人が天才になれる瞬間
あなたは、自分が天才だと思ったことはありますか?
NOVAはあります。
文章を書きながら、凄いアイデアが閃いたとき。
躁状態が絶好調で、何でもできると調子づいているとき。
何かを予想して、見事に的中したとき。
いつもそうだというわけではありませんが、運気に恵まれているときに、ラッキーを通り越して、天が味方してくれていると勘違いして、それがしばらく続いていると、自信満々に天才か、俺は、と思うことは、結構あります。
まあ、その反動もあるんですけどね。
文章が自分でも支離滅裂で、何を書きたいんだ、と訳が分からなくなったとき(それが度を越すと、人には見せません。「当記事 完」が付かないまま、消した文章もたまにあります)。
鬱状態で、かつ、冷静な思考もろくに働かずに、何もする気がなくなったとき(人生終わった……とは思わない。したいことをいっぱい残しているから)。
予想したことが、ちっとも当たらなくて、先を考えることに意味を感じなくなったとき(もう、日常業務をコツコツこなすしかないよね。読めない予想なら、黙っている方がいい)。
天才は、いつでもどこでも天才じゃない。
天才じゃなくても、生きてはいける。
まあ、ここぞという時には、天才であって欲しいんだけど、どうでもいい時ばかり天才が発現してもなあ、と「残念な天才モード」「天才の無駄遣い」「使えない天才」と自嘲することもたまにある。
そう、天才のリズムが、長年生きてると、分かるんですね、NOVAは。
この扱いにくい天才性は、一歩間違えると、いや、一歩ぐらいじゃ問題ないと思いますが、調子づいて10歩ぐらい踏み外すと、自分の上に天災を巻き起こしたりします。
天災級の天才って、フィクションの世界ではたまに、どころか、しばしば発生しますが、天才が幸せに生きていけるとは限らない。
不幸にも破滅した天才の逸話を知ると、我々(一時的な)天才は、天才の正しい扱い方を考えないといけません。
ここから先は、「天才の気持ちが分かる」もしくは「天才の気持ちが知りたい」と考える人だけ読んでください。
天才だと!? 何を、この男は調子に乗ったことを書いてるんだ? 天才なんてクズだ、そんなことを言う奴はこの世に生きている資格はないんだ〜、天才なんていなくなれ〜と悪しきオーラに飲み込まれそうな人は、ここからいなくなった方がいい、と忠告しておきます。
精神衛生上、絶対にその方がいいですからね。
では、天才に理解のある(または理解したい)人だけが、天才の世界にどうぞ。
リアルな天才
では、質問します。
あなたがこの世で、天才だと考える人の名を3人ほど思い浮かべてください。
紙に書いてもかまいませんよ。
ただし、Shiny NOVAと書こうと思った人は……いたら嬉しいですけど、外れです。自称・天才と思っているだけのバカですので、お世辞にもそう書きかけた人は、気遣いはできるかもしれませんが(またはノリがいいとか?)、本質を見る目がありません。
もっと、本気であなたが天才と思っているリアルな人物はいっぱいいるはずです。そんな偉人に比べたら、NOVAの天才性はたかが知れています。
でも、天才について語れるぐらいには天才と思っていますので、話は続けるんですけどね(笑)。
さて、ここであなたが考えた天才の名を当てることは、NOVAにはできません。
しかし、おおむねの傾向を当てることはできます。
あなたが書いた(考えた)人の中に、スポーツ選手はいましたか?
