Shiny NOVA&WショーカのNEOスーパー空想(妄想)タイム

主に特撮やSFロボット、TRPGの趣味と、「花粉症ガール(粉杉翔花&晶華)というオリジナルキャラ」の妄想創作を書いています。

続・今さらながらのインディ・ジョーンズ話

平成時代のインディ

 

NOVA「冒険映画の金字塔、インディ映画話の第2弾だ」

晶華「前回は、1作め『失われた聖櫃』、2作め『魔宮の伝説』の思い出話だったけど、今回は3作め『最後の聖戦』からスタートね」

NOVA「ああ。俺が劇場で見た初インディだ。89年公開で、ようやくリアルタイムで見た作品ということになる。テーマは、アーサー王伝説の聖杯探索で、それだけでもワクワクしたものだ。前2作のロストアークとか、サンカラストーンはお宝と言っても、背景世界観がよく分かっていなかった。何だかよく分からないけど、凄そうという知識しかなかったんだが、87年以降は俺も西洋中世ファンタジーの勉強はいろいろしたからな。まあ、アーサー王といえば、初遭遇は79年のこれだが」

NOVA「その後、86年に俺はまたもアーサー王の世界に召喚されて、エクスカリバー・ジュニアを持って、迷宮探検したり、悪い魔法使いを倒したり、ドラゴン退治をしたり、七つの奇怪群島を巡るなど数々の冒険を繰り広げることになるんだが」

NOVA「TRPG者としても、アーサー王伝説を題材にした『ペンドラゴン』は未訳ながら、有名な作品と言えるな」

翔花「NOVAちゃん、話がインディさんからどんどん脱線しているよ」

NOVA「おお、アーサー王の聖杯伝説から、このままだとFateシリーズに流れてしまうところだったが、それは2004年スタートだから(来年で20周年になるのか)、インディ第3作にはつながって来ない。今回のテーマは、インディであって、アーサー王伝説はメインじゃないから、改めてインディにカムバックだ」

晶華「要は、3作めのテーマである聖杯探索が、前2作と比べても、NOVAちゃんにとって非常に馴染みのある題材だったってことね」

 

3作め『最後の聖戦』

 

NOVA「時代背景は1938年。ナチスドイツがポーランドに侵攻して第2次世界大戦が勃発する1年前の話だな。1作めの続編だが、その前に少年時代のインディ(演リバー・フェニックス)の初冒険(1912年)が描かれる」

晶華「エピソード0ってことね」

NOVA「そこから90年代のヤング・インディのシリーズに発展していく形だが、インディのヘビ嫌いや、テンガロンハットおよび鞭を愛用する理由など、彼のルーツに当たる部分がいろいろと描かれて、そこだけでも面白い。また、本作のドラマ面でのテーマが、インディの父親ヘンリー(演ショーン・コネリー)との父子の関わり合いだからな。研究に熱中して家庭をあまり顧みることのなかった父とのこじれた関係が、共に聖杯探索を巡る事件に関わることで解消されていくドラマが非常に心地よい」

NOVA「ショーン・コネリーと言えば、初代007ジェームズ・ボンドの役者として60年代から83年まで務めた御仁で、スピルバーグがインディ映画のアクション活劇要素の目標にした経緯もあって、インディの父親役として抜擢されたほどだ。俺的には、この映画の師匠剣士ラミレス役としても印象深い」

翔花「つまり、かつてのアクション映画の主人公から、90年代当時の現代アクション映画の主人公への継承映画として見ることも可能ってことね」

NOVA「ある意味、ショーン・コネリー黒部進さんとか藤岡弘、さんに例えて、平成ウルトラや平成ライダーと共演させたようなものか」

晶華「それにしても、往年のヒーローが現役ヒーローの父親役として出演するのはエモいよね」

NOVA「ああ。タイムファイヤーが祢音ちゃんの父親として出るだけでなく、仮面ライダーギャーゴとして変身したり、キョウリュウグリーンの父がダイナブラックだったり、ヒーロー父子ってのは受け継がれる魂って感じで、戦ってもよし、和解して共闘するまでのドラマが非常に好みだったりもする。セブンとゼロさんとか、タロウとタイガとか、牙狼の冴島親子とか」

