驚いたこと」や「珍しいこと」を伝えたいと思っているわけです。まあ、世界が狭い人間は「つまらないことに驚きを示す」こともしばしばですが、この「つまらないことを面白がるセンスに、掘り出し物(セレンディピティ)を感じて刺激をいただく」こともございますので、子どものピュアな驚きに感心させられる機会も、自分は職業柄、恵まれていると思います。
つまらないと思われがちなものの中に、思いがけない驚きが隠されている、となれば、それを見出すセンスもまたクリエイティビティと考えます。
まあ、子どもの話が全てセレンディピティとは限らないのは、大人の話と同様で、相手次第なんですけどね。
普通につまらない子はいますし、そういう子に勉強の面白さを伝えるのが仕事だとは考えていますが、それはさておき。
大人のクリエイター志望がつまらないことしか言えない、表現できないのは、どうよ、と思います。
「やはり」だけで達観したような見せかけを装うと、そうなりがちです。元々、知識が少ないコンプレックスが募ると、「やはり」と知りもしないことを知っているように見せる姑息さが癖になるようですね。
分かっている人間の「やはり」と、分かっていない人間の口癖みたいな「やはり」は、その人の話を聞いたり、読んだりしていると分かります。
そして、分かっている人間は、自分の知識の範囲に応じて、「やはり」と「まさか」を使い分けられるので、「ここまでは知ってるから、やはりと反応できる」「ここから先は分かっていないから、話を聞いて感心したり、まさかと驚きを表明できる」と虚飾なくリアクションできる。
自分は全てを知ってて達観できる天才じゃないけど、好奇心をもって全てを吸収できる天才ではありたい、と常々思って来ました。まあ、好奇心が持てない分野もありますし、自分より詳しい人間もいて、そうそう天狗にもなれませんけど、自分より詳しい人間がその知識をポジティブに、面白く加工して発信してくれる様には憧れて来ました。
だから、今こうして書いてる自分がいるんですけどね。
そんな一人の自称・天才が、天才に興味を抱いている天才もしくは未来の天才候補に向けて、書いている文章です。
そして、単純にコミュニケーション手法として、「やはり」で全てを処理してしまう口癖が付いてしまった人間は、賢く見えないんですよ。考えが閉じていますから。
時には「やはり」で分かっている感を示しつつ、相手が本題に持ってくるサプライズには、「まさか」とビビッドに反応してくれる、感銘してくれる、驚きのリアクションを示してくれるのが、良いリスナーシップというものです。
それには、「この話は割と一般的な常識」「この話はレアで、ここだけでしか聞けないお得情報」と峻別する程度の鑑識能力が必要なんですが。
何を聞いても「やはり」と応じてしまうのは、何を聞いても「まさか」と驚いてばかりの無知と大差ないです。情報価値に応じたリアクションで、人の話を受け止めていないという意味で。
天才の資質は、完成されて固まった発展性のなさではなくて、まだまだ伸びしろを備えた成長途上の柔軟性にもあると考えます。
「やはり」の先見性と「まさか」の新奇性の両方を示せてこその天才と主張してみる次第。
3.そういうことか(どういうことだってばよ?)
はい、この項目で当記事は終了です。
もう少しで終わりますので、頑張って付いて来てくださいね。途中で脱落した人は残念ですが、たまたま、ここまで流し読みして来た人は、「フッ、やはり、そういうことか」で納得してくれているかもしれません。
そういう人は「一を聞いて、三、四までを知る」読解力の持ち主と見ました。小見出しだけを見て、面白そうだと感じて詳しく読むとか、いろいろな読み解きスタイルもありますしね。
もしかして、あなたがすでに天才の領域に達しているなら、「一、二を聞いて、五、六までは知悉できる」かもしれません。
普通の読解力がある人間は大体、自分が見聞きした範囲の3倍程度までは推測と想像で補えるものですから。
まあ、見聞きした範囲の半分ぐらいしか理解できずに(これが読解に慣れていない凡人レベルです)、残り半分は誤解だらけの思い違いをやらかす人もいて、そういう人間は0.5しか読み解けていないから、5まで読み解けた人を10倍読めてると錯覚するものなんですね、おそらくは。
ともあれ、NOVAの文章は、「一、二を聞いて、十まで知れる」と豪語する人でも読み解けない代物です。大体、そういう人は、知ったと思しき内容の残り半分は、自分独自に作って、より高度な物語や思想に構築しちゃってる人なんですけどね。他人の文章を丁寧に読むのではなく、自分のインスピレーションの餌にしちゃえるクリエイターさんとか、独創的な天才さんです。
