少しまじめな話
NOVA「さて、指輪EXITをプレイした後で、ゲームとストーリーの融合について思うところを述べてみたい」
翔花「また、小難しい話になりそう」
晶華「リアル脱出ゲームのことを、没入(イマーシブ)ゲームと形容している話もあるよね」
NOVA「この没入感は、ゲームだけでなく、小説やコミック、その他、スポーツ競技など多くの娯楽に共通する、ファンを惹きつける要素と言っていい。リアル脱出ゲームがどうして没入ゲームかと言えば、実際にどこかの施設に鍵をかけて閉じ込められて、パズルを解かないと脱出できないシチュエーションが与えられるからだな」
翔花「遊園地のお化け屋敷やアトラクションみたいなものね」
NOVA「マーダーミステリーの公演もそうだけど、ある程度、予約制とか参加者枠が限定される登録制で、ゲーム好きな面々が即席のグループを作って、協力もしくは競争するイベントでもある。そういうゲームの光景を、海外ではTVの人気番組として放送することもあるわけで」
晶華「そういうTV番組の設定に基づいたのが、仮面ライダーギーツさんのDGPになるわけね」
NOVA「日本では、そういうゲーム文化自体が一般に認知されていなかったから、デジタルゲームの紹介番組自体はあるけど子ども向けという枠形式だし、ゲームショーはどちらかと言えば、クイズ番組とか、芸能人に遊ばせる(その中で失敗をネタとして弄る)番組が主で、ゲーム自体の楽しさをアピールする一般向け娯楽番組は少ないかな、と思う」
晶華「視聴者参加型のクイズ番組も昔に比べて減っているらしいものね」
NOVA「海外のゲームショーに一番イメージとして近いのは、昔に年1の大イベントでやっていた『アメリカ横断ウルトラクイズ』(1977〜1992年。加えて1998年の計17回)かなあと思う。言わば、それも主に80年代の秋の風物詩だった。この番組の系譜としては、1983年から今も続く『高校生クイズ(全国高等学校クイズ選手権)』があるし、クイズ王みたいなタイトルの企画番組もあるが、その大規模さや話題性においてウルトラクイズほどのインパクトを持ったものはないと言っていい(『世界で最も制作費のかかったクイズ番組』としてギネスブックにも登録されたらしいし)」
晶華「昭和生まれの人にとっては懐かしいみたいね。確か、ゲーム感覚のバラエティ番組で今も時々聞くのは、『風雲!たけし城』ってのがあったらしいけど」
NOVA「それは86年〜89年だな。番組の企画原案は、北野武(当時の芸名はビートたけし)さんが『流行りのファミコンみたいなのを、自分たちの身体でできないか?』ということで、たけしさんが殿として君臨するたけし城を、芸能人が隊長を務める視聴者チームでいろいろなイベントゲームを攻略して攻め落とそうと頑張る番組だ。これも昭和らしい豪快かつ大規模な作品だったと思うな。その系譜は、身体を張った部分がSASUKEに引き継がれていると思う。まあ、SASUKEはチームじゃなくて、個人用に規模が縮小されているけど」
翔花「重要なポイントは、自分たちがその競技の世界に参加できそうな感覚を覚えることね」
NOVA「視聴者参加型の企画は、そういう趣旨だからな。もちろん、芸能人がクイズやゲームを楽しみつつ、ネタ会話を繰り広げるのを楽しむ番組もいいが、内輪ウケ感覚が強すぎると、推しの芸能人でないと没入しにくい弊害はある」
晶華「知っている人が興味ある話題を喋っていると楽しめるけど、知らない人がよく分からないネタを語ってもつまらないってことね」
NOVA「こういう人の親和性と、話題の親和性の両方が噛み合うと面白さが増すし、そうでなければ……以下の感じになる」
- 知っている人やキャラが、興味ある話題を語る:素直にハマれる。
- 知っている人やキャラが、よく知らん話題を語る:話題への興味を喚起される。あるいは、興味がなくても、推しが語っているだけで楽しめる。
