Shiny NOVA&WショーカのNEOスーパー空想(妄想)タイム

主に特撮やSFロボット、TRPGの趣味と、「花粉症ガール(粉杉翔花&晶華)というオリジナルキャラ」の妄想創作を書いています。

天才論その2

今は亡き天才作家への献辞

 

 天才論その2です。

 前回は、リアルの天才について、NOVAが考えるところをいろいろと述べてみました。

 NOVA自身が、自分のことを天才と考えていた時期があったこと(公立中学校という狭い世界ながら自他ともに)、そして、今も時々、天才と感じる瞬間があることなども含めてです。

 もちろん、「天才オブ天才」とか「俺さまこそが最強の天才だ」なんて言い張るつもりは毛頭ありません。天才の世界は非常に奥が深く、ジャンルもまちまち、たとえ妄想の中であっても、「最強の天才」いや「最強」と名乗ることも、おいそれとはできません。

 ただし、「自分の人生劇場では、自分こそが主役」であるという信念は持っていますし*1、小学校時代の夢は小説家ではなくて、俳優でした(卒業文集より)。

 そう、お話を作りたいのではなく、お話を演じたい方なのです、原点としては。

 TVや映画の中で、物語の登場人物として、いろいろな人生を過ごしたい。できれば、重要な役として活躍したい。

 でも、俳優になるためには、背も高くなければいけない、運動もできないといけない、明るく振る舞わないといけない、などなど、小学校から中学に上がる中で、自分の俳優イメージに勝手に制限を加えて、あっさり諦めていました。

 代わりに、俳優の裏方で物語を作る人、物語に関わる人になりたいと思い、趣味でお話作りを試してみる。主人公は自分だったり、マンガやドラマのキャラクター(のパクリ)だったり、広告の裏にあらすじや断片的なシーンを書いたり、小説もどきをいろいろ書いておりました。SF作家の星新一さんのショートショートを知ったのも、この時期。

 世間知らずの中学生で、審評眼も備わっていない頃ですから、これぐらいなら簡単に書けるだろうと思い上がって、自作のショートショートをいろいろ書いたこともあります。内容が面白いとは思っていなかったのですが、何となくお話が書けていることで悦に入っておりました。

 でも、高校時代に違う道が開けます。

 TRPG。役割を演じるゲーム。演劇の脚本めいたリプレイも、自分の性に合った読み物ですし、同時期に流行ったゲームブックも「You are the HERO.(きみが主人公だ)」のキャッチフレーズで、そう、小中学校時代の夢をそのまま実現させてくれる、まさに夢の読み物との出会いでした。

 別に、世間で称賛されなくてもいいのです。引っ込み思案な性格で、目立ちたいわけでもないですし、ただただ物語の中で役割を演じたかった。主役でなくてもいい。

 だったら、どうして演劇部に入らなかったんだろうって、今も不思議に思ってますけど、たぶん、自分の性分はまっすぐストレートに突き進むのではなくて、方向音痴に迷いながら、寄り道脱線して、その周辺をさまよってしまいがちなんでしょうね。

 ……たぶん、夢に対して一途なのではなくて、あれもしたい、これもしたいと思いながら、自分から手を伸ばさずに、偶然舞い込んで来た出会いに運命を感じて夢中になるところがあったな、と。元来、受け身な性分だったのですね。

 でも、ゲームマスターダンジョンマスター)という役割を果たすことで、自分が監督とか脚本とか演出とか、グループの中心(物語の主役ではなくて、ストーリーや世界を構築する神であり、ルールの裁定者であり、敵役や裏方サポートが主な役割)として拙いながらも経験することになった。

 これによって、引っ込み思案だった自分にも多少の社交性とか、自信が付いて来ることになった。自分の趣味の世界に人を誘うことの喜びとか、自分の構築した物語世界を楽しんでくれる友人とか、自分にも人を楽しませることができるんだ、とか、いろいろと開眼したのが高校時代です。

 