そういう糧に自分の文章が貢献できれば、別に礎でもいいよ、と考えるのがNOVAですが、礎には礎の誇りというものがございます。
フッ、俺の文章はそんな読み方じゃ対応できん。なぜなら、奇想家ならではのサプライズを狙っているし、論文を書いたら「起承転転で結論が見えん」と恩師に指摘されて、「歴史は結論の見えない過程ですから」と生意気に答えたら、「歴史論文は歴史じゃない。論文としての結構を整えろ(苦笑)」と指導された前歴の持ち主だから。半分事実で、半分盛ってますけど。
まあ、油断していると、書いている本人でも、どこに転がるか分からないこともしばしばの文章を、どこの他人がろくに読まずに十まで読み解けるものか、と言ってやりたい。
それって、論理的な説明文では、悪文なので、ちっとも誇るところではないのですけど、エンタメだったら、それもまた一興という幅の広さがあります。面白がって、付いて来てくれる読者さんがいるのなら。
で、サプライズです。
「そういうことか」と分かったようなフリをして、話を中断してはいけません。「ああ、そういうことですね。分かりました」と言って、話を終える人の多くは、おおよそしか分かってなくて、誤解しているか、致命的なポカをやらかしてしまいます。本人は分かっているつもりなので、性質が悪いです。
「ああ、そういうことですか。分かりました」と言っている部下の、勘違いぶり、思い込み過多ぶり、単に長い話を聞きたくないだけの横着ぶりに、とんだ目に合わされた上司の何と多いことか。
ご同情申し上げます。
まあ、実際に作業して、分かっていなかったことに気づきながらも、その場で的確な判断ができて、問題なく事を収められる部下であれば、上司も安心できるんですけどね。
頭で分かったつもりになって、できると思ったらできなくて、上司に申し訳ありません、と頭を下げて尻拭いをしてもらい、次こそはこの経験を活かすぞって考える部下、というか一般社員やアルバイターの経験も分かります。
まあ、そういう経験もしたりしながら、人は成長したりできなかったりするんですね(遠い目)。
で、そういうリアルなトラブルの原因を予防するには、できる上司はダメそうな部下にこう尋ねます。
「そういうことって、どういうことだよ。君の理解を説明してくれ」
ここで、コミュニケーション能力が求められます。会社員であっても、作家と編集者の間柄でも、教師と生徒であっても、コミュニケーションの不整合(噛み合わなさ)は、作業の円滑な進行に滞りを見せますから、相手の理解の程度を確認することは必要です。
まあ、授業なら、ここで練習問題を解かせると、すぐに分かるんですけどね。一応は、言葉で自分の理解を説明する練習もさせているわけです、時間に余裕がある時は。まあ、口下手な生徒にはフォローを入れながら。
リアルな話はさておき、創作論です。
天才の「そういうことか」は当然、言いっぱなしではいけません。たまに、天才のキャラ付けのためだけに、「何と、そういうことか」と言わせるだけ言わせて、すぐに答えは示さずに、連載で半年以上経ってから、答えを返して、単行本の6巻の謎が解明されるのが10巻を過ぎてから、とか、作者も「そういうこと」の答えを忘れてしまい、未解明の謎のまま終わるとか、10年後の後日譚で明かされるとか、いろいろなケースが考えられます。
その場合、その場で、あるいは次回の話で答えが示されると、受け手としてはスッキリできるんですけどね。まあ、未解明の謎を考察するファンの楽しみもありますので、「そういうことか」で分かる人だけ分かるように、ネタ振りだけする手法も確かにあります。
王道とは言えませんけどね。
「そういうことか」で、自分だけ分かっているように見せかけて、答えを提示しないのは、真の天才とは言えません。
ですから、天才の会話相手には、「知っているのか、雷電」とか、「どういうことだ?」とか、「ほう、お前にも見えたようだな(上から目線でマウント)」とか、「勿体ぶらずに、言ってみろよ。本当に分かっているのならな(下から挑発)」とか、いろいろなリアクションで天才の気づいたことを喋らせないといけません。
つまり、天才には発話を促す相方がいないと、その物語の受け手に、その天才ぶりを示し得ないわけです。
誰も聞いていないのに、思ったことを一人でもベラベラ喋る、壁とも会話ができるイタいキャラに、あなたの大事な天才キャラをしたいのでなければ。
天才に発話を促し、その会話に聞き入り、「なるほど、驚いたぜ。まさか、そういう話だったとはな」と感じ入ってくれる素直な聞き役がいればこそ、読者もその天才の凄さを理解し、作者の相応のアイデアに感心し、満足が得られる。
