Shiny NOVA&WショーカのNEOスーパー空想(妄想)タイム

主に特撮やSFロボット、TRPGの趣味と、「花粉症ガール(粉杉翔花&晶華)というオリジナルキャラ」の妄想創作を書いています。

天才論その5

天才論のまとめに入る

 

 長々と天才について語った一連の記事ですが、今回で完結させたいと思います。

 目的は、「天才というキャラクター属性を創作でどう描くかの考察」でして、自分がこれぞ天才と思えた「ボクシングの剣崎順」「バスケットボールの桜木花道」の2人を掘り下げてみた次第。

 この2人の特徴は「天才を自認して、たびたびアピールしている(普通は鼻につく)にも関わらず、物語内でそれがハマっていて、素直に格好いい」と感じられる点ですね。天才演出の成功例です。

 ちなみに、「天才を自認する」のは自意識過剰気味なギャグ演出が非常に大きくて、「俺って天才♪(調子ノリ)」「どこがやねん(作中キャラ、もしくは受け手の内心ツッコミ)」と来るパターンで、作者もそのキャラの天才性を深く掘り下げて描こうとしていないでしょう。単に多くいるキャラの個性づけの一環であり、天才ゆえのドラマを描きたいわけではない。

 しかし、剣崎は最終的に、主人公の高嶺姉弟を「自分を凌駕する天才だ」と認めて、主人公を「これまで努力で這い上がって来た人間だと思っていたが」と読者の認識を示しつつ、それを覆す発言を行います。つまり、天才・剣崎を散々強調しておいて、その剣崎をして「完成された真の天才たる主人公」を持ち上げる補強キャラとして活用しているわけです。

 一方、桜木はライバルの流川に対抗するために「天才」という言葉を吹聴しましたが、周囲はそれを認めない。まあ、お調子者の大言壮語と受け止める。ただのジョークだと。しかし、紆余曲折を経て、ドジもいっぱい重ねながらも、その天才としての資質を大きく開花していき、桜木の熱いプレイとひたむきな努力、そして直情的な漢気とサプライズな意外性に人は魅了されていく。天才という一般的なイメージ(割とクールで隙がない)とは大きく異なるキャラ像ですが、フィクションにおける天才像を新しくしたという存在感があります。

 

 それらとは異なる天才の使い方として、『キャプテン翼』は、「努力キャラの主人公VS天才キャラのライバル」という従来の定番を逆転させて「さわやかな天才主人公VS努力型のライバル」という構図で、スポ根ジャンルに新たな風を吹かせました。主人公が天才なのはもちろんですが、作劇としては「努力で成長する主人公」という描き方がそれまでの定番で、「天才たる主人公に、周りが負けるものかと成長を鼓舞される形式」というのは80年代当時は割と新鮮だったと思います。*1

 まあ、翼はキャプテンですから、チームを鼓舞するという物語上の役割があって、本来、天才というのは周囲を見下すものではなくて、その名プレイや名作品、名パフォーマンスに、周囲がワッと盛り上がる資質なわけです。周りをこけ下ろすようなのは似非天才であり、真の天才とは周囲を盛り立てる(今だと爆上げる)真のヒーロー(ヒロインでも可)である、と自分らしく主張してみる次第。

 

 もちろん、世の中には、イケ好かない慢心した天才もそれなりにいるとは思いますし、優れた才覚と業績に人格はあまり関係ないのかもしれませんが、フィクションの主要人物にイケ好かないキャラを配置して何のフォローもしないと、その作品世界の魅力を大きく損ないますからね。下手な天才使用は、双刃の剣なんです。

 天才に憧れて、自分の中にも天才を取り込もうとする。大いに結構です。しかし、天才と名乗ったから天才になれるものではありませんし、名乗るからには、天才として周囲を楽しませないといけません(エンタメ物語なら)。天才と自負するなら、それだけの努力と工夫を要して、周囲の世界を見下ろすのではなく、盛り立てることをしないと、偏狭な独り善がりのつまらない天才となってしまいます。

 天才なのにつまらない。天才の名折れってものですね。

 仮に不世出の天才であっても(恵まれない天才は結構います)、その人物を知る者からは、「あいつは天才だったよ」と認めてもらえるぐらいのパフォーマンスを示して、何かを残せて行けたらなあ、と感じる次第です。