- 知らない人やキャラが、興味ある話題を語る:話題への興味だけで、関心が持てる。ただし、語り手の知識レベルがにわかだったり、否定的な論調だと逆効果な場合も。自分の興味あるジャンルについて深い知識や、肯定的な反応を示す人やキャラに対しては、好感度が増してファンになることも。
- 知らない人やキャラが、よく知らん話題を語る:語り口が面白ければ、そこからハマるケースもあるが、基本的には聞き流す、または、まともに見向きもしない。
NOVA「こればかりは受け手の知識や親近感、受容能力にも影響されるので、送り手だけの責任にはできないのだが、送り手としては、とりあえず自分の興味に関心を持つ人間を喜ばせるようなスタンスで何かを発信し、そこからどう広げて行くかが目指すポイントということになるな」
晶華「そのために、どう面白そうと思ってもらえるかの外面的インパクトが集客において大事だし、その後で、中身をどう楽しんでもらえるかが持続的なファンを確保できるかに関わってくる」
NOVA「キャッチーなイラストや作品タイトル、簡単な概要解説で、客の目を惹きつけ(いわゆる宣伝効果も含む)、そして手にとってもらった(鑑賞してもらった)客をじっさいに楽しませるところまで行って、ファンが生まれるわけだ。まあ、客が何を楽しむかは人それぞれなので、どういう客層を求めるかによっても作品作りの戦略は変わってくるが、とりあえずは『売れ筋に乗っかる』ことと『他にない独自性を売りにする』の二つの矛盾した要素のバランスをどう取るかだな」
- 売れ筋に乗りつつ、独自性も示す:安定したヒット作になる。
- 売れ筋に乗っているけど、独自性が欠如している:凡百の亜流作品。ジャンルの流行に応じて、それなりに売れるし、作家の器用度や製作スピード次第で生き残れる。作品製作数が積もれば経験も貯まるし、業界での立ち位置も確保できる。
- 売れ筋には乗っていないが、独自性は示されている:マニアック、ひいてはカルトな人気作になることも。固定ファンが付けば、それなりに商売になる。我が道を貫くタイプの作家や作品は、継続できれば魅力と言える。
- 売れ筋には乗っておらず、独自性も欠如している:何が売れ筋なのかを勘違いしているか、自分の好きなもののパロディを好きに書いているか。仕事じゃない趣味なら、そういうのもありで、パロディでも面白ければウケるかも。昔の商業作品への愛着が強すぎて、マネして書くだけで満足できちゃう人はこの方向性かな。
NOVA「商業作品なら、1番を目指しながら、2番か3番のどちらかになりがちだけど、4番は4番で、趣味で書くなら自由だ。作者が一般ウケを狙っていなくて、好きなものの劣化コピーだけで満足しているなら、周りがどうこう言うものでもあるまい。本人がそれで楽しいならいいと思うがな」
翔花「あとは、たまたまそれを読んだ人の受け止め方次第ね」
NOVA「書き手の波長と読み手の波長が合って、いいねや好感的なコメントが付けばラッキーだと思うし、普通はコメントを付けるのもハードルが高いと思う。まあ、書き手としては、波長が合う読み手の琴線に触れて、上手く縁が紡げたら嬉しいなと思うけど、わざわざ波長が合わないことをアピールするコメントは(滅多にないことだけど)、ちょっと不思議に感じたんだ」
晶華「怒ってるとか、傷ついたじゃなくて、不思議に感じてるわけ?」
NOVA「最初は何だかカチンと来たさ。『わざわざ分からんというツッコミを入れることに悪意を感じた』りもしたけど、それはただの自意識過剰な被害妄想だと思い直して、もっと単純な『マニアックな話題を語る主人公』『話が理解できずに困惑する仲間』という構図かな、と。ただ、そういうのは顔見知りのツッコミとか、ネットだと心の中で処理すればいいだけであって、わざわざ匿名で『分からん』と言いたいだけのコメントを付けて寄越す心理が不思議なんだよ。俺の場合だと、『マニアックなネタが分かって楽しめた』ってコメントを付けたくなるところだが、分からんアピールはマニアとしては恥ずかしいし」
