書く動機と読む動機
NOVA「さて、今回は創作論の話だが、本質的な話をしよう。人はどうして物語を読んだり、書いたりするんだろう?」
翔花「それが楽しいからでしょ?」
NOVA「まあ、そうだな。もちろん、読書感想文の宿題のために何かを読まなければいけないという義務とか、それが仕事だからお金のために書かないといけないという職業的な必要性とか個々の事情は別にあるんだろうがな」
晶華「創作サークルに所属していて、人付き合いのために読み書きしないといけないケースもあるわね」
NOVA「サークル所属は、同じ趣味の集団が共通した楽しみを前提に付き合う社交団体で、創作だと同人誌を作ったり、互いの文章を読み合って、感想を披露しあって交流を深めるという関わり方がある。ここで大事なのは、互いの作品へのリスペクトも交えた率直な意見だな。もちろん、歯に絹着せぬ毒舌批評をする先輩もいるかもしれないが、その分、先輩も自らの作品を批判されるという環境があって、攻撃した分は攻撃されるシステムだ」
翔花「つまり、その先輩に創作能力の裏付けがない限りは、『下手な癖に偉そうな先輩』という残念な生き物になってしまうわけね」
NOVA「実力主義の世界では、優れた技術や結果を出している人間は高く評価され、高く評価している相手からアドバイスされたり、多少は口うるさいことを言われても人は受け入れられる。あるいは日頃から世話になっているもんな、と恩義を感じている相手には、頭も下げやすい一方で、逆もある」
晶華「この人は下手くそな癖に、何を偉そうに言ってんだ? とか、ろくな仕事もせずに、迷惑ばかりかけている人間が、反省することもなく身勝手に振る舞うのを見ると、何だかなあってなるよね」
NOVA「自分の実力を客観視できない人間が、控えめに消極的に謙虚に振る舞うケースはそれほど角が立たないが、逆の場合はなかなか痛いことになる。自分の実力を高めに思い込んでいる人間が、偉そうに人にダメ出ししている様は非常に見苦しいので、俺なんかも気をつけないといけないと思うわけだ」
翔花「天才でもない人間が、天才論なんて書いてみたり?」
NOVA「ああ、それは大丈夫。俺は天才だから」
晶華「まあ、自称することは誰でもできるでしょうけどね。それに驕れる天才は久しからずって言葉もあるし」
NOVA「厳密には、驕れる平家、もしくは驕れる者だが、天才に置き換えても通用する真理かもな。いずれにせよ、天才という思い込みの上に胡座をかいて、ただ威張っていても意味がない。天才と名乗る以上は、それなりの評価の場に自分を置かないと世間は認めてくれないってことだ。
「創作もそういう一面があって、人様の前にさらけ出す以上はそれなりに自信がないものは恥ずかしくて出したくない。ただ、天才というほど、驕ってはいないけど、自分の書くものに一定レベルの自信があって、書くことで同好の士との交流の機会が得られて、書くことを通じて自己主張と他者の見解とのすり合わせが行われたりして、自分自身が学習する機会も得られる。掲示板での交流もそういう一面があるな」
翔花「ああ。自分の意見を一方的に言い張るだけじゃなくて、人様の意見から学べる恩恵ね。自分が何かを書くことで、それをきっかけに人様の書きたい欲を刺激して、互いにリスペクトできる場所を構築できれば、互いの学習の場にもなって行ける、と」
NOVA「ネットでの掲示板は、サークルほどは厳密な会則とかはなくて、出入りは割と自由だが(会員制の場所もある)、ある程度、常連的に書き込んでいる人間は、ちょっとした仲間意識みたいなつながりもできる。それには、場の話題にふさわしい書き込みと、互いの見識へのリスペクトが社交に必要なスキルだと思うが、匿名板だとリスペクトはあまり必要とされないケースもあるし、その辺は場所によりけりだな」
晶華「大切なのは、話題となっている対象への一定のリスペクトと、人間関係の距離感といったところかしら」
NOVA「俺がメインで長年運営している特撮掲示板は、当然ながらニチアサを中心とする特撮感想が主題で、参加資格があるとしたら、番組をコンスタントに追っかけて、自分の好きを表明することだと思ってる。そういう場として、20年以上続けてきたので、常連さんも昭和、平成、令和の特撮作品が好きな方たちが、昔話と今のつながりを比べたり、今の作品への感想や予想(たまに不満をオブラートに包んでみたり)で緩やかな意見のやり取りを続けたりしている」