 そこから90年代に、自分に夢を見せてくれ、道を見せてくれたグループSNEに運よく飛び込むことができて、そこでの出会いとか知見とか思い出はすでに語ったので今回は割愛しますが、知った人が相次いで亡くなると、いろいろ自分の来し方も含めて考えたくもなるわけですよ。

 自分にとっては、山本さんも天才だったし(本人は著書の中で謙遜して凡才と言ってますが、著書の内容を読み取ると、十分天才だったと思います)、川人くんも天才の部類になると考えます。少なくとも、NOVAが天才を自称するためには、お二人はさらに上の天才でなければ困る。

 あと、山本さんの著書の中では、NOVA自身も天才の認定を受けました。

 この晩年の著書の中で、山本さんはご自分の創作技法を丁寧に語られ*2、山本さんがご自身で天才だと感じたのは、「少数のイタコ作家と称すべき、キャラクターが勝手に降りて来て、勝手に動いて、勝手に事件解決してくれるスタイル」だそうで、そういう経験は山本さん自身の長い創作生活において、ごくわずかしか体験しなかったとのこと。

 イタコ作家の例を挙げて、「そういう能力が自分にあれば、こんなに苦労しなくて済むのに」みたいなことを率直に述べられています。

 で、それを読んで、NOVAは「え? それって少数派なの? 作家は誰しも、そういうことが普通にできる人種だと思っていた。え? もしかして、自分が普通だと思っていたのは、特殊能力の部類だったの?」と教えていただいた形になります。

 頭の中にキャラがいろいろ浮かび上がって、好き好きにあれこれ喋って、天使と悪魔がケンカするように議論を始めて、それを必死でコントロールしないといけないので、乱れた感情を落ち着けるためにクールダウンのシンキングタイムを要して、やむなく文章で思考に形を与えて整えないと、何がポンポン飛び出して来るか分からないカオスな脳が、山本さんにとっては天才性の一環らしい。

 山本さんはプロ作家として、業界にも顔が広く、NOVAよりもよほどたくさんの作家と顔見知りな御仁だから、その人が「イタコ芸は少数派」と言うのだから、そうなんでしょうな。

 まあ、仮に「創作におけるイタコ芸」が特殊能力だったとしても、それだけでプロ作家になれるとは限らないわけだし(実例が自分)、仮に天賦の才があったとしても、それに振り回されて上手くコントロールできなければ、日常生活を送るのにも苦労するというのは、多くの超能力ストーリーでも語られるところです。

 特殊能力持ちでも、天才であっても、苦労するのは、リアルなわけですよ。

 

 いずれにせよ、ご本人は意図しないながらも、最後にNOVAの天才性を示してくれたというか、気付かせてくれたということになります。

 この『天才論』記事も、実は山本さんのご著書を再読して感じたことなんかも、執筆動機の一つなわけです。

 要は、先人に感化されて自分にしか書けない創作論を、試みまでに書いてみたくなった次第。

 

主人公は天才?

 

 執筆動機は以上ですが、もちろん付け焼き刃で書こうとは思ってません。

 自分なりに創作論めいた会話のやり取りを、非実在空想娘たちとの寄り道脱線的に漏れ出してしまうことが何度もあって、一部は特定個人へのアテ書き的な内容でもあるのだけど、プロでもない人間の私的創作論なんて誰の需要があるのか、という思いはありました。

 でも、プロに接したことのあるアマチュア視点だからこそ書けることもある、と開き直って、機が熟したから書こうか、と思った次第です。

 そして、「天才」という属性は非常にネタが多く、奥も深い。リアル、非リアル問わず、天才と称される人物キャラを挙げろと言われたら、100人は軽く挙げられるほどの膨大なストックがあります。

 まず、大切なことですが、あらゆる物語の主人公は天才である、と自分は考えております。自認してようが、本人は否定しようが、劇中で天才と扱われようが扱われまいが、主人公である時点で天才性を有している。そうでないと、その物語は決して面白くはならない、と考えます。