翔花「仮面ライダーではないの?」

NOVA「往年のライダーが父親になったケースはないかな。主人公ライダーの父親が、後から変身するケースは最近、増えているけど」

 

晶華「とにかく、『最後の聖戦』はヒーロー父子の共演映画ってことね」

NOVA「もちろん、インディの父親ヘンリーは息子と違って冒険家ではない。役者が元スパイってだけで、ヘンリー自身は聖杯探求に夢中な文系学者でしかない。だから、アクティブな息子のアクションにおっかなビックリ付いて行くコミカルな役回りで、だけど非常にラッキーで、息子が必死に頑張っている横でボケたことをしていると、たまたま偶然、状況解決のきっかけをつかむなど、見ていて非常に楽しい。ラッキーに恵まれた素人というのは、子どもキャラの役割であることが多いのだけど、本作では老獪な俳優がとぼけたお爺ちゃんの役で、しかも知識はあるから、インディの謎解きにヒントを与えたり、非常に見せ場が多い。

「俺はヒーローの3要素として、情熱的、クール、コミカルを兼ね備えていることを重視するんだけど、本作のヘンリーパパは見事にそれを体現していて、息子とのボケツッコミの掛け合いも含めて、非常に楽しめた。これがバランスが悪いと、バカ息子とかダメ親父って感じで、一方に肩入れして、もう一方を毛嫌いしてしまいがちなんだけど、本作ではヘンリーにも、インディにも同時に感情移入できてしまう非常に稀な経験ができた」

翔花「同時に感情移入するって?」

NOVA「普通は、主人公の若者に感情移入したり、自分が年をとってみると、若者よりも脇の年長キャラの方に共感したり、同じ作品でも視聴タイミングによって、感情移入対象が変わってくる。子どものときはハイジに感情移入して、ロッテンマイヤーさんがガミガミ小言がうるさいイヤな大人に見えていたけど、大人になってから見るとロッテンマイヤーさんが結構いい人に映るというのは、よくある現象だ」

翔花「ハイジ? ロッテンマイヤーさん? 何それ?」

NOVA「お前、ロッテンマイヤーさんを知らないのか?」

晶華「ええと、ハイジは自由と混沌の子ども代表キャラで、ロッテンマイヤーさんは秩序と統制の大人キャラで、ハイジに感情移入する子どもからは蛇蝎のように嫌われたおばさんってことね」

NOVA「ハイジが混沌って言っちゃうと誤解を招くが、都会生活に馴染めない天真爛漫、無邪気奔放な少女であることは間違いないな。そして、ロッテンマイヤーさんは彼女を気品ある淑女に育てようと厳しく躾けるわけだ。全てはクララお嬢さまのために」

翔花「それと、インディさんの話に何か関係あるの?」

NOVA「……まったく関係ないな。自由と混沌めいた話をしているのは、俺じゃないか。ええと、要するにハイジとロッテンマイヤーさんの両方に同時に感情移入するのは難しいってことだ。後から冷静に、客観的に作品を分析することで、キャラの役回りを理解したなら、ハイジの心情も、ロッテンマイヤーさんの立場から来る言動も納得できる。納得できない場合は、話そのものが支離滅裂な可能性があるな。言動に一貫性がない場当たり的なキャラは、リアルでは普通にいるが、物語としては整合性がなさすぎてダメだ。何らかの筋道を読者は求めるものだから、その筋道をきちんと構築するのが、作者の仕事ということになる」

