Shiny NOVA&WショーカのNEOスーパー空想(妄想)タイム

主に特撮やSFロボット、TRPGの趣味と、「花粉症ガール(粉杉翔花&晶華)というオリジナルキャラ」の妄想創作を書いています。

エマ・ショーカのバトルダンサー・コンバート(準備編なラブコメ話)

ようやく動き出す妖精女王ズ

 

翔花「妖精女王ズって、10月再開予定って言ってたよね」

晶華「もう10月も半分過ぎちゃったよ。本当に10月から始められるの?」

NOVA「すまんな。10月に入ってもFF熱が冷めなくて。目下は10巻めの『地獄の館』を連載中だ」

NOVA「ごわす口調のカニコングが演じる萌えヒロインと称するものが、幽霊屋敷でいかなるホラー体験をするかが面白おかしく描かれている……と思う、たぶん」

晶華「たぶんって何よ? 作者なら、もっと自信満々に堂々と胸を張って宣言しなさいよ。この記事は面白いから、絶対に読むべしって!」

NOVA「いや、自分で書いていて、面白いのは分かってるんだよ。つまらないと思いながらブログ記事を書いてはいないんだから。ただ、他人が読んでウケるかどうかは未知数だ。そもそも、80年代に流行したゲームブックの攻略記事に、今さら需要があるかどうかは正直よく分からん」

翔花「よく分からんと言いながら、6月から始めてすでに9作も攻略記事を書いているのよね。つまり、一月に2作品は記事書きしていて、今ではこことコンパーニュを足したよりも、多くの記事数を書いていることに」

晶華「6月からの記事数を挙げてみると、こんな感じね」

 

・スーパー空想タイム(当ブログ):29記事

・コンパーニュ:18記事

・ウルトロピカル:50記事

 

晶華「空タイを正妻、コンパーニュを側室A、ウルトロピカルを側室Bと例えるなら、本家の奥さんよりも新しい女のところに入り浸ってばかりの、浮気者みたいな所業ね。電撃刑をしないといけないっちゃ」

NOVA「変な例えをするなよ。先週始まったばかりのアニメに早速、影響されやがって」

翔花「それだけじゃないわ。鎌倉殿の頼朝さまと言い、水星の魔女のスレッタさんと言い、今年は正妻以外にラブコメ浮気ハーレム作品がいろいろ増えてる気がする」

NOVA「いや、ラブコメハーレム作品は別に今だけに限らず、以前からいろいろあったんだろうが、比較的アウト・オブ・眼中だったからな。しかし、今年は自分の観測範囲になぜか飛び込んでくるというか、女たらしの浮気者というキーワードが目につくような気がする」

晶華「こういう作品を見てると、いろいろと影響されて自分でも浮気したくなったりしない?」

NOVA「いやいや、浮気も何も俺は女に現は抜かしていないつもりなんだが。特撮やロボット、ゲーム、時代劇に現を抜かすことはあったとしても」

翔花「プリキュアに現を抜かしたりは?」

NOVA「どうだろう? プリキュアはニチアサの延長で見始めただけだからな。15年ほど前に創作関係で『ラブコメを研究する必要に駆られた』から参考までに見るようになったのがきっかけで、それまでは友人の影響で接した作品(赤ずきんチャチャとか)を除けば、いわゆる女の子向け作品にはあまりハマってはいないわけだよ。90年代に一世風靡したセーラームーンなんかもリアルタイムでは接しておらず、後から夕方に再放送したのをチラチラ見たことがある程度で、俺にとって一番じっくり見たセーラームーンは実写版だからな」

晶華「まあ、NOVAちゃんは結婚しないのに娘がいるわけだし、2次元嫁にはあまり興味がないのよね」

NOVA「結婚は人生の墓場とうそぶくつもりはないが、恋愛市場からは外れた男という自覚はある。そういうベトベトした関係には興味を持てなくて、自分の中では欠如した感情なのかな、と悩んだこともあった」

翔花「悩んだんだ」

NOVA「ああ、鎌倉殿で実朝さんが女性に興味を持てないことをカミングアウトしていて、LGBT界隈にも配慮がどうこうって話にもなるが、別に俺個人は男性好きという性癖でもなく、結局のところ、恋愛という文化にあまり興味を持てずにいるって話だ」