 

天才のモチベーション

 

 人は何のために天才を目指すのか。

 普通に頑張って活躍していたら、結果的に天才と呼ばれるようになりました、というのがリアルで、別に天才という称号を目指していたわけでないのが大多数だとは思いますが、

 フィクションでは、作者が天才キャラを狙って構築するもの。よって、天才の動機というものも設定してやらないといけません。気づいたら天才になっていたよって天然ボケ気味なキャラもいて、「自覚なき天才」というキャラ付けもありますが*2、普通はそのキャラを天才たらしめる動機が設定されるもの。

 それを考察してみます。

 

1.その道が好きで好きで仕方ないから。

 『キャプテン翼』の大空翼が典型的なケースと言えますが、「ボールが友達」と主張するぐらい、サッカーに賭ける情熱や愛は卓越してる。

 「ボールが友達」ということは、ぼっちだったのかとか、友達を蹴って平気なのかとか、よくネタにもされるのですが、ぼっちだったのは事実ですね。ただ、サッカーを通じて、石崎くんを始めとする多くの友達ができて、そのプレイで少女の心を一人ならず惹きつけて、家族も持つようになる。サッカーがあればこそ、彼の周辺に人が集まって来て、人生の花が開いた。つまり、サッカーボールという友達がいて、そこから広がる友達の輪ってことです。

 まあ、初めてできた人間の友達が石崎くんということですけどね。翼ほどではないけれど、キャプテン石崎(最初はそうでした)のサッカー愛もあって、3枚めのお調子者という陽キャラ・コミュニケーション強者の石崎とサッカー好きという接点で関われたからこそ、翼の人間力も育まれたとも考えられます。

 主人公ほどの才能はないけど、フォローしてくれる友人(コミュ力はあって、主人公の才能を頼ってくれるWinWinな関係性)と、後は師匠のロベルトというモデルケースがあったればこそ、翼の才能は開花できたのだとも考えますが、とにかく、サッカーが結びつける人の輪というのがサッカー漫画としての王道ですな。

 リアルでは、そこまで趣味に徹する人生というのはなかなかなくて、いろいろな道に関わって、その中で自分を広げたり、深めたり、迷い道に入ったり、行き詰まったり、それでも進める先を求めて歩み続けるものだと思いますが、

 フィクションでは一途に自分が好きなことで、才覚を伸ばして、世界を築ける天才もいて、大いに憧れるものです。

 そして、ここまでサッカー漬けの人生か。さすがは天才の環境だな、と私生活にも愛がほとばしっているのを見て、感服する、と。

 ジャンルは違えど、オタクやマニアにはよく分かるジャンル愛。

 好きこそ物の上手なれ、を体現したモチベーションですな。

 

2.惚れた女のため

 いや、別に好きな男のためでも、家族のためでも構わないのですけど、自分が男だから、そういう動機の主人公を見る機会が多いだけ。

 ただ、動機の面で若干不純な気もしますが、それでも桜木花道とかは典型的に、キャプテン赤木の妹の晴子さんに惚れて、彼女にいい格好を見せたいから、という動機でバスケを始めて、天才と豪語して、天才らしく猛烈な努力をして頑張った結果、彼を知る誰もが認める真の天才に上り詰めた。そんな彼に道を示して、火をつけたヒロインが晴子さんですな。

 好きな相手の気を惹きたいから、自分が頑張ってる姿を見せる。そういう情念で動けるキャラは大変、人間らしいと思いますな。もちろん、きっかけはそれでも、だんだんバスケが楽しくなる、とか、周りのパフォーマンスを見て、自分も闘志を燃やして、嫉妬と憧れと向上心を原動力に頑張り続ける。

 ここで大切なのは、ヒロインの方。やはり、頑張っている相手を応援して、その才能を信じて、認めてあげることが、男のヤル気を高め、発奮させてくれる。単純な男を盛り立てるという意味では、翼のアネゴもそうですけど、内助の功というか、少年のひたむきな情熱を後押ししてくれるヒロインがいてこそ、天才性も伸ばしていける。

