Shiny NOVA&WショーカのNEOスーパー空想(妄想)タイム

主に特撮やSFロボット、TRPGの趣味と、「花粉症ガール(粉杉翔花&晶華)というオリジナルキャラ」の妄想創作を書いています。

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新カテゴリーの話

 

 当ブログ作者のShiny NOVAです。

 この6年近く、精霊少女の娘たちとの会話文体が楽しく、そういう戯曲シナリオ形式で多くの記事を書いてきたわけだけど、それ以前の記事などを読み返して、普通のエッセイとか、会話じゃない文体の記事の書き方を忘れているんじゃないかと思いました。

 会話文の良いところは、以下の3点に集約されて、ハマって来たわけですが。

 

  1. 単純に書いていて楽しい。
  2. 多面的な物の見方や発想ができる。
  3. バカなことが書ける(ボケに対するツッコミが機能する)

 

 1番は、お喋り感覚で独りじゃないって気になれる。……と書くと、ぼっちかよ、とツッコまれるかも知れないけど、まあ、友人はいても、いつでもどこでもってわけじゃないし、1人で考えたことに、その場で反応してくれる話し相手がいると、社交してる気分にはなれる。

 おそらく、ChatGPTなどの会話AIとか、それ以前の人工無脳とか、コンピューターゲームNPCとのやりとりとか、機械相手でも人間は話し相手を求めるものだろうし、自分の話に何らかのリアクションがなければ虚しくも感じる。

 そして普段の仕事は、私塾の講師なんかをしていると、毎日顔を合わせるのが、世代の違う中学生前後の子どもたち。彼らの成長とかを見ているのも充実した時間なんだけど、日常生活で「気心の知れた大人とのコミュニケーション」が極端に限られてくる。

 こういうコミュニケーションの欠如は、社交的存在と定義されている人間にとってどうこう……って難しいことを考えるでもなく、心理的に寂しくもあり、虚しくもある。

 だから、掲示板で趣味や感想話を披露し合ったり、サイトやブログで自分語りをしたり、TwitterなどのSNSでつぶやいたり、LINEなどでお喋りしたり、いろいろと対面以外のネットコミュニケーションも行うのだろうけど、それで何でも話せるか、というと話題に気を使う。

 思いつきで変なことを言ったりして、嫌われたりしないか? とか、

 つまらないジョークを思いついたけど、ウケそうにないから口に出すのは恥ずかしいけど、それでも言いたいとか、

 このネタはさすがに場違いだから別の場所で語ろうか、それとも少しぐらいならいいか、とか、社交的にあれこれ考えながらやっている。

 それで、自分が会話とか発言をして支障のない場を確保、構築、維持しつつ、自分に合わない場所と分かったら立ち去って、別の場所や相手を探す通りすがりやさすらい人になるのも一興。まあ、その中で縁があれば、常連として居心地のいい酒場やたまり場にお世話になったり、バーのマスターみたいに受け答えしてくれる相手と懇意になったり、ネット社交もリアルと同様、多くの形式がある。

 自分はサイト主として長年、掲示板運営をしたり、ゲストよりもホスト役の方が多かったりする。それは基本的に出不精で内向的な奴なので、外に遊びに行くよりも、誰かが家に遊びに来て、会話ネタや情報を持って来てくれるとありがたいなあ、と思ったり、昔からの性分だったりする。

 自分のコミュニケーション能力の参考書となったのは、TRPGゲームマスター経験で、普通は誰かのマスタリングで、まずはプレイヤーとして参加して……というのが多くの一般ゲーマーの道なんだけど*1、最初にルールブックを買って、いきなりゲームマスターとしてプレイヤーを誘って……という入り口からスタートした身には、自分の代わりにマスターしてくれる相手は(自分の狭い社交範囲には)なかなか確保できなかった。

 そんなわけで、プレイヤー経験が少ないのに、仕切りたがりな癖がついた歪なゲーマーが誕生して、それはたぶん今も尾を引いている。

 いや、今だと旧世紀に比べて、ネットを利用したオンラインプレイとか、遊ぶ機会はいくらでもあるのだろうけど(その分、GMに求められるハードルも上がったような気がする)、大人になると社交のための十分な時間が確保できなくなって、フットワークも重くなりがちなわけで……と言い訳してみる。