今だと、大谷翔平の名を挙げる人も多そうですね。
我々の世代だと、長嶋茂雄とか、野村克也とか、それぞれ一世風靡した名選手がいまして、世代によって天才のイメージは異なります。後から記録を抜いて、1位が塗り替わることもありますが、それでも年寄りにとって自分の原体験の衝撃を塗り替えることは困難ですので、「大谷がどれだけ凄くても、長嶋や王の凄さには勝てない」とか本心から言っちゃう人はどこにでもいるわけですよ。
まあ、客観的なデータ志向とか、合理性から考えると、年寄りが間違っていることも多いのですが、そこで老害とケンカ腰になってしまうと、賢明ではありません。そこは「昔の凄い人がいるからこそ、後の人がそれを目標に頑張れるんですよ。だから、先輩も我々の良い目標として頑張って下さい」とでも言えば、体育会系の昭和脳な人は話が通じたと納得してくれます。じっさい、先達がいて、金字塔を立ててくれたからこそ、そこを新たな目標として頑張る天才も続ける訳ですからね。
野球に限らず、サッカー、バスケ、ボクシング、あと、スポーツではありませんが頭脳の戦いの将棋棋士や、その他、eスポーツなんかを含めても、スポーツや競技の数ごとに、天才と呼称される選手や競技者はいるでしょう。
残念ながら、NOVAはスポーツをしないし、興味も薄い人間ですので、スポーツ界の天才のことは語れません。天才だろうと、普通の選手だろうと、みんなNOVAより運動神経が発達していて、努力も続けてきた人たちなので、凄いなあと感心することしかできません。
ただ、競技の世界では明確な点数や勝ち負けがはっきりしますので、その中で結果を出している選手たちは、しばしば持ち上げられて天才と称されます。自称ではなくて、スポーツ新聞やスポーツニュースなどで。
今年はオリンピックイヤーですので、金メダルをとったら、その結果だけで天才呼ばわりされる人がまた増えることでしょう。
そして、その人の練習風景が映像で流されたりしながら、「我々が天才と思っている◯◯さんも、人一倍努力を続けていたんですね〜」と月並みなコメントを付けたりするのかな、と。
さすがにリアルで、「いや、努力なんて一切してませんよ。生まれ持った才能、それが全てです」なんてコメントを付ける選手も、コメンテーターもいないはず。
まあ、「好きなことだから、努力とは思ってません。やりたいから、やるべきことだから、自分がやれる範囲のことをやって来た。その結果です」ぐらいは言うかもしれません。
天才とは、他人にできないだけの凄い努力を懸命にこなせて、結果を出して来た人たちということができます。少なくとも、NOVAにとっての天才とはそういうイメージです。
まあ、「ここまでの努力をして来たのは自分だけだろう」という程度の自負心はあるかもしれません。ただし、他人の練習量を気にかけることなく、自分の練習が納得できるまで続ける、競争心よりも己の求道心だけでトップに登り詰める人もいるでしょうが、人のことは気にせず、自分の目の前の道だけをストイックに歩み通す方が純粋な天才と思ってます。
次に、天才とは古今の発明家、技術者、研究者の名を挙げた人もいるのではないでしょうか?
古くはアルキメデスとかプラトン、そこからレオナルド・ダ・ヴィンチやニュートンを経て、天才の定義で有名なエジソン、20世紀最大の天才科学者と言われたアインシュタインなどなど。
そろそろ21世紀も四半世紀になるので、今世紀最大の天才科学者と称される人物が誕生していてもいい頃合いかと思いますが、故人だとスティーブン・ホーキング(2018年没)になりますかね。特異点定理とか量子宇宙論は、平成時代の日本SFに与えた影響が大きいので、平成期最大の天才科学者という印象があります。
ともあれ、何かを発明して、それが人類文明においてイノベーションをもたらしたなら、その発明家は天才と呼称されて然るべきでしょう。
ただ、スポーツの結果と違って、その発明品は社会で受け入れられるまでのタイムラグがある。どれだけ凄いものを作ったり、凄い理論を構築したりしても、その凄さが浸透するまでには時間がかかる。
スポーツ競技と比べて、発明品の凄さはその品物がある程度、一般に普及してから後付けで発明家の天才性が報道されるものだし、先進的な理論が一般に報道されるのはノーベル賞を獲得した時期ぐらい。
つまり、体育会系の天才と違って、理系の研究者の天才ぶりが浸透するには時間がかかる。しかし、一度、浸透した天才ぶりが後から覆されるケースも稀である、と考えます。
アインシュタインが登場してからも、ニュートンの古典物理学が無用のものとして忘れ去られることはないですし、より高度な理論が構築されても、その基盤が価値を失うことはないというのが、時流に翻弄されない理系の天才なのでしょう。
なお、NOVAは理系の研究者でもありませんので、言うまでもなく、ここに名を連ねることはありません。
3つめに、天才音楽家、天才画家などの芸術系ジャンル(表現者としての歌手含む)、また文学やマンガの世界にも天才と称される人は数多くいます。いわゆる作品を作って、人の琴線に触れる人々ですね。文化系と呼ばれる人たちで、映画監督や俳優、声優なども含まれるでしょう。ゲームについては、天才ゲームデザイナーと呼ばれる人は何人か知っていますが、ジャンルが比較的新しいので、一般的に浸透しているとは考えにくい(残念ながら)。