翔花「それは創作ではないわね」
NOVA「創作を通じた感想だな。そこに稀だけど、特撮に関する質問や意見をぶち込む人間が現れたりして、俺個人はそういう議論も嫌いではないんだが、そういうトラブルを求めていない客層もいるし、場の雰囲気をギスギスさせたくもないので、優先順位は今の番組感想をコンスタントに続けられる場の維持を第一に考えている。どうせ、それと異なるトラブルになりそうな話題を持ち込みたい人間は、身勝手に目立ちたい根性だけで、場の維持や掲示板の活性化を狙ってのことでもないだろうしな」
晶華「掲示板の活性化?」
NOVA「誰かが爆弾発言を投げ込むことで、みんなが多様な意見を発言して、お祭り的に盛り上がるのを理想としている人間もいて、それはそれで一つの盛り上がり方として分かるわけだが、問題はその爆弾発言を投げ込む人間が、最後まで掲示板の議論の収拾に責任を持って上手く結論づけてくれるかと言えば、そういうスキルを持たずに、火だけ付けて一時だけ相手してもらって自己顕示欲を満たしたいだけってケースだからな。
「掲示板を運営している側としては、やはり一時の祭りで盛り上がっても、その後の日常を崩壊させるような危険物を看過はできないわけだ。あと、特撮界隈はそういう盛り上がり方をしなくても、定期的に劇場版とかでコンスタントな祭りが提供されるからな。トラブルを祭りと称するのは、フィクションの中だけで十分だ」
翔花「で、掲示板も読み書きの場ではあるけど、創作物語ではない、と」
NOVA「書くというのは自己主張、読むというのは誰かの主張に接して、その見解から学ぶ行為と定義できる。まあ、人の意見をじっくり読むか、それとも流し読み程度にして、たまにネタをクスッと笑ったり、共感することもあれば御の字といったところか。読んで相手してもらうためには、何をどのタイミングで書けばいいかなど、場での経験で身につく社交性もあると思うが、社交性が欠如していると、そもそも人を楽しませることができないという、創作者としての致命的な欠陥が露呈するわけだな」
晶華「どうすれば人を楽しませることができるか、か。難しそうな問題ね」
NOVA「それを動機面から掘り下げてみようってのが、今回の記事だ」
書く動機
NOVA「俺の場合は簡単だな。頭の中で考えたことや感じたことがいろいろ吹き荒れているので、そういうモヤモヤに言葉の形を与えて、想いを整理したい。そのうえで、その整理された想いが誰かの共感を呼んだり、楽しませることができれば当たり、ということだ。もちろん、思考の整理のために書くこともあれば、書くことで自分の場を構築したいって意識もある」
晶華「一言で言えば、自己表現によって他者とつながりたいってこと?」
NOVA「他者とのつながりは、割と副産物な気もするな。何よりも大事なのは、自分の想いや考えの吐き出しや、整理だから。書きたいから書く。そうしないと生きてるって実感が得られないぐらいには、執筆中毒になっているかもしれない。俺に、書くな、と言うことは、喋るなどころか息をするな、というぐらい、他人の人生を奪う行為に相当する」
翔花「そこまで、書くことに命をかけているんだ」
NOVA「命をかけるというか、書くこと≒生命活動であり、人生そのもの、という感じだな。もちろん、書くためには相応の題材とか刺激が必要なんだが、俺にとって書く行為は、誰かの注意を惹きつけたいとか、褒めてもらいたい、評価されたいという不純なものではないとは言っておいたうえで、それだけじゃただの自慰行為なんだよな」
晶華「娘の前で、よくもまあ恥ずかしげもなく……(赤面)」
翔花「ええと、自慰行為って何?」
晶華「お姉ちゃんは知らなくていいわ。神霊候補には知らなくていい知識よ」
NOVA「まあ、自分一人で何らかの欲求を満たすことを、性行為に例えて言った比喩ってことだな」
翔花「一人遊びってことね。でも、それって虚しくない? 同じ遊ぶなら、誰かといっしょの方が?」
晶華「お姉ちゃん。今そういうことを言ったら、話がよりイヤらしい方に突き進みかねないから、あまり口を挟まない方が……」
翔花「何を言ってるのかしら、アキちゃん。わたしたちは花粉症ガールよ。花粉といえば、受粉。めしべの柱頭の先に花粉がついて、その後、花粉管を伸ばして受精することは中学生でも知ってる常識よ。つまり、NOVAちゃんにとっての執筆活動は、自家受粉に相当する行為ってことね」
