Shiny NOVA&WショーカのNEOスーパー空想(妄想)タイム

主に特撮やSFロボット、TRPGの趣味と、「花粉症ガール(粉杉翔花&晶華)というオリジナルキャラ」の妄想創作を書いています。

ガンダムSeed Destiny論1

 約1週間ぶりのブログ更新です。
 やはり、仕事が忙しかったり、さらに忙しいことが想定される春期講習の準備にいそしんだりすると、のんびりブログを書くゆとりがなくなります。
 とりあえず、21日にようやく1日休みがとれて、一息つけたので、こちらも書いてみるわけで。


 さて、本稿を書くきっかけは、空幻研その他の議論で、Seedシリーズ批判者の掲げた「どうしてSeed Destinyが傑作と言えないか」という主張に対し、「Seed Destinyは善悪という枠を越えた群像劇だから、従来の作劇論では適切な評価ができない」という反論が見られたこと。
 まあ、主張に対し、反論が示されることは当然なんですが、ぼくが期待したのは、「では、どういう作劇論を用いれば、Seed Destinyが適切に評価できるのか」「反論者には、『批評の批評を越えた独自の作品批評』を展開できるのか」という点でした。でも、残念ながら反論を出した人は、ぼくの目から見て、「Seed Destinyを群像劇として適切に評価する基準」を持ち合わせていないようでした。論を立てる上で、「評価する基準」を明示できないようでは、それは主観的な感想でしかありません。ましてや、反論のための反論に終始しすぎて、自分の本来の主張を支える基盤さえ見えなくなってしまうようでは……確立された主観さえ持ち合わせていない、と言えましょう。
 ともあれ、自分としては、「『群像劇としてのSeed Destiny』に対し、どういう評価が適切か」を考えるとともに、「ガンダムシリーズの中におけるSeedシリーズの位置づけと、独自性」を考察してみるつもりです。
 まず、今夜は作品の顔ともいうべきタイトルについて。

機動戦士考

 Seedの正式タイトルは『機動戦士ガンダムSEED』。
 従来、「機動戦士」は宇宙世紀(UC)を舞台にした作品のみに冠せられるものであり、「Gガンダム」以降の別世界作品では「機動武闘伝」「新機動戦記」「機動新世紀」といった似て非なる枕詞が冠せられていました(ターンAは無冠)。
 宇宙世紀ガンダムではないのに、「機動戦士」と付けられたことは、当初「21世紀のファーストガンダム」という宣伝文句とともに期待されたものでした。そして、新しい年暦の世界コズミック・イラ(CE)を築き上げて行こうというスタッフの意欲の現われとも考えられ、現に続編『Seed Destiny』が作られたことで、今後も確実に受け継がれるだろうと推察することができます。
 ぼくは「継続は力なり」という信念を持っていますので、シリーズ物が続けられるという流れは、基本的に肯定的に受け止めています。ただ、「温故知新」という信念も持っていますので、「新しい物を肯定する余り、古い物を軽んじる姿勢の表明は愚者の行為に過ぎない」とも見なしますが。
 ともあれ、UCに対して、CEという「新たな継続する年暦世界」を構築したことは、Seedシリーズの大きな功績と考えます。

主役ガンダムとタイトルの関連性

 次に、Seedの作品タイトルが、従来のTVシリーズと大きく異なる点について。
 それは、作品タイトルが主役ガンダムの名称と違う点です。
 Z、ZZ、V、G、W、X、ターンAと続くTV版ガンダム(ディフォルメされたSDガンダム除く)において、「作品タイトル=主役の乗る機体の名称」でした。Gガンダムのみ、当初はガンダムファイトの優勝者に捧げられる「ガンダム・ザ・ガンダム」の略称、すなわち世界観を示す称号でしたが、後に主人公が「ゴッドガンダム」すなわち「Gガンダム」に乗り換えることで、やはり「作品タイトル=主役機の名」という伝統を継承することになりました。
 Seedが同じ伝統を受け継ぐなら、当然「Seedガンダム」なる名称の機体が登場するはずだったのですが、そうはなりませんでした。主人公の機体は「ストライク」後に「フリーダム」であり、Seedはあくまで、主人公の持つ特殊能力(通称・種割れ現象)に付随する用語となりました。
 ただし、「ストライク(Strike)のSと、フリーダム(Freedom)のeedの合成が『Seed』である」との説もありますし、シリーズの後の作品において「Seedガンダム」が登場するという可能性も捨てられませんが。
 いずれにせよ、Seedの主人公が、ストライクやフリーダムのパイロットであるキラ・ヤマトであることには、異論はないでしょう。