ゲームプレイヤーの場合は、天才と呼ばれる人がいるのかもしれませんが、将棋や囲碁、チェスといった古典的な対戦ゲームを除いて、あまり天才性を取り沙汰されたりはしません。
他には、写真家や模型を作るモデラー、服飾デザインを行うファッションデザイナー、料理を作る料理人やパティシエ、建築デザイナーなど、各種ものづくりなどに天才性を発揮する人もいます。この場合、天才のセンスと、それを表現する技術の両方が評価される感じです。
ただし、文化・芸術関係は、義務教育レベルで習う古典的な人たちを除くと、割と趣味に関係して来ますので、関心の薄いジャンルだと、その天才性を知らない人も多いと思われます*1。
例えば、ベートーヴェンを天才音楽家の一人とするのに異論はないでしょう。しかし、怪獣映画の巨匠の一人である伊福部昭は日本が誇る民族音楽家でもあり、天才の名に恥じない作曲家とNOVA自身は考えますが、怪獣ファンや音楽関係者以外には浸透していないか、と思います。伊福部昭で話題に乗って来れる人は、同志と思えますので、ちょっとしたリトマス紙に使えます。
逆に、歌手や俳優などのステージに上がる人は、世間への露出も多いとは思いますが、世代差もありますし、ジャンルの細分化もあって、万人が認める天才クラスとなると、絞られて来ます。
作品作りの場合は、一作だけ当たっても天才とはあまり呼ばれませんね。代表作以外にも数々の作品を発表して、質と量を浸透させて、ある程度、広い世代で受け入れられることと、そのジャンルの黄金期を牽引したり、ジャンルの拡大に貢献したりして、文化産業を盛り立てるところまで続けてこその天才ではないでしょうか。
つまり、このジャンルにおける天才性は、ある程度、長期に渡って活動し続けることと、代表作がその業界において多大な影響をもたらしたこと、記録も大事ですが、時流の記憶と後々の影響性をもって測られる、と。
もちろん、早逝の天才もいたかもしれませんが(とりわけ古典的な芸術作品など)、神童と名高いモーツァルトは5歳で初の作曲を行い、35歳で亡くなるまでの間に、断片も含めて900曲以上も作ったと言われていて、数だけでも圧倒されます。まあ、モーツァルトの場合は、その音楽の才能もさることながら、残された手紙などから明らかな奇矯性、常識外れな変態性でも語られることが多く、「天才=常識外れの変人」というレッテルを付けても納得できるレベルなわけです。
また、仮にNOVAが天才ならば、この文化系ジャンルに入るのでしょうが、残念ながら公けに発表している作品が微小なので(ゼロではないけど)、自他ともに認めるとまではいきません。もちろん、「ブログ記事」というものを作品と称していいのなら、数だけはいっぱい書いているのですけどね。日記を書いて芸術作品でござい、と言えるのは、紫式部とか紀貫之とかの古典の人たちぐらいでしょう。
他の作品で有名な人たちの日記だから、歴史の研究資料としても有用なのであって、このブログを芸術品にするためには、ハードルが高いですな。
さて、他に天才だと、武将とか軍師とかの戦争関連(競技スポーツ同様に勝ち負けが重要視されます)や宗教・思想関連の哲学者など、歴史上の偉人が数々挙げられますが、
残念ながら、塾講師を含む教師は、天才という呼称があまり意味を為さないんですね。カリスマ塾講師と呼ばれる人たちはいます。カリスマ美容師もそうですが、その業界の人気を集めてるとマスコミが認定した「花形っぽい演出が似合う人たち」。
ただ、教育関係では、天才という呼称はまず使われません。教える人間が天才でも、いや、天才であればあるほど、教わる生徒が頭が良くなる……とは限らないからです。
天才は効率のいい教え方ができる? そうとは限りません。
天才は試験で出るポイントが正確に当てられる? これは有り得ます。どんな問題が出そうで、どんな問題はあまり出ないかは試験傾向から分析できます。
しかし、過去のデータは参考になっても、次のテストでそのデータ通りの問題が出るとは限らないわけですね。試験範囲から確実に出る問題の半分ぐらいは予想できます。しかし、残り半分は……問題を用意する教師の心の内までは読めませんよ。
つまり、真っ当な塾講師にできることは、日頃のトレーニングをコツコツさせて、行き詰まっている生徒に適切なフォローやアドバイスをして、生徒たちのモチベーションを高めるようにして、質問には分かりやすく答えて、天才性とは関係ない地道なサービス業です。
教師として言っていることの一つは、「俺はお前らの力の半分までは引き出してやれる。だけど、残り半分はお前たちが真面目にやらんと伸びんからな。あと、ケアレスミスで点数は10点から20点ぐらい削られる。だから、自分では70点ぐらい取れると思っている子は、テストの後で見直しをしっかりせえへんと、60点とか50点ぐらいや。だから、テスト当日にできないことを悔やむ必要はない。できることを確実に点数にすることを考えるんや。まあ、できないことが運良く思い出したり、ひらめいたらラッキーやけどな。できることを増やすのが試験勉強。できることを確実に物にするのが当日のテストや」云々。
もちろん、パーフェクトを取るための指導ではありません。
