Shiny NOVA&WショーカのNEOスーパー空想(妄想)タイム

主に特撮やSFロボット、TRPGの趣味と、「花粉症ガール(粉杉翔花&晶華)というオリジナルキャラ」の妄想創作を書いています。

エマ・ショーカのバトルダンサー・コンバート(つづきの宗教とパンダ話)

愛と信仰話のつづき

 

翔花「前回は、ソード・ワールドの話をしようと思ったら、何だか違う方向に話がそれたのよね」

NOVA「目指すべきゴールは見えていたのに、そこまでの道が見つからなかった感じで迷子になっていたんだな」

晶華「一体、何を目指そうとしていたのよ?」

NOVA「フェアリー・ガーデンの舞台である妖精郷では、妖精女王のアラマユさんが神格化されているだろう? 一方、真の妖精郷の創造主である魔女は封印されている。彼女は邪神に魂を売り、自らの永遠の生命のために、魔力源として妖精たちを箱庭に封じ込めて、邪妖の女神に昇格しようとしているわけだ」

翔花「それを邪魔したのがアラマユさんね。妖精愛に満ちたアラマユさんは、親友の恐ろしい企みを止めるために封印した。そして魔女の創造した妖精郷を妖精たちの楽園として継承し、創り直したわけね」

NOVA「このアラマユさんの妖精愛と、神にも例えられるアラマユ信仰に話をつなげようとしたんだが、前回は上手く行かなかったんだ」

翔花「愛と神さまへの信仰をつなげようとしたのかあ。確かに、好きな人(もの)にハマって崇拝したくなる気持ちって、信仰心に近いものがあるものね」

晶華「何かの作品の過激なファンのことを、信者って揶揄交じりに言ったりするものね」

NOVA「元々、愛にしても信仰にしても、日本では私個人的、すなわちプライベートな問題で、公にするべきものではなく、秘すべきこと。人前にさらすのが恥ずかしいとか、悪く言うならいかがわしい、隠微なものって感覚があったと思うんだな。西洋文化では当たり前の『人前でのキスや抱擁』とか『信仰の表明』が日本ではタブー的に扱われたというか、何となく隠れて行うべきものという感覚だったのが、80年代から90年代に公の場に出てきて、フィクションのネタとしても日常的に扱われるようになった経緯がある」

晶華「愛や色恋は秘め事ってのは分かるけど、信仰心は……どうかな」

NOVA「冠婚葬祭のような晴れの舞台や行事で信仰を披露することはあっても、日常の場で信仰アピールすることは少ないんじゃないかな。この辺、政治と宗教の問題がリアルでも取り沙汰されている昨今だけど、外国では政治家の思想信条表明は当然のことで、キリスト教でもカトリックプロテスタントかで政治方針が変わってくる。自分たちがどういう勢力の代表として政治を運営して行こうとしているのか、きちんとアピールすることで筋を通すことが必要だし、その辺を曖昧にして『思想信条は個人の問題だ』としちゃうのは、『いや、あんたらは公人だろう?』とツッコミ入れたくなる」

翔花「すると、NOVAちゃんは『政治家は自分の思想信条を表明すべき』って考えなの?」

NOVA「ああ。具体的に挙げるなら、自民党議員が『統一教会とどういう関わりを持っているか』は個人の信仰の問題ではなくて、公の問題だと考える。ただし、これは与党だけの問題じゃなくて、問いただす野党の議員にも適用される。他人の信仰を挙げつらって質問するなら、先に『自分の信仰や政治信念はこうこうで、政治はこうあるべきと考えますが、そちらはどうお考えで?』と互いの背景を披露するべきだと思うぞ。最低限の議論のマナーだと考える。

「その上で、自民党議員が『統一教会は自分たちの大切な政治基盤だから、この部分の教義が自分の政治信条に通じている云々』と述べた上で、『ただし、社会的に問題があることを今回、改めて認識したから、今後の関わりは距離を置きたい』というところまで議論を深めるならいいが、やはり政治信条と宗教の教義の関わり合い、影響について深入りしない(おそらく議員本人もそこまで深入りして考えていない)まま、なあなあで処理してきて、上手く線引きせずに『臭いものにフタ』で幕引きを図ろうとしているようにしか見えない」

 

ゲーマー視点のリアル宗教と政治な話

 