 もしも、アネゴの早苗が「翼くんはサッカーばかりで私のことを構ってくれない」と嫉妬モードに駆られて、「翼くんはサッカーと私とどっちが大事なの?」と迫ったら、当然、サッカーを一番愛する翼とは破局するしかない。「サッカーを愛する翼を応援するのが好き」と後押しできる早苗だからこそ、翼に付いて行けた。良きフォロワーシップというものです。

 また、晴子さんが流川のことを好きというのも、桜木の心に火をつけた。ただ、流川はアメリカに行っちゃう予定だし、そもそも晴子に対してアウトオブ眼中っぽいから、桜木と恋のライバルには絶対にならない。晴子さんが流川を好きなのは、「バスケ好きで、兄の頑張りを応援したくて、そして流川の才能が兄を助けてくれたら嬉しい」という意味の少し打算も混じっていて、桜木に声をかけたのも「バスケ愛、兄への親愛」の延長に過ぎないのだけど、そこに桜木が飛び込んで来て、これが大事なんだけど、桜木も「バスケ愛と、赤木(ゴリ)への口は悪くて泥臭いけど確立された友情っぽい仲間意識」を育むに至ったら、晴子さんと桜木で通じるものがある、と。

 ここで大事なのは、主人公とヒロインが同じ方向を向いていて、共に敬意を抱ける関係ってことですね。主人公の動機づけになる役割のヒロインだったら、その後押しを邪魔するような行動をしてはいけないし、リアルで男を蔑むような女だったら、男の才能を潰してしまいます。まあ、才能をきちんと開花させて輝ける男ばかりじゃないのもリアルなんですけど。

 これがリアルとばかり、男の才能に無頓着で身勝手なヒロインを用意して、蔑まれてもヒロインのために才能を伸ばせる天才というのは、なかなか稀なのでは、と。いや、蔑まれることがご褒美と倒錯した神経の持ち主なら別ですけど。最近、そういうのが増えているのか? ツンデレならまだしも、蔑まれても関係性が紡げるならOKと考える「女に飢えた男性キャラ」は、向上心とは逆の方向を向いているから、天才論とは違うベクトルだなあ、と。

 なお、主人公をこういうモチベーションで描く場合、ヒロインが先にサッカー好きとかバスケ好きで、しかも応援好きという設定を考えてから、そのヒロインの願望をかなえる目的で主人公の導線とならないといけません。同じ目的を共有する間柄で、ヒロインが主人公の頑張りを応援する構図が成立してこそ、物語が成立する。

 

 そして、実はリンかけの剣崎も、ダイ大のポップも、その天才性の発露には、弟分たる主人公への友情と、惚れた女への愛情があって、人気キャラとなっております。友情と愛情というモチベーションがあればこそ、天才の資質も引き延ばして行ける。

 また、スポーツ漫画では、男女が共に同じフィールドに立つことはリアルではありませんが(LGBT関係で将来どうなるかは不明ですが)、女戦士が普通のバトル漫画なんかでは、同等の立場で並び立つことは日常になっていて、女が男を守ることも、男が女をサポートすることも、それぞれの役割分担が当然となっている。

 そうなると大切なのは、価値観や目的意識の共有ですな。格好いいから(可愛いから)とか、便利で都合がいいからという理由だけで、価値観や目的意識のすり合わせもないままに人同士が結び付くのは、一時的ならまだしも、末長くお付き合いするには到底至らない。

 恋心で惚れたということなら、「相手の好きなものに、自分もハマった」とか「相手の目的意識に自分も共鳴した」とか、あるいは「たまたま利害が一致した」でも関係性は紡げますが、そこからどう価値観が共有して行けるか、それとも意見の不一致で破局するかがドラマにもなります。まあ、スポーツ漫画で後者みたいなことをするのは本来の趣旨(ジャンルのファンが望む物語)から逸脱していると言えるでしょうが。

 これは天才の話ではないですが、男女問わず相手に振り向いて欲しいなら、相手の価値観に自分を寄り添わせる「相手の好きなものを自分も好きになれる受容力の高さ」が必要になりますね。早苗ちゃんは元々、サッカーが好きで男勝りの応援団長をしていたところに、応援し甲斐のある翼くんが現れて、そのパフォーマンスに魅せられた。