パーフェクトを目指せる子は、こっちが何も言わなくても、基本は分かってますからね。
どんな生徒でも、100点を取らせる指導法はあるのかもしれません。徹底的に厳しく、間違いは全部直させて、再テストや補習で、100点を取れるようになるまで、家に帰らせなければいい。モチベーション? 付いて来れない生徒は、特訓コースから格下げして、通常コースで甘い授業に望めばいい。
この時点で「どんな生徒でも」という売り文句を言ってれば、嘘になるんですけどね。ただ、厳しい授業に付いて来れないのは、教師のせいではなくて、生徒のせいです。甘やかして100点を取れるならいいんですけど、現実的には100点を取る特訓をして、80点から90点ぐらいでしょう。学校も、100点を取らさない問題を用意して来ますから(苦笑)。
って、塾の話はさておき、個人的には教師が天才性をフルに発揮すると教わる生徒は大変だ、と思ってます。
天才教師は、生徒が何を分かっていないのかが分からない。自分にはすぐに分かることだから。挫折経験の少ないエリート教師には、挫折ばかりの生徒の気持ちも分からない。
ここで、いや、天才なんだから、目の前の生徒の気持ちぐらい分かるはず、と思う人もいるかもしれません。でも、仮に気持ちが分かったとしましょう。しかし、できない能力をどうやってできるところまで引き上げるか、その方法論が見えないのです。
だって、自分は天才だから、できないことをできるように取り組んだ経験がないから。これぐらい考えたらできるだろう、と。
1分考えたら解ける問題を、3分考えても解けない生徒がいたとします。
なぜ解けないか? 教師は理由を考えます。そして、その考えが、思わず口に漏れたら負けです。「何で、解かれへんねん?」
ここで生徒が見下されたと思ったら、教師への信頼度が10ポイントぐらい下がります。いわゆる失言って奴です。
自分なら、その生徒の理解度を確認するための誘導を試みますな。「公式、分かってるか?」(英語なら、「その文の文法、思いつくか?」など問題によって聞き方はいろいろ)
基本的に「何で?」と聞くのは、分かってない相手への質問としては悪手ですな。そんな複雑なことを聞いても、まともな返事が返って来ません。YesかNoで答えられる質問でないと、頭がパニクって相手は答えられない。
ちなみに、「公式、分かってるか?」の質問に、「どの公式ですか?」とか「解の公式をド忘れしまして」と応じれる生徒なら、見込みありです。公式さえ教えたら、後は自力で解けます。あるいは、「教科書開けて、自分で公式調べていいぞ」とか言ってあげると、嬉々として調べる生徒とか、まあ、反応はいろいろ。調べて分かるなら、時間がある限り、調べさせるのが正解です。
「公式、分かってるか?」の質問に、リアクションできない子の場合は、もう少しフォローが必要です。「その問題は2次方程式の解の公式を使って解くんや。解の公式を言うたるさかい、まず聞きながら写せ」
ここで、聞いた内容を正しく写せるかどうかを見ます。本当に公式が分かってない生徒は、「2a分のマイナスbプラスマイナス・ルートbの2乗マイナス4ac」と聞いても、正しい形で写せなかったりしますからね(苦笑)。
まあ、その後は、何がaで、何がbで、何がcなのかを確認させて、代入が上手くできるかどうか見ながら……と細かく様子見しながら、必要によっては、解の公式で解く問題をプリントコピーして、練習させるところから戻る、と。
これが試験直前だったら、「お前、解の公式の問題はパスしてもいいわ。その代わり、平方根で解ける問題と、因数分解で解ける問題はしっかりできるようにして、そこで最低限の点数は稼げるようにしとけ。それだけでも半分ぐらいは行けるから」と、アドバイスせざるを得ないこともあります。
無理に、身に付いていない解の公式を一夜漬けで身に付けさせようとすると、他のできる問題までごっちゃになって、ますます点数が下がってしまうケースもありますからね。
直前ギリギリで身に付いていないものを、追い込まれた時に一気に吸収しちゃう超短期決戦型の生徒もいれば、追い込まれるとパニクって、できることまでできなくなる「能力としてはじっくりコツコツ型なのに、性格がそうでないために普段から無理やりでもコツコツ引っ張らないといけない生徒」もいますし、それぞれの子ができるだけの点数を取れるための戦術案を考案して、テストで死なずに窮地を乗り越えさせるところが塾講師の仕事になったりすることもあります。
いや、まあ、「そんな土壇場で慌てないと、日頃からコツコツやらせておくのが仕事じゃないですか?」と聞かれたら、その通りです、と答えますけど、でも、やらせても身につかない生徒はいるわけで。新しいことを身につけさせると、前のことを忘れたり、ごっちゃになったり、その都度、頭の中を整理させてやらないと、身につかない生徒を、挫折を知らない天才が教えるのは無理ですよ。
まあ、自分は挫折を知ってる天才だから、辛抱強く付き合えるんですけどね(自画自賛)。それでも、受験に合格するまで付き合うと、いい思い出になるわけです、マジで。
最近の話じゃなくて、10年以上前の話。もう時効でしょ。
ドラマにはならないけど、できないことをできるようにさせるために、それだけ情熱注いでる教師も世の中には数知れずいるんです。