晶華「で、今、筋道を必死に構築し直そうとしているのがNOVAちゃんだ、と」

NOVA「『同時に感情移入する』という例示の反例に、ハイジとロッテンマイヤーさんを使ったのが失敗だったんだ」

晶華「反例を使った例示や証明って、非常に難しくない?」

NOVA「子ども視点ではハイジに感情移入して、大人視点ではロッテンマイヤーさんにも感情移入できてしまう。それって、ロッテンマイヤーさんがただの悪役ではなくて、大人に納得できる筋を持ったキャラということになる。物語の解析能力の上がった大人だったら、このキャラはこういう立場だから、こういう言動も納得できる……と読み解けるものだけど、初見だとなかなかそこまで分析できないよな。まずは、ストーリーの大筋として主人公に感情移入しようと思うし、そこでつまづくと面白い物語とは思えない」

翔花「主人公に魅力がないと、話はつまらないよね」

NOVA「だけど、シリーズをずっと追いかけると、主人公はある程度、役割が固定されるから(語り部、もしくは事件を解決する主体)、そこでどういう変化球を示せるかが、作者の腕の見せどころとなる。で、主人公の対立軸(ライバルもしくは敵キャラ)を用意して、そのぶつかり合いから主人公の主張を浮き彫りにするとか、キャラ同士の絡み、関連づけでストーリーラインを組み上げていくわけだけど、ハイジの場合は『アルプスの雄大な自然と、人同士の関わり合い』を是とする主人公少女が、『人間嫌いの引きこもり爺さん』と『都会の引きこもり令嬢』に幸せをもたらすのが主人公の役割。一方、インディの場合は、『研究生活で引きこもっている爺さん』が父親で、彼と冒険を通じて関係を紡ぎ直す話だな」

晶華「だったら、ロッテンマイヤーさんじゃなくて、アルムのお爺さんとハイジの関係を例に挙げた方が良かったんじゃない?」

NOVA「今からそういう風に話を立て直すか?」

翔花「というか、無理にハイジにつなげる必要がある?」

NOVA「ないな。ハイジでアクション映画にしたら、こんな映画になってしまう」

晶華「狂ったハイジ映画の話じゃなくて、もっとまともなインディ・ジョーンズさんの話をしようよ」

NOVA「そ、そうだな。ええと、『最後の聖戦』は原題がthe Last Crusadeで、十字軍騎士と聖杯を巡る物語だ。聖杯の力は癒しと不死に通じるもので、オカルトに傾倒したナチスが聖杯の力を求めて、聖杯研究者であった父親のヘンリーを誘拐したので、それを助けに行くインディの話ということになる。最初に少年時代のインディの初冒険から始まって、しかし彼の初冒険の話にも興味を示さない父親との断絶が描写された後、26年が過ぎて、冒険考古学者としてキャリアを積んだインディが、初めて父との関係が修復されるドラマ展開がエモい。もう、これで話が終わってもいいと思えるぐらい傑作なわけで、俺にとってのベスト・インディだな」

NOVA「少年時代から始まり、父親との関係性を仄めかした後で、ナチスが父親を捕まえたということを知っての救出展開。基本的にインディの冒険は、捕まった人間の救出のついでに、敵の狙うお宝の回収に移る。物語としては、インディが先にお宝を狙うのではなく、敵対勢力の野心を防ぐための妨害行動という形になるわけだ」

翔花「盗掘目的ってことじゃないのね」

NOVA「それは最初の少年時代から、ギャングに盗まれたお宝を取り戻すために危険に立ち向かう正義感の持ち主であることが強調されているし、聖杯を守る不死の騎士からもその高潔さを讃えられている。インディは別に聖杯なんてどうでもいいんだけど、最後のダンジョンで父親が瀕死の重傷を負わされたために、父の命を助けるために危険な罠だらけのダンジョンの仕掛けを乗り越えて、聖杯を入手しないといけない立場に立たされる。このクライマックスが、ダンジョンというのも自分好みでいいんだよな」