晶華「それじゃ、ラブコメを楽しめないじゃない?」

NOVA「だよな。どちらかと言えば、『結実しない恋心、燃えるけど悲恋に終わるドラマ』にツボを感じてな。アンヌとダンとか、恋愛を育めない戦士とかサイボーグとかロボットとか……昭和の昔は『種族が違うから、心を通わせても結ばれない』とか『改造された体だから愛することができない』とか、いろいろとストイックな設定とドラマが基本。まあ、80年代から90年代にラブコメやアイドル戦士の流れで、そういうストイックさは薄れていくわけだけど」

翔花「そのきっかけは『うる星やつら』かしら?」

NOVA「70年代は子ども向けのアニメや特撮に、表向き大人の恋愛ドラマは排除していた作品が多くて、紅一点のヒロインは格好いい主人公にほのかな恋心を寄せてはいても、主人公は大抵それに答えない。ヒロインの想いに全く気づいていないか、恋よりも大事な使命に命をかけるか、身近にいるヒロインよりもゲスト出演する女性キャラに感情移入してヒロインの嫉妬心に火をつけるかなどなど」

晶華「異議あり。愛のために種族を裏切ったデビルマンさんや、宇宙戦艦ヤマトの古代くんと雪さんの関係、それに闘将ダイモスの一矢さんとエリカさんの関係は70年代でも愛を強調していると思います」

NOVA「アニメ版デビルマンは種族が違うから、その恋心は悲劇のスパイスだよな。不動明は美樹への愛を知って、そこから生まれる弱者へのいたわりの感情などを美しいものと思えたから、破壊と力の誇示を重視する弱肉強食種族のデーモン族を裏切った。その意味で、ストイックな恋愛感情なんだよな。だから二次創作は別として、デビルマンは美樹を汚すような振る舞いはしない。

「ヤマトについては、恋愛感情を先に表明したのは主人公の兄の古代守とスターシャであって、その後、続編の『さらば』もしくはTV版の『2』において、ライバルにして敵役のデスラーに『地球人の持ついたわりの愛こそが至高だ』的なことを言わせて、双子星のイスカンダルのスターシャへの想いを加味した上で、『愛を知るライバルだから和解もできる』というドラマに流れて行った。古代進と雪のラブ関係は、デスラーに地球人の気高さを感じ入らせるギミックでしかない(そういう視点は、後にマクロスに継承されるが)。

「その後、『愛』という概念は、主人公側よりもむしろ敵ライバルの精神の気高さ、人間性を描くタームとして扱われ、コンVのガルーダの悲劇、ボルテスのハイネルとカザリーンなど敵の美形ライバルの悲劇性を高めるフレーバーとなって、その恋愛感情をもって和解の可能性を紡げる異星人のドラマを主人公サイドに結びつけたのがダイモスと言える」

翔花「愛という美しい感情を守るために、命をかけて戦う戦士たちって物語ね」

NOVA「そう。そして逆に、正義の名の下に敵宇宙人を殲滅しようと考える三輪長官が、『戦士に愛など必要ない』と主張するタカ派の軍人として描かれ、異星人よりも強烈なヒール(悪役)で、視聴者のヘイトを煽っていた。ダイモスという作品に関しては、地球人も敵異星人も正義を掲げていたので(バーム星人は母星を失った難民で、悪ではない。そして地球との交渉を積極的に進めていた先代の大元帥を地球の謀略で暗殺されたゆえの反撃的侵略という大義を示している)、正義と悪の戦いではなく、愛や思いやりを重視する者と、そういう人間的感情を軽視する者の戦いに結実するわけだ」

晶華「愛というテーマを掲げると、ただの子ども番組の枠を越えて、大人向きドラマ的な高尚感を帯びる感じね」

NOVA「70年代のフィクションは、愛を高潔なもの、至高なものとして描き、あまり日常的なものとして描かなかったからな。ラブコメではなくて、ラブロマンスの方向性だ。恋愛要素のある作品を全てラブコメと見なすのは、いかにも頭が悪い。女神のような人類愛と、駄女神的な偏愛感情を同列に語るのはいただけない」