NOVA「そう、真顔で解説されると、こっちもどう反応していいのか分からんが、そもそも翔花が神霊候補として仕えるのは大地母神ガイア様だぜ。大地母神といえば、豊穣を司ることは神話界の常識。神霊候補と言っても、別に禁欲とか節制を重視した神さまではないはずだ」
晶華「それはそうだけど……」
翔花「でもね、NOVAちゃん。一人遊びで終わっていると、豊穣にはつながらないのよ。やはり、遊ぶなら、他の人を交えないと」
NOVA「少し話が下世話な方向に流れかねないので(苦笑)、書く方に集中するぞ。とにかく、自分一人で好き勝手に書いて、誰にも読んでもらわなくていいという書き方もあるわけだ。個人日記はそうだろう。人に読ませることを前提としていない文章なら、変なことを書いても自己満足で済む。それはさておき、人に読んでもらうことを前提とした文章は、少し方向性が違ってくる」
晶華「どんな感じに?」
NOVA「料理に例えるなら、自分が楽しいだけでなく、人に読んでもらおうと思えば、人に美味しく味わってもらうためのリサーチが必要なんだ。そして、自分の書く作品がどういう層に向いているのか、作家はアマチュアであれ、多少は自覚的でなければいけない。まあ、そもそも書いて完成させることで手一杯で、自分の作品をそもそも客観的に評価できないレベルの者が客層云々と言っても、ハードルが高いわけだが」
翔花「自分の文章を読んで楽しめる人間がどういう層の人間なのか、ある程度、想像力を働かせる必要があるってことね」
NOVA「何よりもまず、基準は自分になるわけだから、自分が読んで楽しめるレベルの作品ってことが大前提だな。まあ、稀に自分ではつまらないと思ってる習作が、周りの人間には妙にウケて、いろいろ持ち上げられるケースもないわけじゃないが」
晶華「才能の割に、自己評価の低い人間ってことね」
翔花「ただの花粉症ガールと思ってたら、実は神霊候補の勇者だったとか?」
NOVA「まあ、物語の主人公にはありがちだな。自分では普通だと思っていたら(むしろ劣等感さえ抱いている)、突然、誰かから才能を認められて、世界が広がるケースとか」
晶華「で、その才能を発現させるためには、すごい努力や修行をしないといけないことね」
NOVA「実は、天賦の才能って、いつでも自在に発現できるとは限らないんだな。本気を出せば強いんだけど、どうすれば本気を出せるかのスイッチが分かってないとか」
晶華「ピンチに追い込めばいい。絶体絶命のピンチな状況で発現する最強の力、これこそが主人公力」
NOVA「バトル物では話を盛り上げるギミックだな。普段は秘めたる才能が見えずに平々凡々(中の下レベル)でバカにされがちなのが、ここぞというところで爆発的な潜在力が開花して、逆転勝利ってのはちょっとしたロマンだ」
翔花「本気を出せば強い。だから強敵にだって勝てるけど、普段の実力はそれほどでもないから、しっかり修行しないとって話になる」
NOVA「本気の出し方を習得するための修行だな。仮面ライダースーパー1が、最初は機械的な変身装置で変身していたんだけど、敵に研究施設ごと破壊されたので、自由に自分の意志で変身できるようにするために空手修行したのと同じだ。修行の目的は、不安定な本気モードをいつでも使えるように安定させることと、地力の底上げの両方がある。大抵は、本気モードなんて不安定なものに頼るわけにはいかないから、地力の底上げという地道な修練に明け暮れるのが現実だが」
晶華「本気を出せたら強いというよりも、普段からコンスタントに一定レベルのパフォーマンスを行えるようにする方が確実ってことね」
NOVA「確実すぎて波がないと、ドラマとしては面白くないんだけどな。常識的な力では太刀打ちできない極限状況で、主人公の持つ奇跡的な潜在力を爆発させないと勝てないという局面を乗り越えることで、主人公の特別性を強調するのが面白いドラマ作りと言える。まあ、現実はドラマよりも安定志向なので、日頃できないことを本番で急にできるはずがないという一般常識が働くわけだが」
翔花「むしろ、普段はできていることが本番では上手く行かないという残念なケースもあるわけだし」
NOVA「過度な緊張感とか、環境の変化などで対応できないってケースが考えられるな。自分でベストのパフォーマンスを発揮できるように、メンタルや周辺状況を整えるという必要もあったりして、まあケース・バイ・ケースだろうけど、創作活動において、本気を出したら強いってのはダメな創作家だ」