翔花「相手は別にマニアさんじゃないのでしょ?」
NOVA「だろうな。マニアじゃない人が、マニアックな記事を読んでも、分からないのが普通だ。こちらとしては相応のマニアな人にすら分からない文章になってしまえば、失敗した駄文だと思う。どの知識レベルの客層に向けて書く文章なのかが気にすべきところだけど、まあ、めったにない内容のコメントだから不思議に思って、考察材料にしているわけだ」
晶華「変なこだわりってことね」
作品への没入について
NOVA「で、コメント主は俺の文章に???を表明して、まあ、おそらくは没入できなかったんだろう。没入してないのに、衝動的にコメントだけは残して行った心理が俺には不思議だし、どこでもそういうことをしているのかは謎だが、せっかくの縁だ。話をつなげてみようではないか、という流れで、没入というキーワードがたまたま引っ掛かった」
晶華「人を没入させるテクニックの一つに、『当事者感覚』ってのがあるみたいね」
NOVA「そう、他人事ではない、自分に関わりのある、何らかの縁を感じるってことだな。作品内のキャラやストーリーへの感情移入のしやすさについても、個人差はあるし、自分と同じような立場や物の考え方をしているキャラには感情移入しやすい。若いときは、自分の中の引き出しが狭いけど感受性が強いので、何でも吸収しやすく影響を受けながら、自分の中の世界を固める段階(流行りものに流されやすくもあるし、そういうフットワークの軽さが若さの特権とも思う)だろうが、ある程度、大人になると、自分の中のツボとか傾向が分かって来て、それを深堀りするか、飽きて違う世界に目移りするか、生活環境の変化で趣味が続けられずに切り替わるか、いろいろなケースが考えられる」
翔花「趣味から卒業するケースもあるし、そもそも、80年代からの趣味をずっと続けて語るような人間の方がレアケースなんじゃない?」
NOVA「類は友を呼ぶというか、ネットの世界や内輪の小集団ではエコーチェンバー現象と言って、自分と同じような考え方、感じ方の意見を目や耳にすることが多く、自分をレアケースと認識することが難しくなっているらしいが、そこで自己客観視能力が問われることになる。まあ、それはともかく、世の中には作品に強く没入できるタイプの人間もいれば、そこまで感じ入る習慣を持たない人間もいるみたいなんだな。後者の人間には、架空世界の物語にそこまで強く没入できる人間の心理が根本的に理解できないらしい」
晶華「そういう人は、人生で何を楽しんでいるの?」
NOVA「目前の仕事や課題を楽しんでいたり、趣味は上司や営業取引先のそれに付き合って、世間話の延長程度で最低限の知識をネットで仕入れて流行り物を追っかけたりするぐらいで、俺みたいにどの作品が何年に発表されて、どういう作品の系譜にあって、その作者がどういう作品にエッセンスを伝えているかを語るのは、まあ、レアケースだろう」
翔花「そりゃ、そういう話題に上手く乗れるお客さんってのも貴重でしょうしね」
晶華「すると、私たちアシスタントガールもレアケース?」
NOVA「『花粉症の精霊少女』なんてのがレアケースじゃなくて、何なのか? そりゃあ、謎のオリキャラ呼ばわりされるわ」
翔花「つまり、オンリーワンってことね」
NOVA「いや、双子だから、オンリーツインズ、もしくはオンリーペアってところだろう。なお、このオンリーツインズやオンリーペアも、今、俺が発明した造語っぽい。ネット検索しても、ちっとも引っ掛からないので、一般語ではないのだろうな。強いて言えば、漫才コンビに『オンリー2』というネーミングが見受けられたぐらいか」
晶華「『謎のオリキャラ』も、『ミステリアスな独自キャラ』と表現を変えれば、褒め言葉に聞こえそう」
NOVA「よく分かっていないコメントでも、『独自性』は認められたってことだからな。独創性は俺が求める特質の一つなので、よく考えると褒めてもらっているわけだよ。問題は、独自性が強すぎると、一般ウケしないってことで、俺は果たして一般ウケしたいのだろうか、という問題になる」