 

翔花「ところで、これって何の話?」

NOVA「ん? 妖精女王ズにつなげる前置き……になってないな(苦笑)。ただの筆が乗った時に発生する寄り道脱線……転覆はまだしていない事故だ」

晶華「転覆はしていないの?」

NOVA「ああ、していない。転覆してしまうと立て直しは困難になるが、今はまだ取り返しがつく……はずだ」

晶華「フッ、ここからどう妖精女王ズにつなげるか。NOVAちゃんの手腕に期待しているわ」

 

高尚な愛と、世俗的な愛

 

NOVA「そもそも、現ソード・ワールドの背景世界ラクシアの神さまは、その精神性において決して高尚なものではなく、人間の延長にあるからな。どの神さまも例外なく『何かを愛している』わけだ」

翔花「いきなり、話が飛んだけど、どういうこと?」

NOVA「主神ライフォスは、人類みんな調和の精神で協力して生きるべし、という人類愛を謳った神さまだな。悪の敵対種族はやっつけろ、と好戦的になりやすいファンタジー世界にありがちな主神に比べて、極力、話し合いで平和的に解決しようと考える、日本人好みの神さまだ」

晶華「じゃあ、何で世界が平和じゃないのよ?」

NOVA「これが一神教の考え方だと、全知全能の神さまに対して、人類が愚かで罰当たりなんだから、神の理想に向けて精進しないとって信仰になるな。そして、神に反抗して堕落したのは、みんな悪魔とか、その使徒に分類される。人類は神の子の末裔だけど、神を捨てると悪魔呼ばわりされて、神の愛もそこまでは及ばない……と断罪するのが一神教

晶華「でも、断罪された側の悪魔が愛を知って、反悪魔の人間勢力が正義のために愛を踏みにじる姿を描いたのが、原作コミック版のデビルマンね」

NOVA「TVアニメ版は、愛を知らないデーモン族に対して、愛を知る人間という対立軸だが、コミック版は愛=エロスを強調した絵柄もあったり、シレーヌのキャラ性の違いもあって、『デーモンは残虐だけど、愛も知っていて、非常に個の感情豊かな種族』として描かれている。むしろ、人間社会や文化に対するアンチテーゼ、抑圧に対する解放、エログロ要素に満ち溢れた多様性こそがコミック版のデーモン族だ」

翔花「それって、ラクシアの蛮族の方向性じゃない? 穢れを身に宿して力を得るのが蛮族って設定だし」

NOVA「そうなんだよな。まあ、もっとストレートにデーモンと呼称されているのは、異世界から来た魔神と、その力を使う職業デーモンルーラーの方なんだが、世界設定的にデビルマンのデーモン族に近いのは『穢れの力で肉体強化・変異した蛮族』の方になる」

晶華「デビルマンさんはともかく、ラクシアの神さまは全て『何かを愛している』ってどういうこと?」

NOVA「たとえば、ラクシアの恋愛神といえば妖精神アステリアが挙げられるんだが、彼女は『自然を愛している』んだな。また、『人間の縛られない奔放な感情や情熱、自由も愛している』 つまり、その神が司る領域、信仰概念があって、それらを愛していることになるわけだ」

晶華「つまり、戦神は『戦いを愛している』し、知識神は『知識を愛している』し、鍛治神は『工芸を愛している』ってこと?」

NOVA「そう。愛という言葉は、幅広い概念を含んでいるので、恋愛要素だけじゃないってことだな。恋愛など数ある愛の一形態にしか過ぎないし、恋愛感情などなくても、縁さえあれば婚姻関係は成立するのも現実だ。『恋愛の末の幸せな結婚』はフィクション的な理想像かもしれないが、アステリアは結婚に至らない自由恋愛の神だし、友人関係にしても、愛情関係にしても、結婚生活にしても、共通した価値観とか経済的な安定とか幸せを紡ぐにはいろいろな要素が付いて来る。幸せには、心理面と物理面の両方が満たされるなり、代替されるなりが必要と考えるが、欠けている面をフィクションの空想妄想で補うことも、ワビサビの道と猿原先生もおっしゃっている」