晶華「ええと、5作に1つぐらいは当たりが出るってのはダメ?」
NOVA「デビュー前はそれでもいいけど、デビュー後は的中率をせめて半々ぐらいにしないと、業界では生き残れない。そもそも、駄作には商業作品として発表の機会すら与えられない(ネット小説を除く)。駄作4本と傑作1本の作家の傑作に期待して、4本の駄作を大目に見てくれるほど業界もファンも甘くない。これが、パフォーマンスを底上げして、平凡ながら佳作4本と大傑作1本だったら、普通のプロ作家だ。一流だと、大傑作、傑作、普通の良作と、評価は低いけど実験的な面白さを秘めた無名の短編(マニアがプッシュする)だったりして、最低限度の面白さは保証されているわけで」
翔花「つまり、たった一本の傑作だけだと、一発屋で終わるわけね」
NOVA「プロだと、コンスタントに一定レベル以上の良作を書き続けられる地力を求められるからな。本気を出したら面白いものが書けるなんて言ってるうちは、ど素人ってことだ。『本気を出して、もっと凄いものを』なんて幻想を言い訳にしているようでは、誰も期待してくれないんだよ。まあ、競技試合とかで、自分が凄いパフォーマンスを見せても、もっと凄いパフォーマンスを示すライバルがいて、どうしても勝てないという状況は、創作ではあまりないし。もちろん、何かの懸賞で大賞作家がいて、自分は佳作だったけど……というケースなら、大賞作家が一発屋で、佳作の者がプロとして長く続けているというケースはある」
晶華「で、プロを基準にしているけど、趣味で書くだけなら、そこまで杓子定規に考える必要はないでしょ?」
NOVA「まあな。プロとは書いたものでお金がもらえる職業作家であることを前提とするなら、金をとる以上は読者を楽しませるだけの作品を発表する義務が作家には生じる。つまり、自分が何を楽しく感じ、読者が何を楽しく感じるかをしっかりリサーチする必要があるわけだし、そこがズレると(自分の感じる楽しさは、多くの読者には響かないとか)売れない作家ということになる。世間で何が流行っているか、流行りそうか、それに対して自分がどういうスタンスで書けるのかなど、プロの悩みの一つはそこにある」
晶華「作家としての個性と、世間の流行や需要の乖離ってことね」
NOVA「有名作家になると、自分の書いたもので世間の流行を喚起させられるんだけど、そこまでの影響力は、プロになって何本も作品を発表し続けて、一定レベルのファンがついてから考えればいいのであって、とりあえずは売れ線レベルが何かを把握して、それをコピーするのではなく、自分が個性を発揮できそうな穴を見出すことが重要だな」
翔花「穴って?」
NOVA「まだ誰も書いてなさそうなアイデアだな。『その手があったか。斬新だ』ってネタを、一定レベルの筆力で楽しくエンタメとして描ければ、佳作にはなる」
晶華「それでも傑作ではないのね」
NOVA「傑作は、作家一人では生み出せないんだよ。そこには編集さんとの打ち合わせや、イラストレーターさんとの響き合い、読者の多くの琴線にタイミングよく触れたかなど、周囲の人間とのつながり方が物を言う。作家の書く文章があまりにも独り善がりで、良識から離れた異常性癖の発露とか、狂人的センスのアレだと、奇作怪作にはなれても傑作にはなれない。まあ、それでも一部読者のツボにハマるなら、そこを目指して特定層の需要に応えるって戦略もありかとは思う」
翔花「NOVAちゃんの文章は誰のため?」
NOVA「俺と同じジャンルの趣味人だろう? 具体的には、特撮ヒーローや怪獣、スパロボをメインとしたロボットアニメファン、必殺シリーズのファン、TRPGやゲームブックとその他、創作に興味を持っている人間……ってことだな。それらのファンをがっかりさせない程度の文章であれば、書いた意味はあると思う。まあ、一部の読者が(割とマニアックな長文に)付いて来れないケースは想定できるが、別に全てに付いて来る必要はないわけで」
晶華「世間一般のウケは狙ってないってことね」
NOVA「自分が世間ウケしない性格だってのは分かってるさ。しかし、変な奴だけど面白いと思ってもらえれば、関西人冥利に尽きるし、ネタがつまらんと言われたら、少し悩んで、その言った相手の需要がどの辺なのかと考えたくなるな」
翔花「NOVAちゃんが書く動機は、文章で自分を表現し、読む人を楽しませる自分になること、でいい?」