翔花「商業作品なら、読者に理解困難な作品は売れないので、一般ウケも考えないといけないけど、作家さんの作風もあることだし、こだわりを捨てての世間への迎合は賛否両論よね」
NOVA「で、創作話に流れているけど、この辺の没入感覚って、『当事者感覚』とか『感情移入』を誘発する仕掛けが、作品にどれだけ込められているかが、作り手には求められているんだろうな、と」
晶華「リアル脱出ゲームだと、『自分たちが閉じ込められているという臨場感』がリアルなので、実体験的な当事者感覚があるわよね」
NOVA「じっさいに体感するような物語経験が売りなんだな。ヒーロースーツを着たアクターさんと握手とか、キャラといっしょに写真を撮って思い出を記録するとか、推しの歌手のライブを聞いて生の声を堪能するとか、そういう実物っぽさは貴重な体験だと思う」
翔花「スキンシップを求めることで、人のつながりを覚えたい例のストーカー氏もそういう心理状態に近いんじゃない?」
NOVA「そこは理解できるが、俺にはちっとも共感できないところだ。俺はそういうスキンシップを一切求めていないし、そこに至る前段階として、共通する物語体験とか、共に楽しめるゲーム体験とか、純粋にお喋りが楽しいとか、そういう人間関係の接触もろくにないままに(むしろ、その点であれこれ決裂してる部分がいろいろある)、何で肉体的接触に固執するのか、距離感が分からんわけだ。
「まあ、少なくとも、俺という人間に『肉体的接触を通じて生の人間の絆を感じたい』と訴えられても、ちっとも響かないうえに、それを人に受け入れさせるほどの人間的魅力を彼には全く感じないんだよ。姿形のレベルじゃなくて、物の感じ方や考え方、趣味人としての楽しさという面でな。せめて、彼の語る面白さにこちらが共感できる部分があるなら、付き合って楽しい奴という評価が得られて、そこから関係性が深まる可能性もゼロじゃないが、そういう段階を飛び越えて、肉体的接触に何かとこだわる余裕のなさ、ガッつきぶりに、男女関係だったらドン引きするし、男同士でもそれは同じだ。そういう下心を示して引っ込めない(ちっとも聞き分けのない)人間に、安心して付き合えるはずがない」
晶華「『当事者感覚』を覚えたために、ストーカーの怖さやキモさをリアルで感じちゃえるというのは、貴重な体験よね」
NOVA「まあ、テロリストよりも思いつめたストーカー心理の方が怖いというのは、実体験から想像できるわな。それはともかく、リアルな体験にも良いものと悪いものがあって、悪いリアルを味わいたくないのがマゾヒストでない人間の人情ってものである」
翔花「リアルの没入性にも、ワクワクを感じられるかがどうかが大事ってことね」
NOVA「で、リアルには相応のリスクが伴うケースもあるわけだ。例えば、リアル脱出ゲームの問題の一つは、途中でトイレに行きたくなった場合にどうするか、とか、イベントでの体力事情の問題があるわけで、遊園地のアトラクションなどと同じように、延々と閉じ込められるわけじゃない。没入にも相応の制限時間があるわけだ」
晶華「確かに、3時間もずっと拘束監禁されるなら、それはゲームじゃなくて拷問よね」
NOVA「映像作品なら、3時間ぐらい普通だろうけど、映画館で3時間だと途中でトイレに行きたくなる場合、困ってしまう」
翔花「トイレの問題は、花粉症ガールには無縁よね」
NOVA「精霊少女とか、フィクションのキャラはそういうリアル事情からは解放されがちだよな。まあ、そういう生々しい下の事情に固執するフェチもいるのかもしれないが、健全なゲームの世界では考えないようにしよう」
晶華「『指輪物語』でも、食事のシーンはあっても、トイレのシーンはないし」
NOVA「映画の『ホビット』では、トイレの中から出てくるドワーフってギャグがあったし、お腹を壊してトイレにこもりっきりというギャグ描写は多くのフィクションコメディのオチになっている」