翔花「それはドンブラね」

NOVA「ドンブラの脳人は、あの世界の上位世界から来た神、もしくは天使的な存在と見なしているが、世俗の人間社会の欲望に対して無知だったのが、ずいぶんと世俗化してきて面白キャラに育ったなあ、と考える。まあ、フィクションのキャラとしてドラマを面白くするには、視聴者に分かる程度のフック(外見とか、特徴ある性格とか、こだわりとか様々)が必要なんだが、ソノザなんて『人間の感情に興味がある』って設定だけじゃ、よく分からない動きをしているだけだったのに、『鬼頭はるかのマンガ』という接点ができたおかげで、急に編集長としてキャラ立ちして面白くなった、というキャラだ」

翔花「うんうん、共通の絡める要素って大事よね」

NOVA「リーダー格のソノイさんなんか、桃井タロウに偏愛してるってキャラ付けだけで、それまでの『芸術に興味がある』って設定がどうでも良くなったもんな。タロウに心焦がれる余り、とうとう決闘で無理心中(相討ち狙い)しようとまでしたし、その後で復活して来たら、今度はタロウの言動をコピーする危ないキャラになったし、それに巻き込まれて脳人陣営もおかしなことになっているよな」

翔花「雉野さんと犬塚さんは、愛する女性をめぐって熾烈なバトルが繰り広げられそうだし、『何か(誰か)を愛することで、ドタバタコメディーが繰り広げられている』のよね」

 

晶華「ん? 愛って、もっと高尚なものじゃなかったの?」

NOVA「だから、80年代にキャラの関係を紡ぐためのフックとして、愛という言葉が安売りされる流れができたんだな。愛は描き方によって、高尚にも低俗にもなる。むしろ、子どもじみた独り善がりな愛はギャグのネタにしかならん。複雑な人間心理(熱情、モヤモヤ、ドキドキ、嫉妬、ニヤニヤ、妄想、暴走、ラッキー、ハッピー、涙目、爆発)などを思う存分、描ける原動力が広義の愛と言っていい。『愛しているから、変なことを口走っても、言動が暴走して、周りに迷惑をかけても許される』という傍目には迷惑なだけの免罪符を振りかざして、自分は悪くないと主張する子どもめいた戯言を使う人間も増えた。こんな自制できない我が儘のどこが高尚だ?」

晶華「愛をそこまで貶めた作品は何?」

NOVA「誤解をするな。70年代に正義という概念に代わって、持ち上げられた愛という概念が、80年代に『それほど高尚で、至高なものではないんじゃないの?』という視点が提起され、乱用されたために価値が下落したというのが実際のところだ。その分岐点にちょうど『うる星やつら』があって、キャラクター描写に大きな革命をもたらした作品と言っていい」

晶華「つまり、『うる星やつら』が愛を貶めた?」

NOVA「だから、『貶めた』というと語弊があるだろう。そうじゃなくて、『愛という過剰に持ち上げられた哲学的概念を、庶民がコミカルに使いやすいように生々しく解体した』と言っていい。言うなれば、『うる星やつら』以前と以後で、フィクション界における愛という概念に変質が起こったということだな。貶めたというとただの悪口でしかないが、ここは概念を広げて面白くした、と言っていい。そして『追いかける美女と、逃げる男の子』という、それまでのフィクションとは逆転した構図への変転を、最初の1話で巧みに描いている。今から見ても見事な作劇だ」

翔花「ええと、第1話は『逃げるラムちゃんと、追いかけるあたる君の話』よね」

NOVA「女の子を追いかけるナンパな男ってのは、それまでもあったんだが、元ネタの鬼ごっこを考えると逆だろう?」

晶華「遊びだと、鬼が追いかけて、タッチされたら鬼が交代するもんね」

NOVA「鬼をタッチしたら、攻守が切り替わって、鬼娘のラムが追いかけて男のあたるが逃げるという逆転作劇がメインになったもんな。それまでのマンガの常識では、スケベな男がヤラしい目で女の子を追いかける(そして反撃のビンタを受ける)のが定番だったのが、スケベな男がヤラしい目で別の女の子を追いかけて、正妻のラムの電撃で罰を受けるという新たなラブコメ構図が発生して、それが後のシティーハンターにも受け継がれていくわけだな」