晶華「ええと、これも話が寄り道脱線になって来ていない?」

NOVA「まあ、ここは政治ブログでも、宗教ブログでもなくて、フィクション創作話がメインだからな。ファンタジーやオカルトホラーの題材として宗教や信仰を語ることはあっても、リアル宗教に踏み込みすぎると、火傷する……って考えるのが日本人感覚かもしれん。正直、『ただの票田や人材支援団体として便利だから、持ちつ持たれつで関わりを持ってきた』というのが多くの議員の本音なんだろうな。

「ファンタジーゲームの感覚なら、『正体を隠して忍び寄ってきた邪神の崇拝者が、国家の要人を利益誘導でたぶらかして国を滅ぼそうとしているので、その陰謀を暴いて邪神の影響力を排除しなければならない』と単純化できるし、クトゥルフなどのオカルトホラーでは『世界の裏に潜む狂信者の計画を調査して、邪神や魔物復活の儀式を阻止すること』が目的の一つだったりもする。まあ、ゲームだと倒すべき悪が明確に設定されていることが多い。たまに、冒険者の中に敵対勢力の関係者がこっそり紛れ込んでいたり、途中で洗脳されて寝返ったりする複雑な展開も作れないわけではないが、それで上手くゲーム運営するならGMとプレイヤーの要相談になるな」

翔花「現実は、そうそう単純ではない?」

NOVA「そもそも、日本人の欠点として、まともな宗教教育が一般的に行われていないので、宗教リテラシーがなさ過ぎるってのがあるんだよな。免疫がないから、それっぽい教義を説法されると、罪の意識とか、先祖の霊の浄化とか、家族の幸せのため、という耳当たりの良い言葉に絡みとられて、フラフラ〜と信じ込んでしまうし、そういう手練手管を向こうは研鑽修得している。宗教団体は布教勧誘マニュアルを準備していて、心の隙を巧みに突いて来るからな。

「この場合、確固たる信仰対象が別にあって、『自分の信念とあなた達の教義は相入れない。だから拒絶せざるを得ない。あなた達の教えは、我らの敵です。往ね!』ぐらいの強い信念で切り捨てないと、対応できないんじゃないか?」

晶華「統一教会に対抗するための方法論は何かある?」

NOVA「教義的には、キリスト教の原罪論に基づくものだから、『罪の意識』を駆り立てるんだな。これは多くの宗教が基盤としていて、『今のままでは、あなたは不幸になる。神や仏に帰依すれば、罪障が消滅して幸せになれる』ってセールス文句(まあ、宗教に限らず、通販商品CMでも採用している手法)に対して、『自分は別の商品(教え)で満足しているから、そちらは必要ない』で処理できる。

「極端な話、『よく分からん壷に払う金があるなら、ソシャゲに課金する方が自分は幸せになれる。あなたがぼくの幸せを本当に願うなら、課金費用を恵んでくださいよ。ぼくの金と命は、ウマ娘に捧げました。アグネスタキオン(CV上坂すみれ)ちゃん万歳!』と別の帰依する対象を話題に挙げれば、相手は引っ込むか、その対象が『低俗で、間違っていて、そんなのでは幸せになれない』と攻撃してくるか、『そんなのは一過性の幸せで、罪を償うことはできない。俗世の誘惑にそそのかされてはならない』と説法を始めると思うが、まあ、他人の幸せを否定して、しつこく自らの幸せを押しつけようとする輩に、ろくな奴はいないよな」

翔花「個人の趣味と、信仰を同列に扱うのも変だと思うけど」

NOVA「そうかな。俺にとっては、趣味人とは信仰人と同じぐらいの精神的比重があると思うがな。信仰活動が、趣味の邪魔になるようなら、天秤にかけて極力、両方を満たせるような手を考えるわけで、善意の信仰心は結構だが、それでバランス感覚を見失うようなことがあれば、課金でズブズブ引きずり込もうとするのは、ソシャゲと変わりないと思う。まあ、俺はソシャゲじゃなくて、TRPGのルールブックやサプリメントに課金してきた人間だが、信仰と同程度には、自分のアイデンティティーの基盤にはなっていると思うぞ」

晶華「じゃあ、統一教会がその世界観に合わせたTRPGを制作したら?」

NOVA「統一教会は、どちらかと言えば、ゲーム規制派っぽいからなあ。まあ、最近聞いた話題では、『ドラクエ5の光の教団がオウムとか統一教会っぽい描写をしている』ってネタ。考えてみれば、ドラクエ5は1992年のゲームで、今年が30周年に当たる。そして、ゲームが時代の写し鏡になっているという文化史的視点から分析すると、90年代というのはカルト宗教というものが世間を騒がせた時期になる、と言えるわけだな」