 もっとも、古典的な童話の中には、天才とは思えない人物も見受けられますな。桃太郎は天才剣豪と言えるでしょうが(少なくとも、鬼退治できる程度には。日本一の旗も掲げてますし)、浦島太郎が天才だとは思えない。亀を助ける優しい漁師だとは思うけど、天才的な話術で子どもたちを説得したわけでもなく、釣りの達人という設定もなく、浦島太郎天才説を唱えるには無理がある。

 そこで、いきなり先の仮説を訂正しないといけません。

 

 多くの現代エンタメ物語の主人公は天才である。

 

 これぐらいなら十分妥当なのではないでしょうか。

 まあ、物語の主人公は「ごく普通の学生」を謳い文句にしているのも多いですが、「初期状態でごく普通のはずの主人公が実は何らかの特殊能力を隠し持っていたり、事件に巻き込まれてあたふたしながら、異常な生存能力を発揮して、物語のほぼ最後まで見届けたり、体験するほどのサバイバビリティ、および観察力や状況把握力、もしくは社交能力を発揮する」はずです。

 また、昔の少女マンガでは、可愛いだけで何もできない無能ヒロインが、何故かイケメンと恋に落ちて、いろいろと助けられながら運よく恋愛成就に向かっていく、いわゆるシンデレラストーリーも量産されました。

 そんなお人形ヒロインが天才なのか?

 はい、天才です。ただし、この場合の天才性は、キュートな愛らしさと、優しい心と、ラッキーさなどに集約されます。TRPGのキャラクターに置き換えるなら、カリスマなどの魅力度、精神力、幸運度なんかが高いのではないか、と考えられます。

 運動能力とか知性度とか、そういうのに劣っているドジでノロマな亀とか、ドジで勉強ができなくて運動神経も低くて、賑やかさだけが取り柄のお騒がせヒロインも、セーラームーンプリキュアの一部などで見受けられますが、彼女たちの天才性は、主人公らしい愛らしさ、真面目にコツコツ頑張れる努力とヘコタレなさ(イジメられても明るさは維持できるメンタル面の強さは相当なもの)、そしてピュアなハートから来る優しさ、癒し能力、男性の守りたい感情を引き寄せる健気さなどなど。

 そういうのを全部、天才と一括りにしていいのかと問われたら、「何の才能も持ち合わせていないように思える主人公が実は最強レベルの魔法使い」というファンタジー小説もありまして。

 ザンス、好きなんですね。

 コンプレックスを抱えた主人公が、自分の限られた才能と知恵と幸運とで試練を突破して、愛と幸せを見つけ出して行くストーリー。主人公は男性もいれば、女性もいて、人外もいて、それぞれが弱さと悩みを抱えている。だけど、冒険の旅を通じて成長し、ハッピーエンドを発見して、次の主人公(前の主人公の子どもだったり、主人公を助けた脇役キャラだったり、多彩な主人公像)に受け継がれて行くわけで。

 

 ともあれ、大した能力も持っていないと思われる主人公でも、物語の性質上、最大の武器になるのが「周囲のキャラに対する感化性」なんですね。

 少女マンガの古典的な無能ヒロインにも、庇護欲を喚起するフェロモンみたいな魅力と、ライバル的な悪役令嬢の気を良くも悪くも引きつけてモヤモヤさせる天性の何かを持ち合わせている。

 ただし、女性の価値観が受容的から、もっとアクティブなものに変遷する時代の流れに合わせて、守られたい願望の無能要素は次第に引っ込み(80年代辺りから)、少女マンガのヒロイン像も、より明確な天才性を志向するようになります。

 少女マンガにおけるヒロイン像の変遷は、ずっと追っかけて来たわけではないので、断片的にしか語れませんが、憧れの対象が男性ではなくて、同性のアイドルとかバンド、学校の先輩なんかがメインで、自分が憧れの対象に近づくのを手助けしてくれる優しい草食系ボーイフレンドが従者のように付いてくる、もしくは男っ気のない百合風味の舞台とか、逆にサディスト系ワイルドなオレ様男との刺激的なラブストーリーとか多様化しているように見えます。

 昔ながらのスポーツ物では、大人の厳しいコーチと、優しい同年齢のイケメンが主要な男性キャラと思いますが、今もその路線は生きているのだろうか?