翔花「そういうリアルの汚さを描写するかどうかは、作者や作品次第、と」
NOVA「『ゴブリンスレイヤー』とかは、そういうのもしっかり描いたから小説として傑作とも言えるが(ファンタジー世界ながら、リアルな解像度を上げたという点で)、ゲームでそれを描写するかはまた別の問題だからな」
晶華「汚いものも醜いものも描くのがリアルって考え方もあるけど、そういうのが見たい人もいれば、清いものや美しいものだけを見たい人もいるだろうし、生々しさの度合いも、人によって好みはそれぞれだと」
NOVA「その描写が物語の世界観で必要かどうか、物語を面白くするのに貢献しているかどうかで、作者の価値観が問われるが、ここではリアルのメリットとデメリットの両面があるって話だな。確かにリアルでしか味わえない世界や感覚があるのは分かるが、それを主張している人間がリアルの面倒くささや醜さ、汚さを見せがちな点で、リスクばかりを訴えているから逆効果って話になっている。リアルで人と付き合う楽しさは、こっちは普通に経験しているわけだし(もちろん経験できていない世界もあるが)、彼の言葉にはリアルの楽しさが感じられないので、彼の願望を聞き入れるのがリスクでしかないのが現状だ。彼は、自分ではWinを提供しているつもりで、こっちのWinにちっともなっていない噛み合わなさがどうしようもない、と理解してもらいたいわけだ」
翔花「で、リアルで味わえる楽しさ、また味わえない楽しさを、どう創作世界に落とし込むかが大切ってことね」
没入感覚の抽出
NOVA「リアルな体験は、没入に必要な『当事者感覚』や『感情移入』の度合いを高める反面、そこにはリスクやデメリットも存在するという話の流れだった」
晶華「楽しさとデメリットの両方を天秤にかけたら、少ないデメリットで相応の楽しさを得られる世界に人は没入するわね」
NOVA「リアルというものが必要悪である、とまで俺は主張するつもりはないが、仮想世界のメリットが現実のそれを上回れば、そういう価値観が世の主流となる時代も来ることは予想される」
翔花「今はまだ、リアルが大事という価値観が主流ってことね」
NOVA「コロナ禍がリアルへの依存を引き下げたという意見もあるな。デジタル技術の発展が仮想世界の利点を高める一方で、震災などの災害がリアルに引き戻してくれるというか、シーソーゲームみたいにそれぞれのメリットとデメリットが主張し合っているのが現状だ」
晶華「デジタル化はインフラが整ってこそ、だもんね」
NOVA「仮想世界だと、デジタル化って感じがするが、ここではアナログも含む物語創作の世界という定義で考えてみよう。創作は願望実現装置という風に仮定すると、リアルの面倒くささやデメリットをできるだけ取り除いて、楽しさやメリットだけを上手く加工したものが理想の創作ということになる」
翔花「創作には、イヤなものは一切ない?」
NOVA「あっても、最後はハッピーエンドで解消されるだろうな。せいぜい、物語を楽しませるためのスパイス、ちょっとしたストレス程度に抑えられる。まあ、悲劇を愛するファンもいるだろうが、他人の悲劇は害にならない蜜の味だろうし」
翔花「フィクションの悲劇は、自分が傷つかない悲劇ってこと?」
NOVA「一概にそう言っていいかは、受け手の感情移入の度合いにもよるな。推しのキャラの死を現実の人間の死と同じ重みで受け止めるファンもいるし、少なくとも自分の知らないリアルの人間の死よりは、推しキャラの身に降りかかった悲劇の方を重く受け止めるのは、別に人情がないわけじゃない。知らない人間よりは、知ってる人間やペットや自分の大事な玩具が壊れた方が悲しいのは当たり前だ。
「要は、心理的距離感の話であって、リアルか非リアルかは関係ない。TVで描かれるニュース番組のリアルと、創作フィクションの非リアルは、人間の想像力においては等価だ、というのが俺の意見。TRPGで感情移入した自分の演じるキャラの死の方が、リアルの戦争に巻き込まれた外国の知らない子の死よりも辛いというのが、人の気持ちってものだと思う。