晶華「70年代にも、『身近にいるヒロインよりもゲスト出演する女性キャラに感情移入してヒロインの嫉妬心に火をつける』ケースってあったって言ったけど」

NOVA「タイムボカンシリーズでも、主役の少年に『また、デレデレして。もう、知らないッ』って嫉妬する2号ヒロインは記憶にあるな。敵のお色気女ボスのドロンジョ様が主人公にアダルトな迫り方をして、2号と張り合うヤッターマンとか」

翔花「だったら、シビレステッキの刑ね。あ、もしかして、ラムちゃんの電撃の元ネタは、ヤッターマン2号さん?」

NOVA「元ネタがそうなのか、あるいはゼンダゴリラを奮起させる愛のムチなのかは知らんが、主人公少年や他の3枚目キャラが大人っぽい美女の色気にフラフラ〜となって、痛いめにあう定番ギャグは70年代から既にある。しかし、それがドラマの中核になって、浮気心が主題歌で歌われたり、毎回のようにあたるが美少女に声をかけて、その度にフラれたりする浮気の定番化は『うる星やつら』が初だと思うぞ。

「まあ、厳密には、あたるはそれほどモテているわけではないのでハーレムとは違うのだが、ラムの友人の女性キャラやライバル美少女が次々と登場して、個性的な女性キャラの集団劇という意味で、後のラブコメへの影響は相当に高い。

「あと、リアルタイムだと81年から86年は水曜夜7時から『Dr.スランプ』で、続く7時30分からは『うる星やつら』に流れていたと記憶する。その前の水曜夜は『ウルトラマン80』を見ていたんだが、後番組の『刑事犬カール2』じゃアラレちゃんには勝てなかったようだ」

 

晶華「いろいろ思い出話もあるみたいだけど、高尚な哲学概念だった愛を日常コミカル設定ギミックに引き下げたのが『うる星やつら』ってことね」

NOVA「ああ、その文脈にタイムボカンシリーズタツノコギャグ描写もつながって来るが、異世界から来た押しかけ嫁に翻弄される主人公のドタバタコメディーは、ウイングマン電影少女にもつながって来るし、そういうジャンルを定着させて、複数女子の主人公少年をめぐる愛と駆け引きの心理ドラマが少年マンガで市民権を確立させたとか、多数の個性ある女の子が次々と登場しては騒ぎの元になるとか、語れる面は大きい」

翔花「そうすると、わたしたち花粉症ガールの物語も『うる星やつら』の影響にあるって考えていいの?」

NOVA「『Dr.スランプ』の影響かと考えていたが、『うる星』成分も入っているかもな。『くらえ、花粉症バスター』ってネタは、ラムちゃんの電撃の遠い子孫かもしれんし」

 

ブコメと神話

 

晶華「『うる星やつら』がアニメ史におけるラブコメを発展させたという話はいいんだけど、それがソード・ワールドにどうつながるかが、ちっとも読めないのよね」

NOVA「無理やりこじつけてやろう。愛という概念と、ファンタジー世界の神さまという概念が、かつては高尚にして崇高な哲学的だったのが、日常的かつ世俗的なコメディーのネタとして多用されたことで、陳腐化しやすくなったということだ。『また愛か』『また神か』と手垢がついたせいで、そこを強調しても新鮮味が薄くなり果てたのが21世紀とも言えよう」

翔花「つまり、愛とか神さまの格が下がったってこと?」

NOVA「絶対的に価値あるものじゃなくなったということさ。ということは、価値相対化とか多様性という話になっていき、作者あるいは主人公は愛や神に対して、距離を置いて客観視する姿勢で描くなり、批評なりするのが、今のなろう系とかラノベのスタイルということになる」

晶華「愛や神が絶対視されなくなった……と言うことは、愛とか信仰に現を抜かしているキャラは?」

NOVA「傍目には、コミカルな道化として描かれることになるな。恋愛ボケしたキャラとか、信仰に熱意を注ぐキャラというのは、主人公にはなれずに暴走しがちな3枚めキャラか、戦略的に考える主人公にとって利用しやすい(チョロい)ゲームのコマということになる」