 一方、桜木は晴子さんのバスケ好きにアピールするつもりで、好きな相手の好きなものに自分も飛び込むことをした。動機として、振り向いてもらいたい相手の好きなものを自分も好きになって、価値観を共有しようと試みるのは人間関係の基本ですし、そうすることで器が広がる様もまた天才のあるべき姿なのかもしれません。

 ヒロインが天才の動機であるなら、ヒロインが天才に歩むべき道を示すという重要な導き手の役割があることを失念してはいけません。ヒロインに惚れたはいいけど、そのヒロインがもしも変な道を示したら……ロードスの暗黒皇帝ベルドの悲劇*3に至って、それはそれで劇的なんですけどね。

 

 で、異世界ファンタジーなら、ヒロインが聖女だったりお姫さまだったり、指導者層であるケースも多く(異世界ではない現代風世界でも、女上司の部下や財閥令嬢の従者を主人公が担当するケースあり)、自分よりも立場が上の女性に、ほのかな、あるいは強烈な恋心を抱きながら、その願いや望みを叶えるために頑張る天才主人公もいるでしょう。

 その典型は、『聖闘士星矢』の女神アテナこと城戸沙織に仕える聖闘士たちです。アテナの願う地上の愛と平和のために、聖闘士たちは命をかけて戦う。宗教といえば宗教ですけど、人格神が女性ということで、身を犠牲にする女の子を助けるため、という動機づけになっています。抽象的な地上の愛と平和という概念を、具体的な「女の子ヒロインを助ける点」に移し替えた秀逸な設定だと思います。

 女の子の夢や願いを叶えるために、イケメン男子5人が華麗に戦う物語。そして自分の代わりに戦う少年を応援鼓舞する女神の加護とか、惚れた女のためという俗っぽさを高貴な神聖さに昇華したりも。

 まあ、そういう大義以外に、それぞれの聖闘士には家族のためとか、命を救ってくれた友への恩義のためとか、悪に堕ちた自分を諌めてくれた贖罪のためとか、個々の動機が積み重なって複層的なドラマ構造になっているのですけどね。大義とは別に、個人の願いもあって、時に両者の間で葛藤するドラマも生きた人間っぽくて面白い。

 

3.親や師から受け継いだ想いのため

 

 人は遺伝によって肉体的特質を、教育によって技術や知識、思想を次代に引き継がせることができる。ある程度までは、ですが。

 では、「天才性」という資質を引き継がせることは可能でしょうか?

 

 これは人に限らず、AI技術の発展によって、またクローン技術や脳科学の発展によって、可能になる未来が来る可能性はあるかもしれません。

 今、活躍している天才や、故人となった天才の培った才能を、そっくりそのまま受け継いだロボット、あるいはクローン人間やバイオボーグなど、実現できたなら……SF的な思考実験になりますな。

 じっさい、「天才性」というものは、脳の中にあるのか、それとも修練によって身につけた筋肉や骨格などの運動系にあるのか、あるいは科学ではまだ解明できていない霊魂の中に宿っているのか、憑依ものによくある「霊魂が肉体によく馴染んだ場合、元の肉体の持ち主が備えていた天才性は乗っ取った人間がそのまま継承できるのか」など、考える要素は数多いです。

 例えば、ファンタジーRPGだと、憑依の呪文は普通にありますが、邪悪な魂が善神の司祭の肉体を乗っ取った場合、神の加護たる奇跡(僧侶呪文)はそのまま使えるのか、あるいは信仰が源なのだから善神を信じていない憑依者には使えなくなると解釈すべきか、まあ、無難に考えるなら「肉体的能力以外は使えない」と解釈すべきでしょうが、それなら武道の奥義(精神的悟りに由来するものも多い)は使えるのか使えないのか、どっちなんだい? と某筋肉芸人みたいに尋ねたくなります(笑)。

 