NOVA「まあ、そう結論づけてもいいだろう」
読む動機
NOVA「さて、読者の需要だけど、結局は、自分が読者としてエンタメ本に何を求めるのかって話から考えないとな。逆に、自分が読んでて、つまらないどころか腹が立つような文章を書かなければ、少なくとも自分に似た趣味の人間を怒らせないだけのものは目指せるわけだ」
晶華「では、NOVAちゃんが読んで面白いと思うもの、つまらないと思うものを挙げてみましょう」
1.読者をバカにする作者
まあ、これが作品の中で露骨だと、その書き手の書く文章は読んでて不愉快になりますな。この場合の読者とは、『読書好きの、陰キャで、社交下手で、オタク趣味の持ち主で、それでも真っ当な常識は持ち合わせていて、世の中を真面目に生きている一般人』を想定しています。
ラノベを読む層って、大体そうでしょう。
作者自身もそういうタイプが多くて、そういう人間が自虐的にオタク層を卑下するように描くのはともかくとしても、限度はある。
ただ、これは主人公の描き方ですが、主人公がオタクと属性づけるのは良しとして、それでも作者とは違うんだから、作者の持ってるオタク像を全て主人公に乗せるのはよした方がいい。あくまで物語に必要な量だけに留めておく。
ある作品で、主人公は高校生の武闘家少年(空手部に所属)で、親戚のおじさんの家に厄介になってるという設定があった。それはいいとして、作者はオタク受けを狙ったのか、主人公の自室に最新のゲーム機を用意した。
これがNGです。
空手部などの体育会系の部活に所属している(しかもマジメな)高校生は、基本的にゲームで遊んでいる時間がありません。小中学のときに買った(親などから買ってもらった)古いゲームならいざ知らず、最新のゲーム機などを買ってもプレイする時間がとれない。
そもそも、親戚のおじさんの家に厄介になってる少年が、どうやってゲーム機を入手するんだ?
ちょっと、リアリティに欠ける描写ですな。それで話が面白くなるなら、ともかく。
仮にゲーム好きの空手少年という設定で描きたいなら、例えば、そのゲーム機は居候先のおじさんが趣味にしていて、少年に半ば強引にプレイに付き合わせ、少年に「今は遊んでいる場合じゃないんだけどなあ」とか言わせて、でも満更でもなく、そしてその時のゲームの経験が後で事件解決に役立つヒントになれば……ゲーム好きの空手少年とか、いろいろな要素が事件解決というストーリーの根幹に有機的につながって来る。
まあ、そこまで何でもかんでもつなげる必要はないのかもしれませんが、2時間ドラマだと、日常のちょっとしたやり取りが事件解決のヒントになったりして、上手く伏線を構築しています。
オタクという設定が、ゲーム機が部屋にあるというだけの描写で、物語にちっとも活用されていないと、何となく、作者はオタクという外面だけで客引きしてるのか? と感じます。
オタクという属性をナメるな、と。
なお、その作品を読んだのはゼロ年代(でも時代設定は10年代後半)なので、部屋に最新ゲームがあるのはオタク少年の象徴でも何でもないですね。
その時期の少年だったら、ゲームをするにしてもスマホって時代になりましたし、最新ゲームなんて転売ヤーのせいで高額化して買えない。
そもそも高校生の自分は最新ゲームなんて持っていたかというと、買ったのは大学に入ってアルバイトしてから。つまり、親がゲーム好きで子どもに買い与える家庭環境でない限り、高校生の空手少年が最新ゲームを自室に持っている状況は考えにくいわけです。
おそらくは作者の願望の投影が、主人公に注がれて、「空手好きのスポーツマン。でもゲーム好きオタク」という、整合性に欠けたキャラ像を生み出してしまったのでしょう。
でも、結局、ゲーム好きという設定が、物語の中でちっとも活かされていなかった点で、その設定いる? って話になります。
やはり、オタクという設定を示すなら、日常会話の至るところにゲーム用語とか、格闘ゲームオタなら技の名前とか、キャラ名を出して、
「ユージの必殺・竜牙掌みたいな技を発動させたいんだけど、なかなかリアルで出せなくてよ」
「そりゃゲームの技と本物の空手は違うし」
「頑張って練習したらできるかも知れないだろう?」
「現実とゲームをいっしょにするな」
「目指すぐらいいいだろう? 別にゲームばっかりで空手の練習サボってるわけじゃないんだからさ」