翔花「ゲームのコマかあ。恋愛ゲームで、複数キャラとの恋物語を鑑賞しながらコンプリートして、最後は攻略のご褒美に全キャラ揃えてのハーレムエンドを迎えたり、神さまを召喚できる戦力としてコレクションしたり、そんな感じになるのかな」

NOVA「情報社会の影響で、一途な想いや真摯な愛情というドラマが嘘っぽい作りものというのが子どもにも分かるようになっているのが今の時代だ。それを知らない人間は情弱呼ばわりされるし、客観的視点で価値相対化して多様性を描いた上で、主人公が何かを選択する理由づけ、動機への感情移入が描けるかだな。分かりやすいのは、家族愛とか親から受け継いだ遺産とかで、あるいは家長となって身内を守る立場にある主人公とか、擬似家族的な物語が昨今の流行だと俺には思えるな」

晶華「でも、家族愛と信仰をつなげると、某カルト集団の話になったりしない?」

NOVA「いや、あれは教団という擬似家族が、世俗の家族を崩壊させるという意味で、実の親子関係よりも教祖さまを父母のように扱って、全てを捧げましょう的な教義だからな。先祖の霊魂の供養のために今の家族を捨てることが幸せの道、という教義のどこに是があるんだ、と思うんだが、愛も信仰も一途になり過ぎて、道理を見失うと破滅に通じるという一例だな」

翔花「NOVAちゃんは、愛や信仰には否定的、と」

NOVA「いやいや。否定はしないが、それを絶対視し過ぎて、融通が利かなくなり過ぎると危険だって話だ。リアルの問題はさておき、フィクションでは家族テーマの作品は安定して人気がある。学園ドラマではあえて親を描く必要もないし、異世界転生ものでも元の世界の家族は(共に異世界に来ない限り)問題視されることはないが、前者は教師という大人が親代わりだし、後者は転生した主人公が家長的な立場として擬似家族を構築する展開が多い」

晶華「擬似家族かあ。うちもそうなるのかな」

NOVA「思いきりそうだろう? まあ、だからこそ、フィクションにおける家族描写を気にかけたり、目につきやすいのかもしれないが、子どもにとっての親とか、親にとっての子ども、そして兄弟姉妹の関係性とかはキャラクターの人格構築において基本となる土台だから、そこをきちんと描くとリアリティーや感情移入の度合いも高まるわけだ。仮に孤児であったとしても養い親はいるだろうし、愛にしても、信仰にしても、家族という基本単位を蔑ろにしては描けないと思うんだな」

翔花「一途な想いや真摯な愛情とか信仰というものは何だか嘘っぽい世相だけれど、それが家族とか兄弟姉妹の関係だったら、今の時代でもリアリティーが出て来るってこと?」

NOVA「家族というのは社会の基本単位と定義されるし、家を抜きにした自立という考えは若者の成長ドラマとしての定番だけど、求愛するというのは新たな家族を作るための前置きだろうし、擬似家族にしても、義理の兄弟姉妹にしても、互いを信用し、一蓮托生の関係を紡ぐための契約関係だ。その延長に、恋愛劇とか、神話伝承のラブロマンスなんかもあるんじゃないかなあ、と」

 

晶華「でも、結局、ソード・ワールドにはあんまりつながって来なかったよね」

NOVA「どうやら、今の俺がソード・ワールド脳でないことはよく分かった。今日はスランプっぽいのでいろいろ出直した方が良さそうだ」

翔花「スランプでも、これだけ長文をダラダラ書きつらねることができるNOVAちゃんを、わたしは尊敬します」

晶華「まあ、寄り道脱線転覆事故も、たまにはOKってことね。久しぶりの父娘愛をテーマにした歓談コミュニケーションにはなったわけだし」

NOVA「しかし、予定どおりの記事が書けなかったのは心残りなので、すぐに次の記事に挑戦したいと思う。今一度たんまりとソード・ワールド成分を充填してな」

(当記事 完)