 まあ、AIや憑依まで考えると話が広がり過ぎるのは明らかなので、この辺にしておいて、天才性を開花させるモチベーションに話を絞ります。

 天才である親の子孫や、天才である師匠から学んだ弟子ってのは、やはり天才性を期待されるものでしょうね。「あの親にして、この子あり」とか「先代の技と奥義を継承した弟子キャラ」とか、親や師匠の七光にならないように頑張って修行して、先代に恥じない自分を磨き上げるか、それとも途中で挫折したり、プレッシャーに負けて鬱屈したり、別の道に居場所を見出すか、親や師匠の名を汚すまで転落してしまうか、などなど、いろいろなドラマのテーマにもなります。

 一代限りの天才性(脳内で複数キャラが喋ってるとか、明晰夢とか、友人の映像記憶とか)はたぶん個人の特殊能力で、人に教え伝えることは難しいんじゃないか、と思いつつ、肉体の鍛錬で伸ばせる要素(筋肉とか、技とか)、および頭で学習できる要素(これも技とか知識とか、思想とか)は後天的にも伝達できる。

 あとは肉体や知識をじっさいに活用できる感覚的なコツですね。自転車の乗り方とか、鉄棒の逆上がりの仕方なんかと同じで、一度コツをつかめば簡単にできるけれども、二輪のバランスのとり方や、足の持ち上げ方はコツが分かるまでは、四苦八苦する。

 そもそも、体が小さくて足が地面に届かないとか、腕の筋肉が極端に弱くて体を支えることができないとか、肉体的なハンデが付いて来る場合もあるし、創作も同じようなハンデが付いて来る。

 根本的な知識が欠けるとか、人の感情を(リアルであれ、フィクションであれ)察するのが苦手とか、他人が楽しいと思っているものを共感して楽しめないとか、料理なら味音痴とか、例えのセンスが致命的に悪いとか、笑えないジョークしか思いつかないとか、などなど。

 いや、笑えないジョークも、本人が自覚しているならいいんですよ。「あ、このジョークはつまらないな」と言うことが分かっているなら、「つまらないジョークを連発して、他人からバカにされるキャラ」を構築して、そのキャラと絡めるキャラと漫才させればいい。

 そもそも、キャラの絡みが上手く書けない? これがラノベや劇の脚本などだと、結構致命的ですね。キャラの絡みが面白さの半分以上って作品が多いので、いろいろ研究してください、としか言いようがない。独り善がりなキャラばかりで、ちっとも絡みが見えない物語は、自分にとって読むのが苦痛です。ドラマって、一人きりじゃなくて、そのキャラの魅力を引き出す別キャラとのやりとり(キャッチボールやパス回し)で生まれると信じていますから。

 まあ、脳内に異なる主張を持ったキャラがいっぱいいるなら、喋りすぎて考えがまとまらなくて困る、という悩みはあっても、絡みが見えないということは……あ、例えば、「寡黙キャラ2人によるコント」というのは、大変そうだ。

 ヒイロ・ユイと、綾波レイと、ブラックサレナのテンカワ・アキトで、「……」だらけになって、兜甲児辺りが「お前ら、何か喋れよ」とオチを付けるようなスパロボコントがあったような、アキトは混ざってなかったかもしれんが、とにかく、寡黙キャラが複数いると、喋らせるのに苦労します。

 普段は寡黙だけど、趣味の話題だと乗ってきて冗舌になるとかは割と一般的ですけどね。

 とにかく、キャラは単独だとどれだけ個性的でも、お話が面白くならないとは思っています。ポエムにはなっても、ストーリーは動かない。せめて、相方の使い魔とか、サポートAIとか、喋る壁とか、二重人格憑依霊とか、友だちのボールとか(蹴るなよ)……あ、翼くんの友だちのボールはマゾヒストなのかもしれないな。

「翼くん、ぼくをもっと蹴ってよ。ああ、そうそう、ぼくは蹴られると幸せなんだ。それがサッカーボールの存在意義だからね。そうそう、蹴られてゴールに飛び込む瞬間にエクスタシーを感じるんだ。でも、君以外に蹴られるのはイヤだから、君が蹴って。あ、君の友だちなら蹴られてもいいかな。上手く友だち同士でパスを回してくれると、サッカーボールとして生きてるって感じ♪   だから、君もぼくといっしょに友だちをいっぱい作ってね」

 ……と、こんな感じで、サッカーボールと翼くんの間には、常人には解し得ないコミュニケーションが行われているに違いない。

 とうとう翼くんの思考回路に追いつけた気分です。

 さすがは、天才NOVAボン(妄想回路活性化中)。

 