 ともあれ、少女マンガの典型的な男性像は、ワイルドな不良風味と、優しいサポート役の2択でしたが、男性向きの美少女ゲームが多彩な女性キャラを扱うように、女性向きのイケメンゲーム(BLだったり、ヒロインとの疑似恋愛だったりジャンルは分かれる)でも、多彩なタイプのイケメンが扱われているので、男性アイドルが女性と同様グループ化しているのと同様の現象が平成期間を通じて生じたものと推察します。

 

 話を戻して、「主人公の持つ天才性」の最たるものは、「周辺人物に対する影響力、感化性」と言えるでしょう。次点として「自身の成長性」も考えられますが、最初から完成されて成長はあまりしない主人公もいるので絶対ではない。しかし、主人公が周囲のキャラに関わることで物語が動く以上、影響力や感化性を抜きにして、主人公は成立しない。完全に物語の外から見ているだけの傍観者が語り部役の場合もありますが、その場合は語り部を主人公とは言いません(ナレーションの役割)。

 どんなに引きこもりでぼっちな主人公でも、物語を動かすためには、必ず彼もしくは彼女を外の世界に引きずり出す存在が付いて来ます。引きこもらせてはくれずに、巻き込んで来る。

 まあ、たまに外の現実世界ではなく、異世界に引きずり込む女神さまとか、妖精とか、妖怪とかが巻き込むケースもあるわけですが、そうなることで、何だかんだ言って、受け身な主人公でも物語世界に関われて、トラブルの中で思わぬ才能を発現したりするわけですね。

 そう。凡人だと自認していた主人公が才能に目覚めるか、それとも自分が才能を発揮できる世界を見出すかです。

 主人公が最後まで、何の才能も示すことなく、凡人中の凡人で終わる物語をあなたは読みたいですか?

 

 なお、周囲のキャラの方が才能に満ち溢れているために、主人公の才能がどうしても埋没してしまう物語は結構あります。

 ただ、その場合、主人公の役割はサポーターであり、周囲のキャラや背景世界の観察者であり、その客観的視点や洞察力、周りの天才たち(でも個々の悩みは持っている)の共感性で、軍師とかカウンセラー的な位置付けなんですな。癒し系主人公とも言える。

 男女の役割が80年代と比べても、多様な価値観で過渡期的な変化を遂げて、議論が社会学視点でも喧(かまびす)しい昨今。当然、時代を映す鏡となるフィクション世界でも、男女ともに主人公像の変化が見られます。

 それでも、物語の中心となる主人公の特別性、言い換えれば、「主人公に備わった天才性」を自覚することが、創作論議における本質と考えます。

 

 「ごく普通の」と称する主人公の自己認識を、そのまま真に受けるのは、物語の読解力不足を露呈しているわけですからね。

 「ごく普通の」から、いかにして「特別の存在」に変わって行くかが、主人公の物語の肝だったりもするわけで。

 

主人公の敵役としての天才

 

 天才キャラとして、先に思いつくのがこちらだと言う人は多いでしょう。

 主人公が「隠れた将来の天才」であるなら、その主人公に立ちはだかる壁役として「明確な現時点での天才」が対抗馬として必要なわけです。

 そして、「悪の天才科学者」というのは、メカロボ系の勧善懲悪ヒーロー番組において、敵組織の首領や幹部として定番です。そういう自意識肥大化したマッドサイエンティストが世界を敵に回して、強大な科学力で侵攻してくるから、主人公のバトルが正当化されるわけです。

 悪の天才科学者は、自分の科学で世界征服できると信じていますから、当然、周囲の凡人を見下していますね。見下す理由は、自分の天才性を理解せずに、異端視して邪魔しようとして来るから。