 元々、出不精な人間が、新しいことに挑戦するには相応のエネルギーを要するものなのだ。まあ、それでもずっと続けていると、相応に自分の居場所は確保できるし(壊れた場所もあるけど)、昔できなかったことを代替的に満たしてくれる場所や機会も得られるし、もちろんそれを維持するための努力や責任もまた自分を充実させてくれる糧となる(まあ、努力や責任もまた楽しいと思えなければ続けられませんな)。

 

 そして、自分が信頼して付き合える人間ってのも、多かれ少なかれ、そうした努力や責任を果たして来たと思しき人間だと思うし、会話の端々からそういう生真面目な感覚を持ち合わせてなさそうな無責任な相手(その割に相手に負担ばかり背負わせようとする)とは、付き合いきれんって話になる。

 それでもユーモア感覚とか、共有してる趣味に関して一途とか、自己の欠点を改善しようと努める真摯さとか、それでも上手くできずに悔し涙を浮かべながらもコツコツ頑張っている姿勢とか、そういうものには共感できる。

 自分も他人や他のキャラのそういう姿に憧れ、そういう自分でありたいと思って、100%完璧とまではいかないけど、それなりに達成できていると思うからだ。

 あ、この人のユーモア感覚はいい、とか、

 趣味を一途に追っかけてる愛情の発露に感じ入ったとか、

 自分の欠点に自覚的だなあとか(そういうのを率直に言える屈託のなさもいい)、

 大変な状況でも好きだから頑張ってるんだなあとか、

 精神コマンド「(趣味)愛」「根性」「努力」を示している御仁には、素直に敬服できるし、欲を言えば、自分もその点で敬服されたい(笑)。

 

翔花「さすがNOVAちゃん。愛と根性と努力ね。わたしも目指します」

晶華「って、自分で敬服されたいなんて、読者さんに求めて、恥ずかしくないわけ?」

NOVA「いや、読者に求めているわけじゃなくて、単にささやかな自己承認願望を書いただけだし、それを満たしてくれる内輪キャラがお前たちだからな」

晶華「ふうん。それが私に求められてる役割だったら、満たしてあげるわ。まずは、愛からね」

NOVA「何だ、瞳を閉じて、唇を突き出したりして?」

晶華「愛情表現って奴よ」

NOVA「俺の愛は、そういうのじゃないんだ。とりあえず、これぐらいにしておけ(娘の唇にそっと指先を当てる)」

晶華「う〜ん、父親ラブな娘ってのは、NOVAちゃんのツボじゃないの?」

NOVA「ツボってわけじゃないけど、最近よく見かけるな。ラノベの作者が年齢を重ねているうちに、ヒロイン役にそういう育成感覚を求めるようになってるのかな。まあ、父親感覚で娘に接するような作品だと、こういうものがパッと思いつくが」

 

会話劇の長所

 

 で、少し油断すると、手癖で会話モードに流れてしまうのが、今のNOVAですな。

 例えば、娘相手だと思えば、「俺口調」でも割と普通だし、1人称、俺は学生時代からの友人や、本当に距離の近い身内相手にざっくばらんに会話する時に使ってる。

 でも、掲示板書き込みやブログコメントでの応対では、「自分」「NOVA」「ぼく」の順なのが今である。会社員など仕事慣れしている場合は、「私」も普通に使っている人も多いけど、NOVAが「私」口調になるのは、保護者対応の局面にほぼ限られている。まあ、その場合は「こちら」と言ったり、「自分」だったり、塾講師一般を示す場合に「私ども」と言ってみたり、父兄との距離感を探りながら、適切な一人称を使い分けている次第。

 ただ、個人的に一人称「私」は営業用で、限られた局面でしか使っていないので、趣味話の場ではあまり使う習慣がない。もちろん、お客さんが一人称で何を使うかまでダメ出しをするつもりはないし、それこそ、その人の培って来た個性だ。

 でも、やはり、初対面で「俺」口調で話しかけられると、「何こいつ?」と思ってしまうので、内輪以外で「俺」は使わないな。

 