だから、天才教師の名はいらないけど、クールな熱血教師ぐらいの称号は欲しいですぞ。まあ、余裕があれば、コミカルも名乗りたいけど、コミカルを重視して中身のない雑談に明け暮れるような塾はダメだからな。小学生相手ならまあ。
いずれにせよ、教育関係者に必要なのは、トラブルシューフィッター的な穴埋め作業なんですな。相手のミスや落ち度に素早く気づいて、そこをフォローする仕事。
まあ、優秀な生徒をさらに引き伸ばすには、天才の能力が必要かもしれません。高校生相手には、そういう顔を見せている。相手に合わせて、自分の姿勢を切り替えないと、いつでも一本調子の一つ覚えではいけません。
個人的には、できる子をさらに引き伸ばす方が、やる気も出るし、そういう子がごく稀にミスして落ち込んでいるときにフォローする方が、空回りしにくくて済む。
できなくても真面目に頑張って、コツコツ伸びる子とか、
不真面目なのに、ここぞとエンジンが掛かったら一気に伸びる子とか、
真面目だと思っていたのに、不良仲間とつるんで、塾の経費をこっちが見ていない間に盗み取った子とか(損失補填させられた。生徒と言えども、信じられない輩がいるな、と思ったけど、これもまた時効。なお、その生徒は、罰が当たったのか、受験に失敗しました。いろいろ笑えない)、
さすがに、そういう窃盗犯な生徒は、塾講師生活35年ぐらいの間で、1回しか遭遇しなかったけど、その生徒ももう今は30代を過ぎているんだなあ。さすがにいい思い出とは全く言えないけど、2度と悪いことはせずに、真っ当に生きていたら何よりです。
とにかく、リアルでもいろいろとコツコツ頑張ったり、バタバタしたり、トラブルに見舞われたり、信頼関係がズドーンと裏切られたり、いろいろな経験を乗り越えているわけで、
そんな話の中では、個人が天才とか、あまり意味がないなあ、なんて思ってます。
なお、受験の過去問題を授業の予習で解いたりしながら、「バカな。天才の俺がこんなところでケアレスミスだと?」とか、「う〜ん、天才の俺をここまで悩ませるとは、なかなかやるな、この問題。しかし、これだけの計算を3分で処理しないといけないなんて、100点とらす気ないでしょ、このテスト」とか、いろいろ思うこともあるわけですよ。
天才の証明
え、NOVAは本当に、天才なのかって?
根拠は、地元の公立中学に在籍中は、3年間の実力テストが学年600人の中でずっと1位を守り通したことで、当時は天才と呼ばれてましたよ。
こう言うと、いや、1学年600人なんて有り得ないでしょう、と言われがちなんだけど、うちの学年は15クラスもあって、中学校は3つの小学校から集まった市内最大のマンモス校だったわけで、当時は子供の数も多かったわけですな。
で、天才と呼ばれた時の自分の反応は、「ヘ? いや、普通に勉強してるだけだし。分からないところや解けない問題があったら、徹底的に調べるけど。だって、人が作った問題で答えがあるんだったら、解けないはずがないでしょ?」って感じ。
周りを見下すかと言われたら、むしろ自分はコンプレックスだらけでした。
身長低くてチビだったし(クラスの最前列)、運動も苦手だったし、不器用で美術が不得意だったし、せめて勉強ぐらいはできないとって思った結果、フィクションでは優等生のみに与えられる学年トップの称号持ちでした。
さすがに受験を経て、私学の高校に行ったら、上には上がいる。井の中の蛙だったな、と学年5位ぐらいに落ち着いたけど(250人中ぐらいで)、上がったり下がったりの順位変動がある方が新鮮で楽しかったな、と思ったり。
ただ、高校では中学時代よりも勉強に苦戦した記憶もあって、危うく物理で赤点を取りかけたり、そこで頑張ったのに成績が伸びなかった経験をして、どうやって点数をとればいいのか、と考えた結果、初めて対応策を練ることができたわけで、
成功体験は、自信やプライドを育ててくれる。
挫折体験は、謙虚な自分を作ってくれる。
そこからの立て直し経験は、諦めずに頑張ることの重要性を教えてくれたなどなど。
まあ、人生山あり谷あり、いろいろあるわけですが、例え井の中の蛙であっても、自分は天才だと思える瞬間があったことは、創作で天才の心理を想像するうえで、一つの財産になっていると思うのです。
とは言え、天才と呼ばれる人間は古今東西、数多く確認されるわけだし、自分より凄い天才はいっぱいいて、この人には勝てないなあ、とか、自分はどちらかと言えば、努力家タイプだから天才よりもむしろ秀才かな、とか言葉の定義にこだわってみたり、
そもそも、自分の世代だと、天才と来れば次にバカボンを連想するわけで、「バカと天才は紙一重」なんですよ。
天才という言葉は、「凄い」と同義語に近いと思うけど、本来は自分でそう思うよりも先に、周囲やマスコミなどから持ち上げられて、その気になる言葉だと思うんです。
自分が初めて天才と呼ばれたのは、中学の1回めの実力テストじゃなくて、2回め以降。1回めは偶然かもしれないけど、2回め、3回めと重なると、安定した実力と見なされます。
その秘密がどこにあったかと言われたら、集中力と記憶力が秀でていたから、1回勉強したことは忘れない、という長所ゆえだと考えます。ただし、文字情報は忘れないけど、文字になってない情報は弱く、言葉にしないと認識しにくいという欠陥があって、「頭が良いはずなのにボケている」と親しい身内からは言われて、学校の勉強以外の評価が下がって来る。