晶華「第1作は、オープニングがダンジョンで、その後は発掘された聖櫃を奪い合う乗り物チェイスが中心だったものね」

NOVA「奪い、奪われるのシーソー合戦が面白いんだが、罠だらけのダンジョンを乗り越えるシーンが最初だけというのがもったいないと思った。2作めでは、魔宮と称されるダンジョンが物語の中心となったんだが、邪教を崇める悪党退治がメインとなって、お宝探しがどうでも良くなって、考古学者のインディのキャラ付けが疎かになった弊害がある。冒険が主で、学者という個性が従になったのが2作めってことだ」

翔花「学者じゃなくなったインディさんってのは、ただの正義の味方でしかない、と」

NOVA「で、3作めはダンジョンをクライマックスにしつつ、父親との確執で家族のドラマを描くとともに、学問についてのこだわりで父やライバル学者と論争したり、ダンジョン攻略の謎解きでラテン語知識とか、信仰心などをテーマにしたり、非常に知的な作品にもなってる。単純なアクションなら、2作めの感覚に訴えるジェットコースター展開もいいが、知的な解きごたえという意味では、3作めがベスト。盗賊っぽい技術面では1作め、勢いで突っ走るのは2作め、知力と誠実さを武器にしたのが3作め、とそれぞれのダンジョン攻略のやり方の差異が比べてみると面白く、個人的に好きなのは3作めなんだな。神の名前がJではなく、ラテン語ではIで始まるというのは、当時大学でラテン語を勉強し始めていた俺にとってはタイムリーにツボだったりもして」

翔花「へえ。ラテン語ってどんな言葉?」

NOVA「古代ローマの言葉で、後にイタリア語やフランス語、スペイン語に発展するロマンス語系列の原語だな。西洋古代史を勉強するには、ギリシャ語かラテン語、あるいは両方が必須教養と言われている。また、聖書などのキリスト教関連の書物もラテン語が中心だな。ヨーロッパ系では、北欧やドイツに通じるゲルマン語と、南欧メインのラテン語系列があって、その両方がイギリスに影響を与えて、英語はゲルマンとラテンの両方の影響を受けている。それとは別に東欧やロシアではスラブ系の言語が中心らしいが、ギリシャ語とスラブ語の関係は自分にはよく分かっていない。かじったのは、ラテン系とゲルマン系だったからな。スラブとそれからアラビア語もかじっておきたかったが、よく分からないまま挫折したのが大学時代」

晶華「なるほど。言霊魔術師を自称するだけのことはある、と」

NOVA「比較言語学とかにも興味があってな。ただ、学生時代はソシュールがよく分からなくて、つまづいた記憶がある」

翔花「ソシュールって誰?」

NOVA「その質問に答えると、インディからどんどん離れていくぞ。むしろスイスの言語学者だから、地理的にも時代的にもハイジにつながって来そうだ」

翔花「ハイジはもういいので、話を戻して下さい」

NOVA「ともあれ、3作めは歴代インディ映画の中でも、最も知的で完成度が高い映画と俺は考えるな。たとえば、1作めの聖櫃なんだが、そこに精霊とか悪霊が封じ込められているのは、歴史的にも神話伝承的にも、何の謂れもない独自設定なんだ。物語的にも『契約の箱に悪霊が封じ込められて、邪悪な者が開ければ呪い殺す』などという話はちっとも語られていないし、あれは単に『欲張り爺さんが悪いことをして手に入れた宝のつづらから、罰当たりのようにお化けが出て来て、こらしめる』的な仕掛けでしかない。聖櫃ってそんなもの、という必然性ではなくて、悪い奴に神さまの罰が当たっただけ、という程度のおとぎ話でしかない。もちろん、鑑賞する人には理屈で納得してよ、ということではなく、当時の素晴らしい映像的インパクトで驚いて納得してよ、という効果。そこを知的な謎解きで考えても仕方ないネタなんだ。だから、インディがとっさに目をつぶれと言ったのも、それで助かるということではなく、恐ろしい光景を見ないように、という程度のことだと思うし、結果的に視覚に影響する呪い(メデューサの石化能力みたいに恐ろしい姿を見たから作用するもの)だったから、インディたちは助かったのだろうけど、それはたまたま偶然の結果でしかない」