 で、1人称だけでもキャラ付けができるのが、日本語の文章の面白いところだけど、「NOVA」という自分のハンドル、あるいは名前を1人称にする心理は、子どもなら甘えというイメージもあるけど、自分の場合は「3人称による自己分析モード」になってる。

 「NOVAは特撮マニアだから」と言ってしまうのは、客観的な自己分析。

 これが「自分は特撮マニアだから」と書くと、自己言及の度合いが強すぎて、相手との間に壁を作っているように思うかな。

 あと、職業的な1人称で言うなら、生徒相手に「先生は」と言ってしまうのは、教師に限られると思う。政治家や研究者、医者など、世の中には先生と呼ばれる職業もあるけど、1人称が「先生」で許されるのは、まだ成熟していない子どもを相手にする教師の特権だと思ってます。

 政治家は、自分より年上のお爺ちゃんやお婆ちゃんも含む聴衆を相手にしないといけないので、自分のことを先生と言うことが間違いだとなるわけだけど、

 子ども相手だと、確実に100%自分が年上だ(フィクションにおける超天才児が教師役をやってる非日常世界を除く)。子ども相手に人間関係を示すのにも、1人称「先生」は有効です。最初は自分も抵抗あったけどね。

「俺が先生かよ。そんなに偉そうな立場かよ」って。

 でも、人に物を教える立場を維持するには、言葉遣いでも肩書きや身分を知らせるのが、日本語教育の上でも必要だし、道理のまだ分かっていない相手に道理を伝えるには、相応の威厳も示さないといけない。

 生徒の人格を尊重するのはもちろんだが、それで相対的に教師の人格を損なっていては、教育業は成り立たない。世の中、ダメな教師はいっぱいいて、中には生徒に対する犯罪に手を染める教師の風上にも置けないクズもニュースに登場するかもしれないが、当然、ニュースになるのは一部の例外で、多くの教師は生徒への愛情とか教育熱に満ち溢れて、どうすれば自分の知識を子どもたちに伝えるか、あるいは授業(自分の役割業務)をきちんとこなすことができるかに真剣である。

 って、「先生」という一人称話から、寄り道脱線した。

 

 さておき、会話劇のポイントは、受け応えによって、聞き手のレスポンスが得られる感覚で、話したいことが割と気楽に書けるというメリットである。

 話し相手がいなければ、この文章は当然、読者に1対1で向けられるものである。まさか、映画や大画面TVみたいに、複数の人で同時にこの文章を読んでないよね?

 これは読書もそうだけど、読んでいる間は、作者1人に向き合う読者は1人だろう。みんなで読み合わせの読書会をしているサークルもあるかもしれないけど、NOVAのこの文がテキストになるとは思ってない。

 まあ、同時に読むのは1人でも、時間差で複数の人間が読むケースもあって、読んだ者同士で感想のやり取りをできちゃうのが、プロ作家の特権だと思う。それを考えると、NOVAの駄文にそこまでの需要はたぶんないわけで、読者を当てにすると書けない……けど、稀にNOVA個人に興味のある人間や、NOVAの興味あるジャンルに関心を持ってくれる同好の士とか、たまたま検索でここに来て「何こいつ? つまらん一人語りに酔い痴れて、キモ?」とか思って違うページに移っていく通りすがりとか、いろいろな方の目に留まる機会はあるだろう(特定個人とのメールのやりとりだと、まずあり得ない感覚である)。

 

 で、今、書いていて思ったのだけど、NOVAは相手がいなくても、延々と自分語りをできてしまう変な奴である。

 壁に向かって喋ってろ、とか言われたら、真に受けて、30分ぐらいは喋り続けて、ふと我に返って、「俺、何を一人でやってるねん?」とツッコミ入れて、自己嫌悪に陥る奴である。

 いや、普通は3分ぐらいも喋っていたら、我に返るだろう、と思うのだけど、何だかハマってしまうと、30分ぐらいは軽く抜けられない。

 というか、「壁に向かって喋ってろ」と言われたら、「おい、壁。俺の話を聞いてるか? ああ、聞いてないか。だろうな。おい、壁に喋っても意味ないだろう。しゃあないから、お前のことを壁と思って喋るぞ。おい、壁」「誰が壁やねん」とショートコントを展開してしまう奴である。