つまり、特定ジャンルでは非常に優秀に見えるけど、違うジャンルでは極端にダメと見なされて、両極端な面がある。
そういう自分がダメな面を補ってくれるパートナーがいれば心強いですけど、こればかりは縁とか巡り合わせなので、ここで言っても仕方ないことですが、要は自分も欠陥人間である以上は、他人を見下すって発想にはなり難いわけです。
だから、自分にとってリアルなストーリーだと、「誰かを見下す天才」というのは嘘っぽいということになりますし、「天才であるが故の弱点」とか、そういう盲点が見え隠れすると、リアルを感じるわけですな。
天才ゆえの苦悩とか、影での努力とかが描かれていると、その作者は天才というものが(ただの薄っぺらな言葉だけでなく)肌感覚で分かっている、と感じます。
あと、これは教師をしていて気が付いたのですが、自分の記憶力が秀でているがゆえに、それを基準にして、これぐらいやったら覚えられるだろうと思い込んでいたら、ほとんどの生徒はもっと時間をかけないと記憶が定着しないものだと。
何でこれだけやって覚えられないのか? という自分の認識が、世間一般では、何でそんなに早く覚えられるの? というレベルだってことは、他人の記憶力を統計データ的にとる機会(実際に細かくとったわけではなく多分に感覚的なものですが)がないと気づけなかったわけで。
もちろん、高校時代には、自分よりもっと早く驚異的なスピードで覚える人間が友人にいて、彼にその秘密を聞いたら、目を閉じると「教科書の何ページが写真のように浮かび上がる」から映像で文章を読むことができる、という趣旨のことを言っていて、そんな凄い覚え方があるのか、と試してみたけど、その感覚は自分のものにはなりませんでした。
後にインターネットで検索して、「画像記憶」とか「映像記憶」と呼ばれる類のもので、その能力は絵心とセットで先天的に持っているものらしい。音楽における「絶対音感」と同じで、それこそ天才的な特殊能力かと自分には思えました。
ただ、その能力の欠点は、記憶の容量に限度があって、テスト範囲が限られている中間・期末などでは、暗記教科に無敵を誇るけど、範囲が膨大な実力テストになると、容量オーバーを起こして、対応できなくなる。
それを聞いて、自分は「だったら、試験前に合わせて重要なポイントを紙一枚にまとめて、大事なところだけを一括して、一枚絵で記憶できるようにしたら良いんちゃうん?」という趣旨のことを教えたら、その手があったか、と喜んでくれたりも。
まあ、自分の場合は、暗記ものは暗記シートを作って情報整理していたので、その応用だったわけだけど、高校時代の良かった点は、自分とタイプの違う天才的な能力の人間と知り合えた点ですな。
他人と比べてみることで、自分の特質や、他人の性格や気質以外の能力面での持ち味を考える機会が得られたのは、かなり大きいです。
こういう能力を持っていれば、人はどういう性格になって行くか、
あるいは、こういう性格だから、この能力を有効活用できるけど、こういう悩みが生じるだろうな、とか、
キャラクター造形を考えるうえでのリアリティも見えるようになったし、単純にステロタイプなつぎはぎでキャラを作っていると、一人の人間としての噛み合わなさが感じられて。
まあ、その噛み合わなさが、実は裏人格があって……と言われてしまうと、伏線に化けたりするのですが、最初から狙ってやってるのか、それとも書いているうちに作者が自分でも矛盾を感じて、裏人格という逃げ道を用意したら*2、90年代以降は多重人格とか背後霊憑依型主人公が定着した感。
自分自身がその手の多面性が内包されていて、気分のムラっ気が極端に出ることがありますので、上手く物語のシチュエーションにさえ噛み合っているなら、多少の性格の齟齬も受け入れることはできるのですが、そういう理由づけもなく、安定しない性格の登場人物は……何らかの意図がなければ、作者の記憶力や整合性を考える力に問題を感じますので、作品に白けたりしますね。
現実の人間は矛盾だらけの存在だったりもしますが、フィクションの登場人物が矛盾だらけだと、かえってリアリティを損ないます。現実の人間は、その背景や内心まで読みとる機会は少ないですが(そこまでの解像度で観察することは稀)、物語の登場人物は(とりわけ主人公の周辺の主要人物は)作者が提示するようにリアルよりも解像度を高めて接することになりますからね。それで矛盾が多いと、作者が登場人物をつかみきれていないということになります。連載初期のマンガのキャラが、後の描写に比べて描写が変に思えるのもそういうわけで、ただ一冊の小説でそういうことが起こると、推敲不足ということです。
ってリアルの話でも、天才の話でもありませんね。
本記事は創作論につなげるので、リアルをフィクションに落とし込む方向性で、いかにリアリティを高めるか、という話を考えるつもりです。
リアルとリアリティは、混同されがちですが異なります。
リアルは時々カオスだったり、受け入れ難い矛盾や整合性では説明できない狂った出来事が発生します。何の伏線もなく、突然の大事故や天災で人の命が奪われたりもします。