「現実の人の死よりも、フィクションのキャラの死の方が悲しい、と言うと、良識派の人は批判するわけだが、これは心理的距離感や心理的重要性の違いなんだよな。よく知らない人の死よりも、日頃から慣れ親しんでいる(愛着を覚えている)キャラの悲劇の方に心が動かされるのは、想像力が豊かな人間にとって当然であって、現実の命の方が大事と主張するのは頭で考えた理屈であり感情ではないわけだ」
晶華「どっちが大事という点では、日頃から近い距離感で接しているフィクションの方が大事ってことね。だけど、創作ファンだって、よその国のニュースで亡くなった子のことをどうでもいい、と思っているわけではない。リアルの人間の死に何の哀しみも覚えないという人には、冷たいと思うけど、それよりももっと大切なことがある、という人が冷たいわけではない、と」
NOVA「たまたま外国の戦争のことを気にしてニュースを見た人間が、そもそもニュースを見てもいなくて違う関心を持っている人間に対して、『自分の興味に反応が薄いからって、人情味に欠けると非難する』のは、目の前の人間に対する想像力が欠けていると思うわけだし。単に、自分と相手が違うものを見ているという想像が働かないのかな、と」
翔花「いっしょにニュースを見ていて、人が死ぬ映像が流れたときに、片方が悲しんでいるのに、もう一方がゲラゲラ笑っているような場面では、何で? って思うけどね」
NOVA「人の体が爆発で吹っ飛ぶシーンを見て、爆笑していると頭おかしいと思うけど、それでも『北斗の拳』のひでぶとかは、ネットで笑いのネタになってるからなあ(汗)」
晶華「それって、昔から爆笑ネタだったの?」
NOVA「リアルタイムで見たときは、衝撃映像だったよ。いきなり笑い出す奴はいなかったと思う。衝撃すぎて、子どもの反応としては『すげえ』とか『うわ〜』とドン引きだったのが、一周回って、ショックを和らげるためにネタとして語りつないでいるうちに、誰かがモノマネをし始める。すると、ウケるので、そういう過程を経て、分かっている人間の間でお笑いネタになる……という過程が省略されて、リアルタイムを知らない人間が笑いの要素だけを語り伝えて、ということだな。ショックを和らげるための笑いが、元の意味を失って、笑いだけが残る、と」
翔花「途中をすっ飛ばして、結果だけ見たら、『人体爆発で笑う』という非人情なアニメファンって印象ができ上がるわけね」
NOVA「どんな衝撃も、繰り返し使われるようになると、よくある笑劇ネタになるってことだな。とりわけ、人と違うセンスを売りにする芸人ほど、まじめな物を茶化して、笑いをとるわけで、ショッキングでインパクトの強い映像(特に非現実なアニメやコミック)ほどネタにしやすいわけだ。そういう芸人ネタのために、アニメファンは人情味が欠けて頭おかしい連中というレッテルを貼られたのも、まあ90年代になるかな」
晶華「アニメは人を傷つけないけど、リアルはアニメファンを傷つけたってことね」
NOVA「まあ、ポケモンショックのような、ゲームアニメが一部の人間を傷つけたケースもあったわけで、90年代はアニメやゲームの表現に対する過渡期的な反応がニュースで過敏に取り上げられる時期だったな、と記憶する。そこから行き過ぎた表現に関する自粛も行われるわけだけど、光の点滅表現はてんかんを引き起こすという社会的コンセンサスがそこから生まれたわけだ。もしかすると、ポケモン以前からそういう現象はあったのかもしれないけど、ポケモンほどの視聴者がいなかったために被害者も少なく、大きなニュースにならなかったのかも」
翔花「危険性が公に認知されて初めて、対策に乗り出すってことか」
NOVA「あと、マスコミはセンセーショナルで叩きやすいところを過剰に叩くということで、90年代はアニメやゲームがターゲットにされて、現在はその構図が逆転している気がする」
晶華「と言うと?」