晶華「聖櫃にそのようなトラップが仕掛けられていたのを、インディさんが読み解いたわけじゃない、と」

NOVA「一方、たくさんの杯から本物の聖杯を当てる謎だけど、『イエスが大工の子だから、杯もガラスではなくて木で作ったろう』と推察して、一番地味に見えた(飾り気のない)木の杯を選びとったのは見事に知的な謎解きだったと思うし、本作の謎解きが一番知的に描かれていたと思うよ。そもそも、本作とそれ以前の作品では決定的な違いがある」

翔花「何?」

NOVA「80年代前半は、映像ソフトが世の中に流通してなくて、映画のストーリーなんて何回も見て研究を重ねるのは職業的評論家ぐらいしかいなかった。そして、エンタメ作品に知的な謎解きがどうこう気にするファンもあまりいなかったんだな。しかし、80年代後半にはビデオソフトが発売されて、マニアックなファンが作品の矛盾点とかを同人誌に暴き立てるような文化も目立ち始めてきた。そういうファン層を知ると、作り手ももう少し知的な話を考えるようにもなるさ。つまり、設定考証にこだわるファン層が増えた80年代後半から90年代に入ると、ただのビジュアルインパクトだけではない文芸にも力を入れて、そういう背景で作られたのが『最後の聖戦』ということだ。だから、物語の完成度という意味でも非常に高い。そして、それを受けて展開されるヤング・インディのシリーズや、オリジナル小説などで、インディが映画以外のファン層も増やしていくし、この作品とそこからのスピンオフ展開がいろいろ作られた90年代がシリーズ最盛期と言えるんだろうな」

 

4作め『クリスタルスカルの王国』

 

NOVA「さて、平成最後のインディとなる4作めだが、前作で父子のドラマとして、インディのルーツにつながる物語を提示した後、今度はインディ自身が父親となり、また1作めのヒロインであるマリオンとラストで結婚して、幸せな家庭生活に至るハッピーエンド……のはずだった」

翔花「はずだった、ってことは……」

NOVA「5作めで、そのハッピーエンドを大きく覆してしまったからな。4作めで、インディの相棒役で登場した若者マット・ウィリアムズがマリオンの息子で、実はインディと別れる前にもうけていた実の子であるという展開。最終的に、一気に妻子持ちになったインディだけど、そのマットが5作めでは父親インディとの関係が不仲になって、反抗的にベトナム戦争に出征して戦死。インディとマリオンの夫婦仲もその件がきっかけで冷え込んで、離婚直前の別居生活というところから12年後の物語になるわけだ」

晶華「続編ストーリーができると、前作のハッピーが崩壊することもよくある話ね」

NOVA「つまり、クリスタルスカルで、インディを引退させて、息子を後継主人公に育成するとか、父子の2世代アドベンチャーに展開される可能性もあったんだな。だけど、その可能性をあっさり放棄。後釜に、親友の不良娘とその悪友少年を登場させてアクション担当にしたのが5作めだが、どうもインディ自身の直接の後継者はうまく育たないようだ」

翔花「ええと、セブンさんの息子のゼロさんが登場して、次の映画で死んじゃって、代わりにセブンさんの娘が登場してきたようなもの?」

NOVA「言い得て妙だが、俺はインディの後継者はトゥームレイダーララ・クロフトと思っているので、インディのシリーズでなくても、精神的後継者のお宝探し冒険フィクションが作られ続けているなら、それで十分かな、なんて考えている」