DESTINY

 問題は、続編の『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』。
 この作品において、「主人公は誰やねん?」という議論が勃発することになります。一応の主人公は、「インパルス」後に「デスティニー」のパイロットとなるシン・アスカ。もし、この作品のタイトルからSeedを抜けば、作品タイトル的に彼が主人公であることは間違いないでしょう。
 しかし、Seedと付くことで、前作の主人公キラにもスポットが当たるようになります。さらに問題なのは、キラの新機体が「ストライク・フリーダム」。省略すれば、これこそ正にSeedとすることができます。すなわち、作品タイトルから主人公を当てることもできないわけです。
 さらに悪いことに、作品タイトルには搭乗機体名(ザク、セイバー、グフ、インフィニット・ジャスティス)が示されていないアスラン・ザラでさえ、本編では主人公的に扱われており、ますます混乱を深めています。

 そして、SeedにしてもDestinyにしても、単なる機体名だけではなく、別の意味が作品中で提示されています。
 Seedについては、前作同様の種割れ現象が示され、シンも、キラも、アスランも、きちんと種割れしてくれます(前作では、カガリも、ラクスも種割れしてくれて、種割れの基準なるものを不明確にさせてくれましたが^^;)。現状においては、「種割れするか否か」が主役を見分けるポイントと考えることができるでしょう。
 もう一つのDestinyについては、作品内でのラスボス的立場にあるデュランダル議長の計画「デスティニープラン」という形でも名称が示されています。その意味では、ガンダムにこそ乗らなかったものの、議長もまた本作の主役の一人と見なすこともできるわけで……(個人的希望としては、議長専用の3倍速い「赤い・コメットガンダムあるいはザク」に乗って欲しかったですが^^;)

作品タイトルが世界観や時代背景を示す伝統

 ともあれ、Seedシリーズは、作品タイトルを見ても主役機が明示されていない、という個性を持っているわけです。
 では、そのことを以って、Seedシリーズの唯一無二の独自性、ないし先進性を証明できた、と言えるか?


 否。
 実は、作品タイトルが主役機を示していない作品としては、OVAが先駆者と言えるわけです。
 すなわち、「0080」「0083」「第08MS小隊」の3作は、それぞれ作品タイトルの中に、主人公機名は見えません。ただ、最後の08小隊は主人公機の「Ez8」を示したタイトルと言えなくもありませんし、そもそも小隊そのものや小隊長のシロー・アマダを主役と見なすこともできますので、「作品タイトルが主役を明示していない」という議論からは外しましょう。
 「0083」については、もう明らかに年号の数字です。そして、「ガンダムガンダム」を売りにした初めての作品ですし、連邦側のガンダム1号機を駆るコウ・ウラキを主人公と考えるのが本来なのでしょうが、ジオン側が奪取したガンダム2号機のアナベル・ガトーを主人公と見ることもできるわけです。
 さらに、「0080」の主人公は、ガンダムパイロットですらありません。物語の中心として描かれるのは、ガンダム・アレックスのパイロットであるクリスではなく、民間人の少年アルであり、また、ジオン側のザク改のパイロットであるバーニィなのです。
 これら2作品では、作品タイトルが時代背景を示しているにすぎません。すなわち、作品タイトルが主人公を表しているわけではない、という意味において、SeedシリーズはOVAの後塵を拝しているという結論になります。ただし、TVシリーズで、それを受け継ぐことで、改めて「群像劇的世界観の構築」を行い得たことは、評価に値すると言えるでしょう。

群像劇の元祖「Zガンダム

 最後に付け加えること。
 「Seedが21世紀のファーストガンダム」であるなら、当然、「続編のSeed Destinyは、ガンダムシリーズ2作目『Zガンダム』の位置づけ」となります。
 そして、Zの企画時のタイトルは『機動戦士Zガンダム 逆襲のシャア』だったとも言われており、元祖ガンダム群像劇が実は「Zガンダム」であった、と改めて主張しておきます。事実、Zガンダムの主人公として、エンディングの最初に示されるのは、Zガンダムパイロットのカミーユではなく、シャア・アズナブルなのですから。
Zガンダムセカンドバージョン (PKGリニューアル版)