 

80年代〜90年代の宗教&フィクション話

 

翔花「92年って平成4年よね。今年は令和4年だから、平成初期と令和初期がリンクしてるってこと?」

NOVA「時代は繰り返すってことだが、80年代の世相ふたたびとか、90年代の世相ふたたびってのは、俺みたいな懐古オタには刺さりやすい考え方だな。まあ、統一教会が世界平和統一家庭連合って名前を変えたのが94年だそうだが、その組織の目的は『罪深いエバ国家の日本を、アダム国家の韓国が支配すること』みたいなことも言っていて、民族主義的な背景もあったりして、ややこしいなあ、と」

晶華「90年代と言えば、95年にオウム真理教地下鉄サリン事件で話題になったりもしたのね」

NOVA「こっちは関西人だから、当時は阪神・淡路大震災の方がよっぽど大事だったんだが、ちょうど当時の仕事絡みでゲームのコンベンションのために東京へ行く機会があったんだな。Gガンダムの最終回(95年3月31日)を東京のホテルで見たから、よく覚えている。

「そこで、東京の人との会話で『関西は地震で大変ですね』『東京はサリンで大変ですね』ってやりとりを交わしあったのも印象的だったし、その後のエヴァンゲリオン・ブームや、世紀末という時代背景、そして何よりもインターネットの普及で、それまではフィクションでも扱いにくかった神話・宗教絡みのネタが一気に広がったと記憶する。まあ、80年代後半のRPGファンタジー女神転生などのゲームが、その辺のタブーを打ち破る下地があった上での話だが」

翔花「それまでは、宗教的背景がフィクションで扱われることはなかったわけ?」

NOVA「ないわけではないが、例えば、デビルマンとか悪魔を題材にしたオカルト系だな。74年の仮面ライダーXは神話怪人だし、妖怪の一種として西洋の魔物、悪魔をネタにすることはあった。ただ、神さまを扱うことは恐れ多いというか、せいぜい物質化した神像をロボットとして扱うとか(75年の勇者ライディーン、81年のゴッドマーズなど)、オカルト的な古代文明や超能力を題材にした物語が中心。

「その後、85年の聖闘士星矢辺りから『神話に基づく戦士』の物語がメジャー化して、宗教テーマのフィクションが加速する。ギリシャ神話や北欧神話、そしてケルトやローマなど古典神話の物語資料なんかもRPGブームと相まって本屋の目立つところに並べられるようになり、それまでは一部のマニアしか興味のない知識ジャンルが、メジャー化していったのが80年代後半。そこから90年代に入ると、70年代のオカルトブームが再研究される流れで、研究書やビデオ、LDなどの映像資料が発売されたりもしながら、深掘りされて行くわけだ」

 

翔花「ええと、70年代は愛とか神とかは高尚なものとして扱われたけど、80年代になるとラブコメブームで愛の世俗化、日常化が浸透する一方で、神さまの擬人化、キャラ化が行われるようになり、こちらも俗化していったってことでいい?」

NOVA「愛については、80年代後半から90年代に流行したトレンディドラマの流れも大きいな。ラブコメと言えば、主にコミック、アニメ、ラノベに通じるわけだが、同時期に実写ドラマもそれまでの男性ターゲットのアクション主体から女性向け恋愛ドラマの方向性に舵を切り(その過渡期が不良少女のアクション活劇が主流の大映テレビドラマの方向性かなとも思う)、バトルと恋愛の関係性でいろいろ語れるようにもなる」

晶華「バトルと恋愛の関係性って?」

NOVA「70年代は、愛が平和に通じる高尚な概念だったんだな。戦いをやめて、愛し合うことで平和な世界を築くという哲学。しかし、80年代になると、愛情のもつれで争い合うドタバタコメディ(ラブコメの基本はこれ。愛で平和がもたらされるならラブコメは成立しない)が市民権を得て、愛のために戦うという流れになる。ラブ&ピースではなくて、ラブ&ウォー、ラブウォリアーの時代だ。愛ゆえに人は苦しみ、戦うのだと言った聖帝サウザーさんもいて、愛情の表裏を掘り下げて描かれるようになったのが80年代で、物語が深化したりもする」