 もしも仮に、その天才性が評価されて、世界を良くするために活動して下さいと持ち上げられたら……違う人生も送れたかもしれませんし、もしかするとドクターヘルの頭脳が、マジンガーZではなくて、後から出て来たミケーネ帝国やベガ星連合と戦うために使われたかもしれません。そのIF物語の端緒まで描いたのが『真マジンガー! 衝撃Z編』だったのですが、そのラストのどんでん返しは後に続かなかったですな。

 ともあれ、敵役だから、傲慢に自身の天才性を豪語し、自分を理解しない凡人どもを見下し、自分の天才を邪魔してくる小僧の兜甲児に憎悪を向けながらも、度重なる敗北の末に次第に敬意も抱くようになり、「自分に対抗できる相手なら自分の凄さを理解してくれるのかも」と感情移入して、味方にならないか、と誘惑を試みるも、価値観の違いから「バカを言うな!」と拒絶されて、ますます憎悪を募らせるような人格。

 ここで甲児くんが「ドクターヘル、あんたは確かに凄い科学者だが、その罪は云々」と正論を言うキャラじゃなくて、相手の申し出の意味を理解しようともせず一蹴するのが、ドクターヘルの物語の帰結でしょうな。

 最後まで、その天才性が理解されることはなかった。

 まあ、視聴者の一部が、あしゅら男爵や、ドクターヘルに感情移入していたわけですが。

 

 理解されない天才の悲劇ですな。

 もっとも毎週、マジンガーZに負けてる結果を見せてるわけだから、天才wwwと見なされるのですが、ドクターヘルの機械獣は、マジンガーZ以外の自衛隊には無敵ですし、マジンガーZを結構な頻度でピンチには追い込んでいるし、結果的には負けているにしても、ライバル敵として天才の名に恥じない凄さなんですね。

 そもそも、毎週、1体の機械獣を送ってくる物量からして凄い。番組フォーマットがありますから、1度に大量のロボを送り込んだら、というIF仮定をあれこれ考える楽しさはありますが、作戦的な落ち度はいろいろあるとは言え、そもそも天才科学者が軍事作戦上の天才であるとは限りませんし、軍事作戦の天才なら世界にケンカを売るようなことはあまりしないかな、と。

 何にせよ、主人公の凄さを示すためには、倒されるべき天才は必要で、主人公以外には倒されないことが天才の証明なわけですよ。

 

 一方、マジンガーZの5年後に、同じ少年ジャンプ誌上で、別の天才ライバルが登場します。

 それこそが『リングにかけろ』(連載期間は1977〜81年)の天才ボクサー剣崎順。主人公・高嶺竜児のライバルとして、また同志(とも)として、自他共に認める天才として活躍し続けます。

 天才なんて称号は、周りが呼ぶのであって、自称・天才は恥ずかしくてギャグにしかならん、と自分は考えるわけですが、この剣崎だけは例外で、とにかく自分のことを天才と呼びながら、それだけの強さや洞察力を披露し続ける。主人公の竜児が黄金の日本ジュニアの大将なんですが、実質的な司令塔、チームリーダーとしての存在感をこれでもか、と発揮し続ける。

 ボクサーとして強い上に、剣崎財閥の御曹司で経済的バックボーンもしっかりしていて、リンかけがどんどん派手な物語になって行った一要因でもあります。剣崎財閥の設定が、後の聖闘士星矢のグラード財団に引き継がれるわけですな。ワールドワイドな物語にしようと思えば、味方に金持ちが必要、と。

 剣崎はとにかく竜児のライバルとして設定されたキャラなので、庶民派で優しい性格の竜児に対して、金持ちで嫌味な性格で人間のクズみたいな描写もされた。それを言うなら、星矢の女神アテナこと城戸沙織お嬢さまも剣崎に負けず劣らず、高飛車で高圧的でわがままな描写が目立っていたわけですが、剣崎も沙織お嬢さまも、そこからの持ち上げられ方も鮮やかで、主人公の序盤の敵対役がその格を落とさずに、味方陣営の長として君臨する様は芸術的ですらある。