 こんなことを文章書いているうちに思いついちゃうのが、NOVAセンスですな。

 これを面白いと思ってくれたら、相応の共感能力の持ち主です。

 これを笑えないジョークだと思ったなら、笑いのツボがNOVAとは違うのか、共感能力の低い人間か、長い文章を読み取れない人間です。

 あるいは、そもそも『キャプテン翼』を知らない、少数派の日本人かもしれません。まあ、出版部数9000万部ってことは、日本人口よりも少ないから、世代によっては読んだことのない人間がいても不思議ではありませんが。マンガやアニメは見ないし、サッカーにも興味ない。「ボールは友だち」? 何それ? ってレベルで、創作物に関心がない人間。

 そういう人間だったら、どうしてこの文章を読んでるの? って気になりますが、アニメにも洋画のアクションドラマにも全く興味なくて、時代劇とスポーツ中継と国産ミステリードラマにしか興味のない、読書もしない人間は2人ほど知っている。それでも、時代劇の話と刑事ドラマの犯人当てとかで会話はできるんだけどさ。通じる話題が限定的でも、限られた接点を大事にすれば普通に付き合っては行ける。自分の全てを分かってもらおうと、無理な要求さえしなければね。

 創作も、好みのジャンルの前提知識が噛み合わなければ、自分が面白いと思うものが、ちっとも相手に受け入れられないケースは多分にあって、自分の中の傑作が他人にも通じるとは限らない。その中で、作り手は自分のこだわりと世間一般の流行をどれだけ混ぜられるか、あるいは客層を明確にして、「こういう人は楽しめる(はず)」というジャンルを示すべきだと思いますな。

 

 ともあれ、天才は凡人には理解できない、という一面の真理はありますが、真の天才の偉業には理解のレベルを越えて、凡人の耳目に届き、「何だかよく分からないけど凄い」と言わしめる輝きがあります。

 太陽の燃える原理が分かってなくても、その熱や光が伝わるように。

 ただ、昼の太陽にはなれなくても、夜空に瞬く星の一粒にはなれるかもしれない。5等星ぐらいの輝き*4で、相応の天文マニアにしか気づいてもらえない「うお座のゼータ星レーヴァティ」程度の存在感であったとしても。

 って言うか、うお座の星って地味だよね。さそり座のアンタレス(1等星)ほど目立たなくてもいいけど、一番明るい星でうお座は4等星とのことで、星座そのものが地味。

 なお、黄道十二星座で有名なのは、アンタレスのほかに、おとめ座のスピカ、おうし座のアルデバラン、ふたご座のカストルポルックス、しし座のレグルスといったところかな。

 

 で、何で星の話に夢中になっているかと言えば、自分がShiny NOVAですからね。「輝きの新星」ですよ。ちっとも輝いていないとツッコまれるかもしれないけど、こう見えて輝いてるんですよ。5等星のレーヴァティ程度には。

 レーヴァティ。インドの占星術に由来するネーミングでこんな意味があるらしいです。

 うお座のゼータ星にレーヴァティの名が付いたのは2017年らしいので、割と最近。

 ちょっと親和性を感じております。

 

 さておき。

 天才キャラのモチベーションとして、親や師匠から受け継いだ素養や財産は確実にドラマの糧になると思うんですね。

 唯我独尊を絵に描いたような剣崎であっても、剣崎財閥あってこそのキャラ性ですからね。

 竜児は当然、姉の菊と、それから父親ボクサーの高嶺豪(故人)と、さらにボクシングジムの会長である大村蔵六(カイザーナックルをゼウスから託された過去がある)という親代わりの師匠がいる。

 主人公周りの親や師匠は結構充実してる話なんですね。続編のリンかけ2はもっと明確に親や師匠との対立と継承のドラマですし。

 翼もロベルトがサッカーの師匠で、オーバーヘッドキックやドライブシュートを伝授してくれた。

 桜木花道については、安西先生の存在感が、作品全体を引き締めてくれます。

 