翔花「宗教もそうよね。世界に複数の神さまや信仰形態があれば、神さまを信じたから平和に収まるというのではなく、神さまを信じるからこそ、戦いに駆り立てられるという」

NOVA「宗教戦争の構図だな。信仰というのは文化や思想、社会組織の土台になるから、信仰が異なるというのは異文化、異なる思想、異なる社会制度となって、相手の常識は自分たちの非常識にも通じる。寛容の精神というのは、相手への理解と許容から生まれるのだと思うが、互いの土台となる良識や価値観が異なると、『理解した→その結果、相入れない物の考え方が分かった→決裂』となる。理解と受容は必ずしも同義ではない」

晶華「愛も宗教も、他者を排除する独り善がりな方向に走る危険があるってことね。自分や、自分の所属する集団を守るために、自分の愛や宗教を脅かす相手を排除するか、教化(洗脳)するって方向性になる?」

NOVA「相手の自由意志の尊重とか、自分と異なる思想の相手と共存するか、距離を置くか、いろいろと穏便に対処するのが社交ってものだと思うが、自己愛(あるいは自分の所属する集団愛)が強すぎると、他者を見下すことで自分を保とうとするとか、無理やりにでも自分を受け入れさせようとするとか、適切な距離が取れないとか、自他の理想的な関係が紡げなくなる。それが社会問題に発展したり、トラブルの元になったりして、傍目にはドタバタコメディーに見えたりもする」

晶華「ドタバタコメディー……って、この場合は悲劇じゃないの?」

NOVA「当事者にとっては、そうかもな。可哀想な他人に感情移入すれば、悲劇に見えるし、距離を置いてみれば視点次第で喜劇にも見える。爆弾が爆発して人が死ねば悲劇だが、自分の敵が爆弾を抱えて転んで自爆すれば喜劇にもなる。同じ現象を見ても、自分の立場や距離感の視点が異なれば、違った受け止め方ができる。そんなものは、フィクションの書き手や映像の造り手としては常識だぞ。他人の悲劇は蜜の味とも言うだろう」

翔花「割とNOVAちゃんって、悲劇に対しては淡白なのね」

NOVA「悲しみに感情移入して、自分の神経をすり減らしたくないからな。基本的に感情移入しやすい性質だから、感情に振り回されないように情動をコントロールする訓練は昔からしてきたつもりだ。もちろん、そこまで完璧に機械的にコントロールできる場合だけじゃなくて、思いがけず衝動的になってしまうこともあるわけだが、自分と関係ない他人の感情にいちいち振り回されることは愚かだと考えている。愛とか信仰はしばしば情緒志向になって、理性を喪失させようとする傾向があるから、それを行動原理にはしたくないな」

晶華「その割には、TRPG愛とか、特撮愛とかを行動原理にしているようだけど?」

NOVA「物語を味わうのが楽しいからな。楽しいものに愛情を注ぐ。つまらないものに注ぐ愛情はない。恋愛にしても、宗教にしても、物語として楽しいなら研究対象にもするが、自分が当事者として恋に夢中とか、教祖に夢中ってハマり方はできない感じだ」

 

ゼロ年代の愛と宗教

 

NOVA「世紀が明けて、90年代とゼロ年代では大きな違いがある」

翔花「何?」

晶華「そんなの簡単よ。90年代には平成ライダーがいない。ゼロ年代からクウガさんが始まった」

NOVA「そいつはまあ、間違いではないが、この文脈の答えじゃない」

晶華「じゃあ、何よ?」

NOVA「90年代の半ばからインターネットが普及して、2000年前後にIT革命、情報化社会が定着する流れになる。すると、愛や宗教の諸要素がそれまで以上に可視化されるようにもなってくるわけだな。70年代は秘されて高尚に見えていたものが、80年代に世俗化して、タブーがいろいろ払拭されていった。90年代には70年代の再研究で、『80年代に陳腐化した概念の見つめ直し』が行われて、純愛の再評価や大人の愛を模索する社会になり、一方の宗教は湾岸戦争を背景にしたイスラム価値観の見直し、世紀末思想に基づくキリスト教価値観への批判、そして宗教テロ事件をきっかけとする社会問題としての視点、一方で創作における『神さまの擬人化、萌えキャラ化という世俗化、親しみやすさへの流行』などなどが、ますます加速するわけだ」

翔花「インターネットの発達で、さまざまな情報が一般の目に触れやすくなったってこと?」

NOVA「そう。90年代まではマスコミが情報を支配していて、新聞やTVのニュースで話題になれば、社会問題として広がる一方で、個人レベルで興味を持っても調査するのは困難だし、どんな話題も一過性のものでしかなく、時期が過ぎれば研究を続けているのはマニアックな専門家のみ。