 ちなみに、普通の人間は「壁に向かって喋ってろ」と言われたら、グサっと心が傷ついて何も言えなくなるか、自分が悪くないのに「ごめん」と謝ったりするか、バカにされたことに怒ってみせるかの3択だと思う。

 本当に、壁に向かって喋って、どういう形であれ、会話をつなぐ人間は……芸人になるか、創作家になるか、それとも……ただの頭のおかしい人に見られるかだろうな。

 ちなみに頭がおかしくても、笑いをとれれば、面白い人に出世できる。頭がおかしいは悪口だけど、単に「おかしい人」は褒め言葉である。清少納言が「いとをかし」という程度には、人を楽しく感じ入らせることができる(たぶん)。

 

「壁に向かって喋ってろ」

「おい、壁」

「って、ほんまに壁に喋る奴があるか!?」

「何や?」

「うわ、壁が返事して来た」

「マジかよ」

「人に話しかけておいて、何を驚いてるんや?」

「いや、あんさん、人じゃのうて壁やろ? そりゃ驚くわ」

「壁が喋ったらあかんって法律はない」

「そりゃないけど、ビックリするわ。普通の壁は喋らん」

「いや、普通は、壁に喋る奴もおらんやろ。築50年もここにおるけど、わしに話しかけたんはお前が初めてや。だったら、応えてやるのが礼儀ってもんやろ」

「だったら、美少女フィギュアに話しかけたら、答えてくれるんやろか? 毎晩、話しかけてるけど、ちっとも答えてくれん」

「そりゃ、美少女フィギュアも生まれてから50年は経ってないやろ。器物に魂が宿るには、それぐらいの期間は経たんとな」

「って言うか、お前、何を悠長に話してるねん? 壁が喋ってるんだぞ? 異常事態とは思わんか!?」

「きっかけを作ったのはお主だ、赤いの」

「俺?」

「お主が、『壁に向かって喋ってろ』と言ったから、このわし、妖怪ぬりかべが目覚めた。つまり、お主がわしのご主人さまよ」

「俺が? ご主人さま? ぬりかべさんの?」

「良かったな」

「いや、何がいいのかちっとも分からんねんけど、ええと、ご主人さまってことは、俺の言うこと何でも聞いてくれるん?」

「ご主人さまの言うことならな」

「だったら……暑いからアイス買ってきて」

「それはできん」

「何でだよ? 何でも聞いてくれるって言うたやんか?」

「聞くだけならな。しかし、わしは壁。昔から、『壁に耳あり』と言うて、聞くだけならできる。しかし、歩いて移動することはできん。ここに立っているだけのわしに、どうしてアイスを買って来るという高度な芸当ができようか? 壁に無茶を要求するな。常識で考えて、分かるだろう、ご主人」

「しかし、妖怪ぬりかべさんは足がニョキニョキ生えていて、動くぞ。鬼太郎さんで見た」

「鬼太郎さんが何かは知らんが、そのぬりかべさんはきっと生まれて何百年も経っている大妖怪なんだろう。たかだか50年のわしとは格が違う。わしも、もう100年ほど天地の精気を蓄えれば、『壁に足あり』の秘術で移動もできるのやもしれん。それまではアイスを待ってはくれぬか、ご主人?」

「待てねえよ。どこの誰が、アイスを100年も待っていられるんだよ? 人間には寿命ってものがある」

「うむ。それも道理。しかし、他ならないご主人の頼み。無下にもできん。ご主人が100年間をアイスを待ち続けられるように、わしの中に封じるとしよう。さあ、ご主人、わしの中に飛び込んで、共に精気を蓄え、100年後のアイスを買いに行こう」

「うわあ、ぬりかべの中に引きずりこまれる〜」

「って、おい、大丈夫か?」

 

 返事はない。ただの壁のようだ。

 

「今のは夢か? いや、ほっぺをつねっても痛い。これは現実だ。すると……よし、50年前の美少女フィギュアを探すとするか。ええと、1974年だったら、どんなフィギュアがあるかなあ」