 師匠といえば、ダイ大のアバン先生やマトリフ師匠、拳聖ブロキーナ老師など、数々の師匠キャラが登場し、その活躍の過去編を描いたコミックもそろそろ終焉が近いです。

 親といえば、戦争で孤児となったヒュンケルを育てた地獄の騎士バルトス、ダイを養育した鬼面道士のブラスじっちゃん、そしてダイの実父であるドラゴンの騎士バランとのドラマがそれぞれアバンの使徒の勇者たちの物語を彩りました。

 

 どれほど生まれもっての資質があったとしても、子どもは一人で育つことはできません。

 リアリティを持った創作を考えるなら、親や親代わりになる師匠の存在は無視するべきではありません。少年少女の物語に親は邪魔という意見もありますし、大人が背景に埋没している作品もあるでしょうが、親の出ない唯我独尊キャラの『仮面ライダーカブト』の主人公・天道総司の口癖は「お婆ちゃんが言っていた(格言)」です。天道が天才キャラなのは言うまでもないでしょう。天才という言葉は使っていませんが、「天の道を行き総てを司る男」と自己紹介している男が天才でないはずがありません。

 つまり、劇中に登場していない祖母が精神的バックボーンに根付いているわけですな。

 一方、ライバルになる加賀美には警視総監をしている父親がいて、父子のドラマも見せてくれます。

 

 学園ラブコメだったら、親は必要ないという考えはあります。

 その場合でも、所属部の顧問の教師やクラス担任、もしくは師匠代わりになる部活の先輩がいて、あれこれ面倒を見てくれたり、解説役を担ってくれると、リアリティが出ます。

 天才キャラなので独学で何でも習得できて、師匠から教わるものはないという設定の場合は、自分が愛読している書物からの引用を通じて、教養を示すといいでしょうな。

 天才キャラなのに、作者に何も引用する教養がない場合、とりあえず作品のために勉強ぐらいしろよ、と正論を述べたうえで、裏ワザを一つ示します。

 

「世間ではまだ無名なんだが、最近読んで面白いと思った神学研究者、結城ジョンって言うんだけど、聞いたことはないか?」

「神学研究者なんて、オレが知るわけないだろう?」

「だろうね。君の方は?」

「結城ジョン? う〜ん、その人かどうかは知らないけど、本屋で見たことはあるかも。ええと、確か……『大宇宙からのメッセージ』だっけ?」

「惜しい。『大宇宙の呼ぶ声』だ。帯に、神からのメッセージを君たちに伝える……って感じの煽り文があるから、それと混ざったのかもね」

「どっちにしても、怪しそうなタイトルの本だな。どうせ、デマカセばっか書いてあるんだろう?」

「創作かもしれないけどね。下手に信じ込みさえしなければ、なかなか刺激的で面白い読み物だ。それに書いてある内容が、今回の事件と似ているような気がしてね。参考ぐらいにはなるんじゃないかなあ」

「どんな内容? 聞いてみたい」

「長くならないよな。お前の話は眠くなるから、長いのは勘弁だぜ」

「あんたは誰の話でも眠くなるじゃないの? 黙って聞いてなさいよ」

「では、かいつまんで要点だけをまとめてみるよ。『……(以下略)』」

 

 ここで、結城ジョン著『大宇宙の呼ぶ声』は、偽書です。

 著者名も書名もネット検索しましたが、出て来ないのを確認しました。タイトルの元ネタは、NOVAの趣味から普通に推察できると思いますが、別にできなくても問題ありません。こういうのは、気付いた読者だけニヤッとできればいいところです。

 で、天才は全てが自分の頭から出すのではなくて、何かを引用して、推理の根拠にして、自分の言葉の説得力を高めるものです。いきなり、何でも知ってる、答えは見えている……とやるのではなく、多少とも遠回しに聞き手の興味を高めつつ、話を膨らませる。

 名探偵の推理の披露を聞けば、分かるでしょう。

 で、著書の記述と、自分の解釈をつなげて事件の手がかりはこれじゃないか、と当たりを付ける。そして、当たっていれば「やはりそうか」と言えばいいし、外れていれば「何かが違う? 引用がそもそも間違いか、それともぼくの解釈がおかしかったのか……いや、そうか、そういうことだったのか。盲点だった。こっちをこう解釈すれば正解だったんだな。今こそ全てが見えた」と話を流せば、当たっても外れても立つ瀬がある(笑)。