なお、天才が答えを示さずに、周囲のキャラが代わりに天才の言葉足らずを補うケースもありますし、天才がヒントだけくれて、後は自分で考えろ、と劇中キャラの思考を促して答えに導くケースもあります。*1
「フッ、そういうことか」
「どういうことだ?」
「奴の足元を見ろ」
「ん? え? ああ、そうか。なるほどな」
「何が見えた?」
「砂地なのに、足跡が付いていない。つまり、奴の実体はここにない」
「そう。我々は幻に翻弄されていたことになる。もう少し早く気づくべきだった」
「幻なのは分かったけど、だったら奴の本体はどこに?」
「シッ。何か聞こえないか? 耳を澄ませてみるんだ。バカでも野生的な聴覚を持っているお前なら、奴の動きが聞き取れるやもしれん」
「バカは余計だ。野生的とか、それで褒めてるつもりかよ。普通に耳がいいって言えばいいじゃないか。ったくよう」
「黙って聞け」
「ん? 足元だ。攻撃が来るぞ、跳べッ!」
「おう」
真下からの攻撃を跳躍してかわす2人。
「フッ、今の攻撃をよくぞかわした。さすがだと褒めておこう。しかし、この〈砂地の悪魔〉、蜃気楼使いのデムージュ様の姿を見て、生き残った奴は今までいない。覚悟しろ」
「何がフッ、だ。そういうセリフが似合うツラかよ」
「蜃気楼使いか。地上に幻覚を映し出して、それに注意を引きつけている間に、本体は砂地に潜伏して、奇襲攻撃を仕掛けてくる。タネが分かれば、大したことはない。しょせんは小物だ。我々2人に姿をさらして、勝ち誇っていられるとは笑止。この俺が手を下すまでもない。後は任せたぞ」
「貴様、逃げるのかッ?」
「おっと、デブージュさんよ。お前の相手はこの俺だ。あいつの上から目線のセリフに腹が立つのは分かるが、そうカッカとしなさんな」
「ムカつくのはお前も一緒だ、小僧。人のツラとか、デブージュと名前を間違えるとか、無礼にも程がある。先にお前から始末してくれるわ」
こんな感じで、相方がいれば、クールな天才の上から目線も生きて来るわけですね。
ちなみに、天才に相方がいない場合は、その上から目線は読者に直接、向けられます。作者が読者をバカにしているように映ると、その物語は読者にとって読んでムカつく作品になってしまいます。
天才がバカにする対象に、作品の受け手を含めないように、上手く書き方をコントロールしないといけません。
天才の役割は、読者のヘイトを向ける悪役として倒されるか、それとも主人公の魅力を引き立てるスパイスになるか(上から目線でありつつも、主人公の才能をきちんと見抜いて、口に出して解説しないといけません)、敵を攻略するアドバイスを示すか、天才だからこそ求められる立ち位置はいろいろです。
そういうことか。
口で言うだけなら、バカでも言えます。
そういうことの中身を作者がアイデアを出して、そのアイデアの良し悪しを天才にも評価させてあげないといけません。
タネが分かれば、大したことはない。作者のアイデア(小物レベル)を天才が上から目線で批評しつつ、もっと凄い敵にはもっと凄いアイデアを出して、天才さえ驚かせるように磨きをかければ、読者も驚いてくれる(かもしれません)。
思いつきのアイデアは、その瞬間は珠玉のように感じるかもしれませんが、少し距離を置くと、自分のアイデアにも「珠玉」「月並み」「陳腐で、そのままだと使えない」など格付けができるでしょう。
自分の中の天才に、そのアイデアの評価をさせて、どう使うか吟味するのが、クリエイターの才覚というものです。
いかに天才クリエイターでも、全てのアイデアが珠玉ということはありませんし、たくさん考えたアイデアのうち、珠玉なものを作品として結実させているのです。
自分のアイデアの格付けを、客観的にもこなせて、下手なものに対して自信過剰にならないこと。
そのためには良い悪いの審評眼も必要ですが、他人が何に良さを感じて、その良さを自分も上手く共感できるのか。共感できないとしたら、何が問題なのか。バカにするしかできないのだったら、そのアイデアや作品を愛するファンの共感を得る作品を書くのは困難でしょう。
まあ、万人受けする必要はないのかもしれませんが、自分の作品の魅力は、アピールポイントはどこにあるのかぐらいは、多少とも自覚したうえで、自分の書く世界をより広げるなり、深めるなりが天才クリエイターの生きる道かな、と。
そういうことか。
何らかの悟りに到達できた、と感じるのは、喜ばしいことです。
まあ、悟りの道もまた奥が深いので、これがゴールではないのですが、今回はこれぐらいで。
次回は、90年代を代表する天才主人公・桜木花道の登場するバスケ漫画『SLAM DUNK』を題材に、天才の解析を続ける予定です。
(当記事 完)
*1:いきなり答えを示さずに、ヒントを元に考える過程を描く方が、読者ウケしやすいのも事実。ちょっとした謎解きミステリーの感覚ですね。