 

 ……と、こんな話を即興で思いついてしまったので、形にしてみました。

 これを原型に、細部をもう少し整えたら、ショートコントの台本にできるし、会話以外の地の文を付け加えることで、ショートショートから短編小説ぐらいまでは膨らませることができるかな。

 壁との会話劇に需要がどれだけあるかは知らんから、そこまでの手間をかける気にはなれないけど、アイデアネタとしては十分かと。

 話を広げようと思ったら、美少女フィギュアとの会話コントとか、100年後に目覚めて、アイスを買いに行くぬりかべの後日譚とか、書けなくもないけど、これ以上は面白くならなそうなので、「壁に話しかけたら、壁が返事した」というシチュエーション劇の一例で留めておきます。

 ワンアイデアで書けると言えば、これぐらいで、後は書きながらつながって来たネタをさらに転がしたり、膨らませたりで、カオスな物語を構築できる。書いてる方も、最後のオチまでは考えていなくて、コントならテキトーなところで会話が終わるように締めくくって(多少は不条理でもいいけど、一応、オチは文章中のネタに絡めるようにすると、伏線みたいで完成度が上がると思う)、体裁を整える。

 このネタを小説にしようと思ったら……もっと、しっかり整合性とか設定とか考えないといけませんな。キャラ立ても必要だし、そもそもが封印されてるのに、が楽観すぎるだろう、とか心情描写も整えてやらないと。

 ただ、たかだか思いつきのコントに、そこまでする価値があるかどうかは謎。

 

 あ、無生物と会話する能力で傑作なのは、ザンスの3巻です。

 主人公のドオア君も壁と話ができる魔法能力の持ち主ですが、彼の話す無生物は衝動的で頭が悪いので(それでも冒険中のいろいろな情報源にはなる)、友情を結ぶまでには至らないのですが、クモのジャンパーとのささやかな友情関係が感じ入る傑作ファンタジーです。

 

会話劇とは別の文体

 

 で、いつもの寄り道脱線ながら、会話劇は「楽しい」「多面的な物の見方や発想」「気負うことなくバカなことを書ける」という3つの長所があるって話です。

 気楽に書けて、気楽に読めるってのが、自分にとっては最大の長所ですな。

 元の性格が生真面目で、ユーモアを表現するのが下手だったので、シリアスは書けるけど、コミカルをどう書くかで考え込んじゃいましたから。

 シリアスは書けるけど、コミカルは書けない。

 あと、美少女とかそういうのは描けない。いや、興味ゼロとかそういうのではないけど、外見が可愛いからハマるってことはあまりなくて、「特殊能力を持って、物語に貢献できる役割を持ったヒロイン」だからハマる。

 例えば、サイボーグ003とかの超視覚、超聴覚には、その描写も含めて萌えました(当時はそんな表現はなかったけど)。

 他に、『未来少年コナン』のラナちゃん。彼女も超能力持ちで、テレパシストです。同じ宮崎駿ヒロインでも、クラリスやシータとドラマの役割は大きく変わらない「主人公の少年(またはおじさま)が助ける囚われのヒロイン」です。しかし、ラナちゃんには、他のヒロインにない超能力がある。

 そして、『グレンダイザー』のマリアちゃんも超能力持ちという設定ですな。

 ……と自分が幼少期からハマったヒロインを後年になってから分析すると、それこそ涼宮ハルヒじゃないけど、宇宙人、エスパー、異世界人、他には……サイボーグとか、アンドロイドとか、モスラと交信できる小美人とか、精霊と交信できるエルフとか、そんな類。

 まあ、そういう分析をきちんと行うようになったのも、21世紀に入ってからなんですが。

 それまでは、本当にヒロインには興味がなかなか持てなかった。

 リアルでは……女嫌いってわけではないけど、女性に対する関心は「典型的なアニメオタク」と聞いてイメージされるほど、関心がない。女性? そんなのに目移りする暇があったら、特撮ヒーローやメカを見ている方が幸せだ、って奴です。

 

晶華「でも、超能力ヒロインだったら?」

 

 リアルでいるか?