と、ヒロインとのやり取りのネタにするとか、やはり設定は、本文の文章で使ってこそだと考えます。本文の中で使われていないのに(キャラの考えの根幹にもなってないのに)、形だけ解像度の低いオタク設定を出されても、作者にバカにされているなあって感じがします。
自分が愛情を込めた描写ができないのなら、変に読者ウケしようと、そういう設定を示す時点で、中途半端な媚び方するなやって感じますね。
ろくにゲームの話ができないゲーマーとか、にわかアピールしても仕方ないですし。まして、創作ではね。
そして、手っ取り早くオタク読者の気を引く手段はありまして。
それは敵キャラに、オタク趣味をバカにさせればいい。作者がバカにするんじゃなくて、敵キャラにバカにさせるのがポイント。
それを主人公に、本当に怒らせて、オタク代表として鉄拳制裁なり、必殺技の餌食にさせながら「オタクを舐めると痛い目に合うぜ」って作者の本音を吐露させればいい。
自分の趣味をバカにするキャラを、本気で怒ってぶちのめすシーンってのは、エンタメとして純粋に快です。
俺の代わりに、よく言ってくれたとか、ここで怒ってみせるキャラに感情移入できたとか、そういうのがドラマなんだと思います。
読者や視聴者にある程度のストレス(不満や怒り)を溜めさせて、それを主人公がスカッと晴らすようにするのはエンタメの基本です。
読者をバカにする作者の暗黒面たる敵を、作者の光の面である主人公が天誅を喰らわせることで、エンタメの持つカタルシス作用を発揮できるわけです。
これは別にオタクでなくても通用しますね。
バスケを馬鹿にする奴を、バスケ好きのメガネキャラが叱りつけて、仏のメガネ先生の前で「やはりバスケがしたいです」と泣かせるまで持って行くと、名シーンが誕生しますし。
って、メガネ好きにとってもツボなシーンだった(笑)。
なお、オタク好きな主人公の日常シーンをていねいに描写されても、カタルシスは生まれません。
らきすたは、反オタク属性のかがみがいてこそ、こなたのオタクプッシュが光るわけで……ってネタが古いな。
要は、対立軸をしっかり描くことで、作者の本音がしっかり披露されて、作者はオタクをバカにしていないという免罪符にもなる、と。
2.作者が無知である
エンタメを読む(あるいは映像作品を鑑賞する)1番の目的が、自分の敵みたいな嫌な奴がヘイトを溜めて、主人公に倒されて、スッキリすることです(あるいは、しっかり反省させて和解に至る)。でも、下手なエンタメだと、作者自身が読者の敵になるような描き方をしてしまい、作品そのものが炎上する。
とりわけ、マニアが読みそうな作品なのに、マニア否定のストーリーを示されると、マニアの逆鱗に触れる。だから、上手い作家は、仮にマニア否定が作者の本音だったりしても、それを敵に発言させて、一応は主人公に倒させる。
その後、主人公に「だけど、あいつの言ってることも一理あったような気がする。俺たちも反省しないとな」と言わせて、マニア否定を自然と受け入れさせる。
その辺のさじ加減が物語のテーマをしっかり心得た作家のテクニックかもしれませんが。
で、テーマについてあまり考えてない行き当たりばったりの作家さんは、ろくに調べることもしませんので、記述に思い込みのウソが多いですね。
主人公が無知なのは問題ありません。解説役のキャラが分かりやすく説明すればいい。
問題は、作者が無知な場合。解説役の知的レベルや、地の文の信憑性が一気に下がって、到底、読めたものじゃなくなってしまいます。
読書って、それがフィクションであっても、何らかの知的好奇心を満たす快ってものがあります。作者は少なくとも自分が描くジャンルに対して、相応の知識を持っていたり、調べたりしている。読者は作者の知識に感心したり、安心したりしながら、作者の描く世界観に浸ったりすることを楽しむわけです。
仮に、読者の方が、そのジャンルに詳しい場合でも、作者の知識レベルを測って、これだったら初心者向きのいいガイド本になるなとか、思ったよりリサーチがしっかりしているやん、なかなかやるな、と思って読み進めることができる。
しかし、最悪なのは、作者が知ったかぶりの思い込みで、ウソも丸出しで書いていて、読者がその作者の言葉を信用に値しないと見なしてしまった場合、その作者の描く虚構は根底から崩れ去ります。
例えば、ファンタジー世界で、トロールがオークより弱い弱小種族として描かれた場合。
ん? 一般的なトロールは巨人で、オークよりは強いはずだが?