NOVA「昔は聖域とされた芸能界や映画界などの老害関係の業界が、御威光を失って叩かれるケースが増えているようにも思えるな。アニメやゲームを叩くよりも、そっちの方がセンセーショナルなニュースにしやすいのだろうか? それとも、記事やニュース番組の作り手が世代交代して、アニメやゲームの理解者が増えたからかもしれんが、近年、アニメやゲームを目の敵にしがちなのは、野党の政治家(とりわけ年寄りかフェミニストのおばさん連中)に思える。まあ、与党の政治家がサブカルチャー叩きをする方が問題が大きいと思うが」
NOVA「ちょっと違う方向に話がズレたな。ええと、創作は願望実現装置という仮定から、作者の願望と読者の願望をどうつなげるか、という話に持って行こうとしたのに、悲劇→キャラの死の受け止め方→マスコミや政治家によるサブカルチャーバッシングというネガティブ方面につながってしまった」
翔花「本当はポジティブ方面につなげるはずだった?」
NOVA「そういうこと。まあ、個人の記憶と主張としては残していてもいい意見なので、割愛せずに仕切り直しに留めておこう」
改めて、没入感覚の抽出
NOVA「アニメ文化の顕在化が70〜80年代、ストーリーゲーム文化の顕在化が80〜90年代というのが俺の認識だが、その時期に活性化した若者文化が90年代のバッシングを経て、一般的に受け入れられるようになったのが21世紀ではないかと思う。それに多大な貢献をしたのがインターネットにつながるデジタル機器という話だが、90年代以降に生まれたデジタル世代(Z世代ともかぶる)にとって、アニメやゲームなどのコンテンツは生まれたときからある程度、完成した形として世の中に存在し、ごく身近な文化(もはやアングラ感覚のサブカルチャーではない)と認識されている」
晶華「ええと、Z世代の人たちは90年代のマスコミによるオタクバッシングを経験していない?」
NOVA「そういうこと。オタクバッシングをしてきた連中は、当時の30代から40代ということだから、今は60代以上になるかな。つまり、社会の中枢から引退し始めている。代わりにZ世代が社会人になってネットを中心に発信力を持ち始めたのが10年代から20年代の今だが、この時期にメインカルチャーとサブカルチャーの人気の逆転現象が起こっているわけだ。古い既成文化の時代が終わり、サブカルチャーと呼ばれてきたアニメやゲームなどのオタクジャンルがメインの大衆文化になっているのが現在。そうなると、それらを批判している連中が時代遅れの化石、老害呼ばわりされても不思議ではないのが現状になるわけだな」
翔花「それはNOVAちゃんにとっての理想郷?」
NOVA「まあ、俺はオタクを否定語と思っている世代で、自称は特撮マニアであり、TRPGマニア、スパロボマニア、必殺マニアなど、とにかくマニアを自認しているから、『俺はオタクじゃない。マニアだ。一緒にするな』と主張してきたが、今となってはどっちでもいいよな(苦笑)」
翔花「オタクと呼ばれても、害のない時代ね」
NOVA「というか、ファッションオタクとか、カジュアルオタクという言葉が当たり前になって、オタクを名乗るのにある種の覚悟や自嘲が必要なくなった時代なんだな。まあ、オタクの意味が軽くなったと言うか、陳腐化したと言うか、市民権を得たと言うか、前世代とは言葉のニュアンスまで変わっているわけだし、社会史視点からは非常に面白い。今が理想というか、時代の変化を達観して見られるのが楽しいな、と」
晶華「昔は隠れキリシタンみたいな感覚で、隠れオタクというのが普通だったみたいね」
NOVA「社会がオタク狩りみたいな雰囲気になっていて、その時代の名残りで生きている人間が、萌え絵やアニメ絵は表舞台に出て来るな、と主張するわけだな。オタクは賎民みたいな連中だからこっそり生きて行くべし、という古い常識から脱却していないから、自分では差別しているつもりがないのに差別的発言を堂々とかまして正義や良識を語っている、というつもりになっている」