 剣崎の独自性は、当初、悪の天才キャラという形で物語に登場して、主人公を徹底してイジめ、嫌味な天才を努力の主人公が倒すというザマア展開を見せたにも関わらず、自分を倒した竜児と姉の菊に対して見事なツンデレに転じて、主人公のサポーターにポジション変更し、自分の応援団も竜児に託し、竜児のパトロン役として支えた潔さが挙げられます。

 スポーツ界におけるグッドルーザーぶりを示したわけですね。

 

「天才の俺を負かしたお前が、こんなところで負けることが許されると思うなよ」どこまでも上から目線の剣崎に竜児は不満を述べることなく、

「分かってるさ(ニコッ)」と、剣崎にできないさわやかな笑顔で応じる。

 

 当初の竜児は、イジメを誘発するような弱気キャラとして描かれていて、その対比だから剣崎が超強気キャラに設定されていたわけですが、

 竜児は打たれ強く、倒れても倒れても立ち上がって行き、どんどんボクサーとして成長して行く。

 剣崎は技量面では竜児を凌ぐ天才だったものの、パンチの威力が弱いという欠点が露呈して、不屈の竜児を倒す決め手に欠けた結果、敗北を喫します。しかし、ここで終わる剣崎ではありません。自分の弱点を克服すべくギャラクシアン・エクササイザーという筋トレ器具で猛特訓した結果、竜児*3に勝ったはいいものの、自身はその戦いで腕を損傷し、後を竜児に託して、治療のために渡米することに。

 これで禊を済ませて、その後は対アメリカJr戦で、黄金の日本ジュニアの副将格としてボクサー復帰。黄金の日本ジュニアは、竜児に一度敗れたライバルたち(石松除く)が味方となってチーム戦を展開するわけですが、5人チームというのが星矢の青銅聖闘士5人の原型でもありましたな。

 剣崎に相当するのが一輝兄さんと認識しているのですが(その前に、風魔の小次郎のライバルの飛鳥武蔵を経由する)、さすがに天才を自称するのは剣崎ぐらいですな。

 

 剣崎の天才エピソードで自分的に最も光っているセリフはこれです。

 

「仮にも天才と言われたこの俺が、たかが一つの新パンチを生み出すために、死ぬほどの特訓をやったと思うのか」

 

 右のギャラクティカ・マグナムに次いで、左のギャラクティカ・ファントムを披露する前の決めゼリフです。

 マグナムとファントム以前は、パンチ一発であっさり敵をKOしていた剣崎ですが、世界大会準決勝のドイツ戦では大将のスコルピオン戦で必殺ブローのマグナムを初披露。次に、決勝のギリシャの副将テーセウス戦でファントムも披露して、このマグナムとファントムの2つが天才の決め技となりました。

 マグナムとファントムの技名は、後にガオガイガーが受け継いだことでも有名ですが、竜児のブーメラン・フック、スクエアー、テリオスを差し置いて、剣崎の技名がリンかけの象徴みたいになったのも天才ゆえだなあ、とか。

 

 とにかく、フィクションにおける天才キャラを挙げるなら、自分にとっては、剣崎順が一推しなんですよ。

 天才を自称して、格が全く落ちることがなかったのは、彼一人と考えていますし、「自他共に認める天才」って言い回しも、剣崎だから許せると思います。

(当記事 完)

*1:他人の人生劇場では、名脇役だったりすることもあるでしょうし、敵役だったり、背景のモブキャラだったり、登場さえしないこともありますが。

*2:こっちにはマネできない手法も結構あった。天才じゃないから凄い努力して来たとあるけど、そういう努力をできる時点で天才だと思う。まあ、天才じゃなければ奇才とか鬼才とか、凄い人という形容語句はいろいろ付けられるけど、とにかくその創作手法には改めて敬服します。

*3:こちらもコーチ役の姉の指示で、腕力を高めるパワーリストと、脚力を高めるパワーアンクルで日常生活に過負荷を与えながら鍛えておりました。