「例えば、今だと70年代にこういうニュースがあったとか、『1972年の10月28日にジャイアントパンダのランランとカンカンが日本に来て、一躍人気者になった』とか、『翌年の1月5日に、スチール星人がパンダを盗みに日本に来て、ウルトラマンAに倒された』とかの情報は簡単に調べることができるが、インターネット普及前は、それだけの情報を調べるにしても、いろいろと資料を漁らないといけない。『パンダコパンダ』と『となりのトトロ』の関連性を調べることも今だと比較的簡単だ」

翔花「何で、突然、パンダの話?」

NOVA「さあな。インターネットの検索で、突然発見したセレンディピティって奴だ。そう言えば、俺は別にパンダマニアじゃないから、上野動物園の歴代パンダの名前も、今のパンダの名前も知るわけがないパンダ情弱なんだが、それでもインターネットを活用すれば、この通り」

NOVA「なるほどな。カンカン、ランラン、ホァンホァン、フェイフェイ、早逝した赤ちゃんパンダのチュチュ(涙目)。気を取り直して、トントン、ユウユウ、シュアンシュアン、リンリン。そして現役のリーリーとシンシンと、その子のシャンシャン、去年生まれたばかりの双子シャオシャオとレイレイか。あと1頭、早逝したシンシンの子がいたとか、パンダに無知な俺がたちどころにパンダについて語れるぐらいの情報は検索できるのが21世紀の今だ」

翔花「つまり、21世紀はパンダへの愛と崇拝が盛り上がったってことね」

NOVA「そんな話はしていない。インターネットのおかげで、パンダについて調べようと思ったら、『兵庫県神戸の王子動物園ではタンタンがいる』とか、『和歌山県白浜アドベンチャーワールドには7頭のパンダがいる』ということも簡単に調べられるって話だ。

「なお、俺の素のパンダ知識はパッと思いつく限りで、『快傑ライオン丸34話(72年11月放送)にパンダランという怪人がいる』『ジェイデッカー18話はパンダ回である』『早乙女らんまの父・玄馬はパンダに変身する』『昔のヤッターマンにはヤッターパンダとコパンダが登場し、メカの素はサトウキビ型で、ファンファーレはコパンダが笹笛を吹く』『仮面ライダーギーツにダパーンが登場した』とか、『ズーロレットというボードゲームの箱絵になっている』と言ったところである」

晶華「何だか、パンダネタだけで一記事書けそうな分量ね」

翔花「で、結局、このパンダへの寄り道脱線から、どういう方向に話をつなげるつもり?」

NOVA「う〜ん。あっそうだ。『キン肉マンにもパンダマンが出ていた』ことも思い出したや。さらにネット検索すると『ワンピースにもパンダマンが出ている』だと? 他にも、オーズのシャチパンダヤミーとか、ゼロワンのスカウティングパンダレイダーとか、電王のパンダラビットイマジンとか、ビルドのロケットパンダフォームとか、見てはいたけど、記憶に残していないパンダネタはいっぱいあるなあ。さすがは21世紀」

翔花「よく分からないけど、NOVAちゃんの今の頭の中はパンダでいっぱいってことね」

NOVA「ああ、パンダは神獣として崇められている地域もあるらしいからな。古文書に記されている伝説の瑞獣、騶虞(すうぐ)の正体もパンダではないか、と語られているらしいし」

 

晶華「どうやら、今のNOVAちゃんはうっかりパンダ時空にハマり込んで、戻って来れなくなったみたいね。風都探偵(仮面ライダーW)のフィリップ君と似たような状態に陥っているみたい」

翔花「ふえ〜ん、エマ・ショーカのバトルダンサー話がちっとも先に進めないよ〜(涙目)」

晶華「仕方ないわね。こうなったらNOVAちゃん抜きに話を進めましょう」

翔花「そんなので本当に大丈夫?」

晶華「少なくとも、今のNOVAちゃんのおかしな躁状態に付き合うよりはマシよ」

 

NOVA「おっと思い出した。ウルトラマンタロウZATの車両の名前もラビットパンダじゃないか。パンダの世界も奥が深いなあ(グルグル目)」

 

翔花「うん、分かった。次はNOVAちゃん抜きで、バトルダンサー・コンバートを頑張るわ。それじゃないと、そういう記事を期待している読者さんに悪いものね」

(当記事 完)