もちろん、トロールは愚かなので、オークがトロールを体のいい用心棒としてこき使っているかもしれません。
しかし、肉体的に屈強なはずのトロールが、オークに奴隷のようにこき使われ、足蹴にされて、反抗してもたちまちあっさり鎮圧されてしまう世界観を示されたら?
まあ、作者がそういうファンタジーの常識と異なる世界観を狙って、「この世界ではオークがトロールの上位種であり、古の戦争により、トロールはオークに逆らえない呪いが種全体にかけられた」と独自設定を披露されたら、ほう、なかなか面白いな、と受け取れるわけですが、
そういうこともなく、単に作者の無知だった場合、(例えば、作者はトロールをムーミントロールやトトロの原型みたいな温和な生き物だと思い込んでいたとか)ずいぶんと白けた話になります。
この場合、異世界転移物だと、「この世界では、どうしてトロールがオークに虐待されているんだ?」とか疑問を感じさせて、その世界の独自性をアピールすることも可能でしょう。
読者の常識を主人公に発言させて、作者が無知でないよアピールですね。
分かっていて、あえて常識と違うことをしているというアピールが上手く機能していれば、常識を知りつつ独自性を模索、という評価が得られます。
しかし、そういう意図じゃなくて、作者が本当に無知だった場合。
例えば、バームクーヘンをドイツ語ではなく、フランス語だと書いてしまう作者の文章を、NOVAは呆れますし、
ダックスフントを犬ではなく、鳥類だと書かれたら、ちょっと待て、とツッコミ入れる読者も多いでしょう。
ブルドッグを犬ではなく、牛の子どものように思い込んでいるとか、
ヨークシャーテリアが、ファンタジー世界に違和感なく登場するとか(ヨークシャーはイギリスの地名です。ファンタジーに登場するなら、そこは別の地名に基づいたユーカス・テリアってアレンジするといいかも)、
とにかく、登場する用語に作者の知識が現れますので、その辺に粗がいろいろ見られると、作品世界にハマるよりも、ツッコミ対象になります。
ならば、現代社会なら問題ないかと言われれば、そちらこそ現代の常識が物をいう。
高校生や学生レベルだと、社会のことに無知なケースが多いので、学園ものが書きやすいというのはありです。しかし、大人になると……40代を過ぎると、学園ものを書く場合のジェネレーションギャップが露骨に出ると思います。彼らの10代(20年以上前)と現代の高校生の常識は大きく違います。40を過ぎて学園ものを書ける大人は、身近に学生の知り合いがいて、日常的に情報を得られるとかでしょうな。
なお、自分はそれができる限られた職業ですが、そもそも学生を主人公にしたいとは思いません。どうしても、自分に近いおじさん世代か、教師役に感情移入しますので、学生を主人公にはできません(まあ、ファンタジー世界の10代とかを演じるのは別だけど)。
W主人公で、大人と学生のバディ物なら、対比という形で書けるかもしれませんが、やはり違和感なく書けるとしたら、自分に近い立場か、資料でイメージが膨らむような人物。リアル学生は、中途半端なんですね。身近にいるから、彼らをモデルに超人は書けませんし、不幸な事件に合わせたくもないし、日常モブにはなっても、メインキャラには扱いにくい。その点は、架空世界の若者の方が料理しやすい。
で、若者だったら、どうしても師匠を設定したくなります(笑)。
フィクションで師匠のいない独学の若者キャラを見ると、多少は違和感を覚えたりも。
その点で、聖闘士とか車田作品はいいですね。必ず、師匠がいる。
この辺は作者の価値観や、ドラマの必然性とか、必要のない大人はあえて描かないというスタンスもあるので、一概には言えませんが、
作者が大人を描けないから、子どもだけで物語を描くということなら、それはそれでいい。ただし、普通ならそこにいて然るべきの大人がいない理由を構築すれば、整合性につながります。
まあ、大人が仕事で忙しいから、普段は家で一人暮らし。生活費だけはもらっていて、そこそこ裕福(親は外資系の会社とか、研究施設で働いていて、そういう資料を主人公が触れることも可能とか)だから、バイトをする必要がないというのが無難かな。孤児だと今度は特殊な背景を考えないといけないし。