晶華「インディさんの時代は終わった、と?」

NOVA「インディの魅力は1930年代という時代背景もあったんだな。1920年代のアメリカは狂騒の時代とも言われ、経済発展で浮かれ騒ぎつつ、自動車産業やラジオ、映画などの新しい文化が盛り上がっていた時代。その反面、禁酒法の制定などで、闇酒などを販売するマフィアが台頭し、波乱と刺激に満ちた時代らしい。しかし、1929年の世界恐慌で成長がストップ。よって30年代初頭はアメリカも不景気でボロボロだったんだが、そこから復活する流れが30年代半ば、と」

晶華「インディさんの映画は35年、36年、そして38年が初期3部作だったのね」

NOVA「失われたかつての栄光を復活させようというノスタルジー的な感覚が濃厚な時代だったんだな。アメリカだと不況以前の20年代の発展期、ドイツだと第一次大戦以前の発展期、そこへの回帰願望が、失われた古代文明への憧憬にもつながり、秘宝獲得競争の物語に至る。まあ、2作めはナチスが敵ではないので、秘宝争奪の要素は薄いんだが、とにかくナチスとオカルティズムはフィクション的な相性がいい題材だし、インディの奇数番号映画はナチスとの戦いがメインとなっていて、敵味方が非常に分かりやすい構図だった」

翔花「4作めの敵は、ソ連KGBね」

NOVA「表面的にはそうだが、1957年が時代背景なので、反共の赤狩りもインディの敵として描かれる。つまり、アメリカ政府も、インディの味方というわけではなくて、勧善懲悪が割と明確だった30年代と違い、何が正義で何が悪なのかが見えにくくなっているのが4作めの世界観なんだ」

晶華「それって、90年代とゼロ年代の制作背景の違いもありそうね」

NOVA「確かにな。90年代は冷戦終結時期で、強いアメリカと民主主義が文句なしの正義として、ハリウッドも希望を掲げた映画作りができたのかもしれない。まあ、90年代後半はまた状況が変わるのかもしれないが、ゼロ年代はそこに9.11事件があって楽観的な希望が粉砕されたのがアメリカの時代背景だ。そこからテロとの戦いが掲げられたんだが、クリスタルスカルの公開された2008年にもなると、オバマ大統領誕生直前で、それまでのブッシュ大統領による対イラク戦争大義への疑惑が噴出して、自国政府への信頼性が疑われていた世相になっていた。何が本当で、何が正しいのか分かりにくい不安の時代に、50年前の赤狩りをかぶせたのがクリスタルスカルと見ることもできる」

翔花「面倒くさい映画なのね」

NOVA「リアルタイムで19年が過ぎて、作品世界でも同じだけ時間の針を進めたんだ。すると、インディも役者のハリソン・フォードと同様に年をとって、30代から50代にもなるさ。まあ、現実のハリソンはインディよりも10歳上の年齢なんだが」

晶華「すると、クリスタルスカルの時に、60代ってこと?」

NOVA「1942年生まれだから、当時66歳だな。まあ、インディ自身は1900年前後の生まれとヤング・インディシリーズで示唆されているし、90代になった老インディが孫やひ孫に自分の若い日の冒険譚を昔話として語っている内容だから、90年代まで元気に生きているってことなんだろうけど、息子のマットが死んだからヤング・インディのその設定はなかったことになるかもしれん。映画のみが正史と扱われて、スピンオフのTVドラマや小説はパラレル扱いするのは、スター・ウォーズで通った道だからな」

翔花「60歳になっても、昔みたいに冒険アクションをしているなんて、ハリソン・フォードさんって凄いのね」

NOVA「5作めでは、インディ自身が『どうしてこんな年になって、いつまでもこんなこと(冒険)を続けないといけないんだ!?』と自己ツッコミしていたな。こちらとしては、ハリソン・フォードさん、お疲れさまです、と頭を下げたくなったほどだ。さっさと息子に後を託して、引退できたら良かったのに、親子ゲンカの挙句、息子が戦死したなんて、悔いが残りまくる人生だ。だから、運命のダイヤルの力で時間を巻き戻したいって話になっても、納得はできる」