一方、リアリティは創作世界に「迫真性、現実性を感じさせて、物語としての受け入れやすさを補強する合理的整合性」です。作者が描く世界の法則がきちんと構築されて機能しているか、作者が自分の描く世界の神として違和感なく世界に、物語に浸らせてくれるかの尺度です。そこがあまりにテキトーなハリボテだと、読者が世界に、物語に浸れない。
これは作者が構築する世界のお約束と言ってもいい。そこに物語内での矛盾や粗が多いと、読者が白けます。嘘を本物みたいに見せるのがリアリティで、嘘っぽいけど事実ということもあるのがリアル。だから、リアルで起こった事件や出来事にも、どうしてそれが起こったのかという理由づけを物語っぽく解釈・編集したのがニュース番組やドキュメントだと考えます。
ニュースやノンフィクションのドキュメントでさえ、リアルの出来事を扱いながら、作り手の思惑が多少とも混入したフィクションの要素を備えていることは、情報社会の常識ですな。
よって、世間が天才として扱う人物にも、当たり前ですが、それを紹介する人たちの作為が入っていたりします。
天才ならではのドラマとか、天才っぽい演出とか、世間の求める天才像を、あるいは天才の失墜までも面白おかしく取り上げて、話題作りの物語に構成する面があります。
また、世の中には何ら業績は挙げていないけど、地味で埋没しがちだけど、天才という才能や技術をもった人間が少なからず存在します。
今、この記事を書いているNOVAが天才ならば、それをここまで読んできたあなたも、天才の素質があると思われます。ここまでの長文を読んで、理解できるだけでも、長文読解能力において優秀な少数派ってことですからね。
書く人間が天才なら、読める人間も天才なわけです。
うん、天才だからこそ、天才を理解できるものですから。
若き天才の話
さて、ここまでの文章で「天才」という単語を、何回使ったでしょうか?
ざっと数えてみましたが、タイトルや小見出しを入れて、125回でした(多少の誤差はあるかも)。つまり、この文章を読んだあなたは125回分の「天才」という言霊に触れたわけです。
天才という言葉に興味を持って、100回以上の天才言霊パワーに触れたあなたは、読む前よりも確実に天才エッセンスを身につけたと思います。何なら、これからあらゆる単語に天才という言葉を付けて、使い勝手が良いものと悪いものを峻別して、言語感覚を養う天才ライフを送るのもありかも天才。
まあ、やり過ぎると、世間はバカだと見なしますので、程々にってことですが。
そして、世間が天才と見なす条件はもう一つ。それは「早熟」ということです。残念ながら、50も過ぎてから、才能を世に示したとしても、世間ではあまり天才という目で見てくれません。「天才ジジイ」とか「天才老婆」とかは、フィクションでもあまり聞きませんね。
無天老師とか東方不敗みたいな天才武闘家はいなくもないですが、亀仙人は300歳以上。まあ、仙人なので修行で寿命を伸ばしているわけですが、このレベルになると天才という単語にあまり意味を為さない気もします。
そして、マスターアジアは49歳。思ったよりも若いというか、マスターアジアと同じ年だと喜んでいたのが、もう4年前か。
で、そんな偉大なお年寄りに見える方々が、天才と呼ばれたのは、もっと若い時期だったと思うのですよ。
「このわしも、かつては天才と呼ばれたものじゃよ。今のお前たちぐらいの年齢のとき……」と語ったりしながら、弟子の天才性を見抜いて、修行をつける老師ってのは憧れますね。
それぞれのキャラの若い日のエピソードには興味ありますが、師弟対決とか、弟子が師匠を乗り越えて、感謝する瞬間には感じ入ります。
そして、師匠が何かを残して、若き弟子がそれを受け継いで、さらなる成長を……って継承される想いのドラマにエモさと共感を覚えます。
でも、まあ、それも弟子が才能を発揮して、天才の系譜が技とか想いとか何らかの形で残って行くからこそ、意味がある話なんですけどね。
弟子が頑張って、成果を挙げるからこそ、師匠もまた宣揚されるわけで、弟子がいなければ師匠ヅラもできないわけですよ。
だから、フィクションでは、先に凄い弟子が主人公として登場して、後からその師匠になる(または師匠だった)存在が登場して、主人公の成長を引き伸ばしてくれる。
物語としての登場順では、弟子が先で、師匠が後なんですね。作者が描きたいのは、主人公の背景としての師匠ですから、師匠はあくまで弟子に抜かれるための、悪く言えば、踏み台なわけです。
で、世間が求める天才像も、ニュースバリューになる新鮮さ、未来のある若さなんです。
天才子役は、よく聞きます。大人顔負けの演技力とか。
天才スポーツ選手は、特にオリンピックだと10代から20代までだと思います。スポーツ選手は、肉体年齢が勝負ですから、長く続けても30代。そこから先は、体力勝負じゃない老練の技術とか、若者のサポートをする形でチームに貢献するなり、引退して新たな道で第2第3の人生を送るのが筋。
他のジャンルは、作品を作り続けたり、パフォーマンスができる限りは生涯現役の人もいるだろうし、研究者や発明家も研究生活を続けられる限りは続けたいでしょう。
しかし、天才と呼ばれて輝いていられるのは、若いときだけ。
若いときに新星として成果を示して話題になってこそ、世間は天才と持ち上げてくれる。
では、元・天才と謳われた人たちは、世間からの注目がなくなるとどうなるのでしょうか?