晶華「四民平等の明治時代に、町人風情が武家に逆らうか! って感覚でいると、時代錯誤も甚だしいってものね」
NOVA「平成と令和は、見た目は大きく変わっていないけど、サブカルチャーの大衆化という文化史的な大変動が起こっていることは、将来、歴史の教科書に載るんじゃないかな。明治が新聞の時代で、大正がラジオの時代で、昭和が映画とTVの時代で、平成がインターネットの時代で、令和は情報インフラがどうなるかまだ不明だが、20〜30年単位で見て行くと、時流の変化のあらましが分析できるってものだ。ただし、古い価値観の人間が変わるのではなくて、社会の構成層が段階的に切り替わって、古い価値観の影響力が新しい価値観にとって代わられるってことだがな」
翔花「で、没入感覚の話はどうなったの?」
NOVA「それだ。要するに、時流によって、社会の常識や世代感覚にズレが生じるだろう? すると、作者の感覚と、読者の感覚が大きく異なって来ることも考えられるし、自分の書く文章や描く作品の対象となる観賞者がどういう層なのかをつかむことは、創作家にとっては必須のリサーチ能力ということになる。誰に向かって何を書くかはそれなりに意識しながら書かないといけないし、自分はどういう人間に向かってアピールしているのか、という自意識はクリエイターである以上、明言しておく必要がある」
晶華「それが作品の売り文句ってことね」
NOVA「こういう嗜好の読者なら楽しめるはず、という意識だな。自分の作品のストライクゾーンとか、そこに上手く球を放り込む技術とかいろいろ」
翔花「でも、投げたボールが上手くストライクゾーンに収まるとは限らないのよね」
NOVA「本当になあ。俺は自分の今、書いているこの文章が誰に向かって投げているのか、全く理解していない。ええと、Z世代の若者なのか、それとも自分と同世代(X世代と言うらしい。Y世代は80年代〜90年代前半生まれ)向けなのか、どっちだと思う?」
晶華「私たちは何世代?」
NOVA「ええと、2018年生まれはZの次で、α世代になるのかな。生まれたときには、iPadなどのタブレットが世の中にある世代らしい。2010年以降で、東日本大震災の記憶を持たないとか、今の俺が教えている中学生が大体その辺」
翔花「α世代が社会人になるのは2030年以降なので、まだ世間では注目が集まっていないのね」
NOVA「これから、α世代がJKとかになって、若者代表になる時代が3年後ぐらいに訪れるんじゃないかな」
晶華「じゃあ、この文章は未来のα世代向けに、書かれた文章にしておきましょう」
NOVA「そうかあ。未来の教科書に書かれそうな記事かあ。本当に書かれたら、俺は予言者になれるような気がする」
翔花「時空魔術師の書いた歴史書だからね。これを読み解くことができたら、時空魔術師の世界に1歩進めるってことで」
NOVA「そこまで没入してくれる受け手がいたらいいなあ。では、これにて前置き終了」
晶華「ちょっ、一記事費やして、ようやく前置きってどういうこと?」
NOVA「恥ずかしながら、最初に書こうと思っていた本題に、まだ到達していないんだ」
翔花「何を書こうとしていたの?」
NOVA「最初に書いたじゃないか」
NOVA「さて、指輪EXITをプレイした後で、ゲームとストーリーの融合について思うところを述べてみたい」
NOVA「書きたいことは見えているのに、まるで蜃気楼のように、歩いても歩いてもそこにたどり着けないもどかしさに苛まれながら、ここまで書き続けたんだ。寄り道脱線はありがちだが、そもそも道が見えていないことは珍しい。迷子になってピンチのまま、次回につづく」
晶華「これこそ、真の???な雑文ね」
翔花「道が見えなくても、ここまでダラダラ書き続けられるのが、NOVAちゃんのNOVAちゃんたる所以ね」
NOVA「たぶん、違うタイトルを付けた方がまとまる文のような気がしてきた。いわゆる叩き台ってことで」
(当記事 完)