要は、その物語や背景を成り立たせる上で、作者がしっかり調べてますよ、考えてますよ的なアピールがあれば、おおって感心できますし、作者の気遣いを信用できる。
もちろん、そうして構築された設定が、物語の中でしっかり活かせていれば、もっといいですね。
スポーツファンなら、スポーツを基盤に物事を考えるとか、
映画ファンなら、映画に例えるとか、
作者の趣味の一部と、主人公をつなげることで、「この主人公の設定だったら、こう考えるのも納得」と読者に思わせたら、作者の勝ちだとは思います。役者の人が役作りする上でも、真摯な人なら登場人物の背景とつなぎ合わせて演技プランにしますし、役者の演技プランにできる程度のリアリティは作者が示さないとな、とも。
3.設定が無意味に重い
読んでて、スカッとする(作者は自分の味方で、普通に共感できる)。
読んでて、勉強になる(作者はしっかり勉強して、考えている)。
そういう作品は、読んでて楽しいです。
そして、読んでて、負担にならない(作者が重荷を押しつけない)。
この最後がラノベでは結構大事。軽い読み物ですからね。
娯楽に、妙に重苦しいテーマや、必要以上の暗さはいらないんです。
まあ、長文書きな自分が、言えた義理じゃないと思うんですけど(自己ツッコミ)。
自分も設定マニアだし、読者さんに過剰な負担を押しつける面を持った物書きであることは先刻承知です。
だから、削れ、切り詰めよ、その設定、本当にいるか? 一番、書きたいのは何?
そんな感じに指導されたことは覚えています。
それを言った先輩も長文書きで、おそらくご自身も座右の銘にしていたんじゃないか、と思いますが、もしも読者に負担を背負わせたいなら、その負担に応じた分の面白さを提供するのは作家の義務だとまで言われた記憶はあります。
多少は、記憶が混じっているかもしれませんが。
あとは、職業人として、金を払ってもらうなら、それ相応の商品価値はこれだ、と示さないといけない。読者さんに損をしたと思わせたら負け、ってことですね。
読んだけど、スカッとした気分になれなくて(どんより後味の悪さが残る)、
何の勉強も作者のアイデアや技術への感心も得られなくて、
そして負担だけが重くのし掛かって来る、つまらない読み物をみなさんは読みたいですか?
割と書痴な自分でも、読んで損したって気分にはなりたくないので、駄作でも良いところ探しは試みるのですけど、それさえ徒労に感じることはあります。
作者が、一読者に過ぎない自分よりも、手を抜いているなあ、って分かるときですね。
普通は、作者の方が読者よりも苦労して文章を紡いでいるわけですし、アイデアだって練っている。読者をどうやって楽しませるかを、自分を楽しませながら書いている。
その作者の生き生きとした頭の活性化が文章に乗っていれば、自分もつられて楽しくなれる。いい勉強ができる。作者のそういう労力とサービスには、相応のお金を払って、ファンにもなれる。もちろん、ジャンルや趣味が好みに合えば、ですけど。
で、長文でも、読んで時々クスッと笑えるようなユーモアとか、なるほどなあ、って納得できる見識とか、頭おかしいでしょ、この作者。でも独創的でウケる〜とか、そういう箇所が散りばめられていたら、読んでて楽しくなれる。
少なくとも、自分が目指している文章はこんな感じです。まあ、目的が達成できているかどうかは、読者さん次第ですが(達成できていますように)。
で、その反対は、笑えないジョーク、作者がバカで嘘つき、月並みで頭の固い戯言となるわけですが、自分の文章がそうなっていませんように。
総じて、つまらない文章って、笑えなくて、デマカセの妄言で、誰かの言ったことの受け売りを本人が理解せずに言ってるから、応用力に欠けてる死んだ言葉なんですな。
自分の文章が、読み返して、そんな死んだ言葉にしかなっていないと自覚したら、まあ、その辺で書くのを止めるのが賢明だと考えます。
まあ、今のところは、自分で読み返しても、生きた言葉で楽しめるので、少なくとも自分という読者の需要は満たせているわけですな。
知的な自慰行為すらできなくなったら、人生の楽しみが味わえなくなって虚しくなるのでしょうが、自分の書いたものが自分を楽しませて、ついでに他の人の楽しみにもつなげられたら、書く作業が充実できるだろうな、と思ってます。
それが自分のモチベーションってことで。
(当記事 完)