晶華「5作めは、そういう話なの?」

NOVA「ああ、時空魔術師向きの話だろう? さっさと、そちらの話に進みたいんだが、5作めを見ると、4作めからの作風の変化が明らかだからな。4作めまでを語らないと、5作めの本質が伝わらないと思ってな」

翔花「じゃあ、さっさとクリスタルスカルの話を終わらせましょう」

NOVA「じっさい、4作めは変わってしまった世の中で、ソ連のスパイや、統制を強めて自由を迫害する母国に追われながら、大切な家族を手に入れる冒険家の引退物語と考えていたんだな。これで話が終わりなら、時代遅れの冒険家が日常ハッピーを手に入れて収まるところに収まった感。インディ個人の物語としては、うまく決着をつけた……と思った」

晶華「でも、そのハッピーは崩された、と」

NOVA「その辺は賛否両論なわけだが、4作めの時点で、いろいろツッコミどころはある。この1957年という時代設定が、インディの冒険物語の背景としては非常に歪で、しっくり来ないわけで」

翔花「どうして?」

NOVA「50年代といえば、アトミック・エイジ(核時代)と言われ、日本ではゴジラが生まれた。また、SF的には宇宙人というジャンルが流行の兆しを見せ、ラジオからTVにメディアが移り行く時代。古代遺跡を巡る冒険が時代遅れになっていた世相なんだな」

晶華「あれ? でも『指輪物語』は?」

NOVA「中世騎士道文学の研究家だった父ヘンリーなら、もしかするとトールキン教授にも興味を持っていたかもしれないが、考古学者のインディと指輪は畑違いだと思うな。インディはあくまで史実の延長にある文化文明の遺産に興味があるのであって、フィクションそのものに関心はない。トロイア遺跡に興味はあっても、イリアスの文学的価値、ギリシャ神話と他の神話伝承の類似性などに興味を持ちそうなのは、俺であって、インディではない」

翔花「ああ、NOVAちゃんの専門分野も、インディさんとは違う、と」

NOVA「だから、俺の関心分野はインディよりも、父ヘンリーの方に近いんだって。それはともかく、57年になると、世の中がインディを置いてきぼりにして、インディがどんどん自分の居場所を失う様子が4作めで描かれ、それが5作めにも受け継がれるんだ。まあ、それでもインディには教授としての仕事はあるから、4作めはそこまで疎外感は味わってないんだが。ただ、この時期に創設されそうな宇宙考古学(古代文明の由来は宇宙人にある)にインディが順応できるかどうかは謎だな。30年代は神さまの奇跡と見なされたものが、50年代になると宇宙人の奇跡になるのが時代背景かもしれない」

晶華「ああ、それが60年代になって、ウルトラマンになるのね」

NOVA「まあ、この時代の変化をネタにして、古い価値観のロートルと50年代の今どきの若者のバディ映画として盛り上げたら面白かったのかもしれないな。演じるハリソン・フォード自身、50年代の若者だったのだから、マットというキャラが若い日のハリソンと見なせば、役者的には感情移入もできたろう。インディの物語ではなく、インディが次世代にバトンタッチする映画として見ていたから、5作めであらら、と残念に感じたわけだし」

晶華「うまく、バトンを継承できなかったわけね」

NOVA「後はまあ、舞台となる南米のナスカの古代文明クリスタルスカルという題材は悪くないんだけど、それと息子のマットとの関係性のドラマがちっともリンクしていなくてな。脚本的な整合性では、3作めに遠く及ばないし、インディ自身がクリスタルスカルを探したいという動機づけが弱く、家族ドラマと宝探しドラマが別々で物語の焦点がボケてる感もして、もうインディの時代じゃないんだな、とネガティブに思わせた作品ということで」

(当記事 完)