 

 そして、ポイントはここからです。

 この結城ジョン。何度か予言書の著者として、名前だけ登場させておいて、ある程度浸透したところで、物語に登場させてやればいい。

 一連の事件には無関係でも、何らかの電波を聞き取って著書にしたためたのでもいいし、事件の黒幕でもいいし、彼の著書を読んだ別人がそれを元に事件を起こしたのでもいい。

 あるいは、著書を紹介した天才くん自身が、実は結城ジョンというペンネームで書いていたとか(自作自演的な)、結城ジョンが彼のかつての師匠や身内で、行方不明になっているのを捜索中とか、いろいろつなげると、ただの引用元の偽書が物語の重要な鍵として浮かび上がって来る。

 まあ、いろいろと思いついてみましたが、結局、引用部分に何が書いてあって、どんな事件とつながって来るのかを考えないと、物語としては完成しない断片描写でしかないのですが。

 あくまで、思いつきストーリーギミックの紹介です。

 

 独学天才くんも、独学に関する資料は使ってるはずなので。

 もしも武道家なら、すでに亡くなった天才の武道の指南書を解読して、奥義を訓練中かもしれませんし(最初から完成していると面白くない)、天才は天才らしいことをしながら、高みを目指すもの。そして、主人公を見下すのは、主人公に自分と同じ高みに登って来て欲しいからです。

 期待に値しない人間には、見下すことすらしません。高みを目指す人間には、箸にも棒にもかからない凡人を相手にする時間も惜しいですから。

 

 ともあれ、主人公の天才性のモチベーションとして、前時代の天才キャラに追いつき、追い越せというのも一つの方向性ですね。

 何で天才なの? 天才に教えられて、特訓を乗り越えたから。

 その先達が叶えられなかった悲願や、先達の仇を討つために、より一層の向上を目指す主人公というドラマは熱が入ります。

 逆に、親や師匠が敵に回る形で、先代の因縁を乗り越えるというドラマも見どころがあるでしょう。

 

 自分は職業柄、教え子を持つ身ですので、師匠とか教師キャラの描かれ方に注目しがちで、そういう教育的な側面が感じられない物語にリアリティを感じないわけですが、たとえ独学でも、憧れ尊敬する人物を持つのは天才であっても変わりないと思います。

 天才の依って立つ基盤とか、それに基づく信念ないし行動動機が描かれてこそ、天才設定にも説得力が増すものだと考えます。

 まあ、そこから独り立ちして、今度は自分が人を育てる立場に身を置くとか、子や弟子さえ自分の野心を叶える道具にしか考えていない毒親ないし毒師匠とか、天才性と人格が必ずしも結びつかないケースもなくはないですが、

 自分は愛すべき良き天才キャラに憧れ、今後も目指して行けたらな、と思いながら、本稿を締めくくります。

(当記事 完)

*1:アニメの『侍ジャイアンツ』で主人公・番場蛮の魔球を打ち崩すために秘密の特訓を重ねるライバルの姿などに原型はある。

*2:超時空要塞マクロス』のマキシミリアン・ジーナスとか、苗字からして天才=ジーニアスですが、本人は当初、自分の天才性に無自覚でした。後年、成熟して『マクロス7』の艦長になったりすると、かつてのエースパイロットの凄みや才覚を残しつつ、妻や娘との関係性に悩む一人の父親としての顔を見せるようになって円熟キャラの深みが出て来ましたが。作品世界に貢献した天才の一人です。

*3:強いけど、目的意識を持たない戦士ベルドに、至高神の聖女フラウスが「戦乱のロードスを統一して平和にする」という悲願を託して、命を落とした。ベルドはその悲願に応えるために力で統一する覇道を選んだ暗黒皇帝として、至高神に導かれた聖王、かつての仲間の聖騎士ファーンとの決戦に挑むのが、ロードス第1巻のクライマックスの一つ。後に英雄王たちの過去編が描かれ、ファーンとベルド、フラウスの関係性が掘り下げられた。

*4:肉眼でギリギリ見えるのが6等星。数字が小さい方が明るいのは星を語るうえでの常識だけど、念のため。