 手品とかじゃなくて、浮気者に電撃を撃ち放つヒロインとか、雪女とか、小鳥と会話できる少女とか、磁力を操るサイボーグとか、変身できる少女がいたら、NOVAは悟くんを目指していたと思う。

 ……って、今の話じゃなくて、昔に話を戻して。

 つまり、NOVAにとってのヒロインって、何らかの特殊能力とセットでなければ、興味が薄いわけです。

 のび太がしずかちゃんの入浴をのぞいて云々も、何が面白いのか分かってなかったし、女性にイヤらしいことをする男の心理ってのも分からない。そこに共感を覚える時期がずいぶんと遅かったと思います。

 で、そんなNOVAが思春期にハマっていたヒロインが、彼女。

 少女マンガ雑誌『りぼん』や『なかよし』は当時、妹がもらっていたのを一緒に読んだりして、ある時期、ハマっていたりします。

 美少女ホラーだと、松本洋子さんの魔女アーロネッサの話が印象的で、作品タイトルは覚えていなかったので今、調べると、これか。

 あと、松本洋子さんで検索すると、これも思い出した。

 原作は、赤川次郎さんなんですね。

 少女マンガは本当に一時期、うちに迷い込んだから読む機会があっただけで、その後、特別に追っかけるわけでもなかったから、自分の趣味かと言われたら、いや別に、という程度。

 まあ、少女コミックで一番長く読んだのはこれだけど。

ガラスの仮面 21

ガラスの仮面 21

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 演劇の世界をテーマにした名作コミックで、この世界観は少年マンガの『リングにかけろ』と通じるものがあります。

 主人公の北島マヤと高嶺竜児が、貧しい不遇の中から努力と才能で這い上がっていき、ライバルの金持ちにして華やかな世界を生きる姫川亜弓や剣崎順と、演劇界やボクシング界の王座を巡って雌雄を決する話。

 ただし、『ガラスの仮面』は、1975年末の連載開始から来年で50周年になるのに、まだ完結していないという超長期作品ですな。だから、まだマヤと亜弓の決着は付いていないわけで、うん、この作品が完結するだけで、マンガ界の大ニュースですな。

 

 なお、貼り付けた巻は、シェークスピアの『真夏の夜の夢』をテーマに、主人公のマヤがイタズラ妖精パックを演じた話。

 このエピソードはTV女優の世界からイジメにあって追い出されることになった傷心のマヤ(母の死というショックも重なる)が野外劇で、劇団の仲間に支えられて再起する流れで、舞台劇の原点に帰って演じることの楽しさを描いた話で、とりわけ好きなエピソードです。

 

翔花「妖精郷にも通じる話ね」

 

 この劇中劇って構成スタイルも、この作品の魅力の一つだと思う。

 で、劇中劇というキーワードから、最近読み直してるラノベがこれ。

晶華「って、NOVAちゃんはやっぱり吸血鬼が大好きなのね」

 

 ホラーとかミステリーとか大好きなんだけど、今まで話題に挙げる機会がなかっただけだ。

 そういう、特別に追いかけていたわけではないけど、縁あって自分の観測範囲に舞い込んできた作品とか、自分の趣味の中でサブジャンルというべき作品群なんかも振り返りながら、

 私的な創作論を語ってみようと思う。

 小説という形態ではないけど、セリフメインの演劇シナリオ形式とか、舞台脚本にも興味はあったわけだし。

 

晶華「私的創作論カテゴリーは、私たちはあまり口を挟まない方向で進めるわ」

翔花「NOVAちゃんにとって、心機一転の新挑戦ってつもりね。応援してます」

(当記事 完)

*1:普通の卓では1人のGMと複数のプレイヤーなので、単純計算でGM人口はプレイヤー人口の3分の1〜5分の1程度になる。もちろん、GMを持ち回りで担当するグループもあるわけだし、GM経験もプレイヤー経験もバランスよく持っている人間もいるだろうけど、世の中には少数の例外もいて、「たまにはプレイヤーがやりたい」と口癖にしてるグループ内のTRPG先駆者=専任GMだって珍しくはないのだ。