注目されたいから、チヤホヤされたいから活躍しましたって人は、別のジャンルに転身したりして、自分が輝ける場所を求めるのでしょうな。
いや、自分はチヤホヤとかは関係なくて、ただ野球が好きだから……って気持ちで頑張って来た人は、自分が好きな業界に何らかの形で居場所を求めて残ったりもするでしょう。
天才の人生は人それぞれです。
で、天才の証は、早熟性にもあるという話をしたいわけですが、簡単に言えば、「その年齢で、そこまでの能力を示したり、成果を挙げるのは凄い」って話なんですね。フィクションには非常に多いです。
天才少年や天才少女は普通にいても、天才中年や天才おばさんには花がないのと同じです。コメディ調にはなるけど。
バカボン一家で、天才性を示すのは、最も若いハジメちゃんです。
天才赤ちゃん。フィクションにはたまにいます。サイボーグ001とか。
そして、小学校に入る前から九九をマスターした子とか、小学生なのに連立方程式を解ける子とか(教えたら、普通に習得する子はいます。教えられなくても、興味をもって家にある参考書を読み解いて、勝手にマスターする子も稀にですけどいます)、そういう環境が周りにあれば、興味関心を原動力に、勝手に勉強して、学年の習熟度に関係なく、どんどん身につける子どもはいて、周囲からは天才扱いされることもあります。
自分もそのタイプでしたが、とにかく本が好きで好きで、家にあった百科事典とか読みふけるタイプでした。そして覚えちゃう。学校の授業が後から付いて来る(特に歴史)わけで、この興味さえあれば、どんどん調べて学ぶ姿勢は、幼い日から普通にあったんですね。
ただ、そういう育ち方をした子は、致命的な欠点が「興味のないことには本当に見向きもしない」ということで、やはり万能というわけにはいきません。たまたま学校の勉強というレールに興味が持てたから優等生でいられたけど、噛み合わせが悪いと、いろいろと不具合が生じるのも経験ありです。
何でも万能にこなせる器用な天才……を目指してもみたのですけど、それなりには達成できたという面もあるのかもしれないけど、完璧ではない。
あと、大人になって思うのは、自分の興味のままに突き進んでしまう傾向があるから、世間が何を求めているかということには鈍感で、流行の発信者には成り得ない性格だったな、と。
自己紹介はさておき。
早熟タイプの欠点は、持て囃されるのがある年齢まで、ということですね。
大人顔負けの演技力を持った子役が、大人になった後も、その演技力が評価されるかと言えば、「早い時期から業界に入ったので経験値は貯まる」。しかし、世間一般の価値観に鈍感なまま成熟すると、一般人の演技ができなかったりしますので、名脇役になることに支障をきたす場合もある。
だから、一時期、子役を引退して、一般生活を経験してから改めて再デビューという道を辿ることもありますし、尖った才能に膨らみを持たせる必要が生じることもあるわけで。
そう、天才というのは、どうしても偏って尖りがちなので、そこにどう膨らみを持たせるかが早熟を通り越した後の課題なんですね。
天才ゆえに生きにくい人生を歩んでいる人もいて、そういう苦悩を描いたフィクションは、伝記も含めて結構好き。
天才とか偉人とかは、順風満帆で人を見下すイヤミな奴、という印象で見ている人もいるかもしれませんが、天才ゆえの苦労とか想像できるようになると、フィクションの人物像にも幅が出ると思います。
天才という属性への解像度が、当記事で少しでも上がってくれたら良いなあ、と思いつつ、次回はフィクションにおける天才属性について、掘り下げていくつもりです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました(m0m)
(当記事 完)