Shiny NOVA&WショーカのNEOスーパー空想(妄想)タイム

主に特撮やSFロボット、TRPGの趣味と、「花粉症ガール(粉杉翔花&晶華)というオリジナルキャラ」の妄想創作を書いています。

知識と知恵の話

キャラ作りの途中で

 

NOVA「エマ・ショーカのキャラ作りを終える前に、寄り道的な記事だ」

翔花「どうしてよ、ブー」

NOVA「理由は簡単。コメント欄で集中力を乱されたからな。そちらの問題を解決しておきたいわけだ」

晶華「そんなのスルーしておけばいいのに。いろいろな意味でネガティブで、建設的じゃないと結論を出している相手の言うことをいちいち真に受けていたんじゃ、NOVAちゃんが建設的な話ができないじゃない」

NOVA「まあ、そう言うな。俺のモットーの一つは『転禍為福』だからな。どんな禍でも転じて福と為すことができればハッピーだろうって考えたいわけで。もしも、天性のトラブルメーカー(ダメダメ君)が少しでもマシな物の考え方ができるような記事が書ければ、それは十分建設的とは言えないか?」

晶華「それで、その人物は少しでもマシな物の考え方ができるようになっているわけ?」

NOVA「いや、ダメだな。彼は基本的に鳥頭で、ギャグ漫画の主人公(例・TV版ドラえもんのび太くん)のように成長しないという、リアルでは稀有な才能の持ち主なので、成長を期待しても無駄だということは既に悟った」

翔花「NOVAちゃんも結構、酷いことを言うのね」

NOVA「時々、辛辣モードが発動するのは、知力の2号、晶華を見ていれば分かるだろう? こいつのそういう性格は、俺の性格を受け継いでいるからな」

晶華「うん、私の暗黒面はNOVAちゃん譲りってことね」

翔花「私の方は真っ直ぐで素直な気質だと思うけど」

NOVA「それも俺の資質の一つだ。真っ直ぐで素直な面と、辛辣で皮肉屋で批判的な面が同居していて、縁に触れて、あるいは必要に応じて、それらの性質が出たり引っ込んだりしている。どちらも俺が物事を考えたり、分析したりするのに必要な性質だと思うぞ。真っ直ぐで素直なだけじゃ、すぐに人に騙されるだけだし、いつでも批判モード全開じゃ、そもそも人を信じることができない嫌な奴で、まともなコミュニケーションがとれない。時と場合による使い分けが必要ってことなんだ。こういう二面性は、うまくコントロールできれば深みのある人格にもなれるし、創作キャラの描き分けにも役立つけど、自己制御できなければただの不安定でしかない」

晶華「ダメダメ君は基本的に真っ直ぐで素直な性格と思うけど、『無知というコンプレックス』をいろいろなところで刺激されているから、『自分は無知じゃない』ということを証明しようとして、いろいろ勉強しようとする。ただ、どうも、その勉強の仕方がどうにも独り善がりで的を外しがちというか、自分では勉強しているつもりかもしれないけれど、その努力の絶対量が他人からは足りていなくて、質の面でも稚拙で、僅かばかりの学んだことも上手く活かせていないのが周りからは明らかってことよね」

NOVA「そういう分析をするのは割と簡単なんだが、それをどうすれば改善できるかは難しい。そういう性格も当人の個性なんだろうし、全部直せというのも人間は機械じゃないんだから現実的ではない。結局は対症療法しかないんだが、おおむね言えるのは、

『こういうTPOでは、そういうことを言うのはマズいから、せいぜい抑えるように』

『大人の社交は、本音を言って角が立つことも弁えて、相手が何を言えば怒るのか理解して、同じ過ちは繰り返すな』

『他人を怒らせたら、そこはきちんと謝罪しろ。頭を下げるべき場面でそれができない者は、大人と見なされないので、その言動も軽視されるのが日本の慣習的ルールだ』

『まあ、頭を下げることで自分ではなく、自分が所属する組織や文化集団が損をする(体面が傷つく)場面では、公的な立場を重視して意地を張るのも時として許容されるが、そういうしがらみも持たない個人の意地っ張りは一人の大人としては見苦しいだけである』

 などなどは大人(真っ当な社会人)の原則として知っておいた方がいい」

翔花「最後のは、少しややこしいわね」

NOVA「個人としては、気さくに謝ることも人付き合いの作法と言えるが、集団の代表がうかつに謝るのは訴訟などで不利になることもあるので、個人の感情としては謝りたくても、組織の体面のために謝罪を禁じられることはありがちで、立場のある者ほど公私の区別は弁えないといけない。まあ、組織じゃなくても、自分がどういう立場を代表して物を言っているかを明言するのも社会人ってものだな。

「『管理人としては見過ごしにできない』とか『特撮ファンとしては許せない』とか『クリエイターとしては同意できない』という言い回しは、俺もよく使うが、どういう立場、どういうアイデンティティーで物を言っているかを明言することで、個人の感情論の問題ではなく、社交的立場の問題、大義の問題に話を置くことができる。もちろん、関係ないテーマでいちいち立場を表明するのも変なんだけどな」

晶華「TRPGの話をしているのに、『特撮ファンとして許せない』なんて発言しても無意味ってことよね」

NOVA「俺自身は、個人のプライドなんてものはどうでもいいと考えがちだけど、自分のアイデンティティーを守るための社交的大義のために議論に臨むことはそれなりにあるし、そういう立ち位置を明確にすることで、議論のテーマ、争点がどこにあるか、話の落とし所を明示する役割がある。

「ああ、相手の論調が激化したのは、『特撮ファンとしてのプライドを傷つけた』からか、だったら、『特撮ファンへの敬意』を示せば話は収まるし、『自分も同じ特撮ファンだ』と示せば同意に持ち込めるし、『特撮ファンへの軽視』を示せば無駄に敵が増える可能性があるな、と相手側は判断できる。互いの立ち位置を明確にして、相手に賢明に判断する材料を与えることも建設的な議論では必要だが、ただの口論で同意の得られないまま、論破したと言っちゃうのは、一つの正解の見えやすい自然科学の分野では良くても、正解の見えにくい人文・社会科学の分野では独り善がりなお子様思考にしか見えない」

 

翔花「で、これは一体、何の話?」

NOVA「広い観点では、俺が昔から好きな建設的議論の話だが、広がり過ぎたので、特定個人(ダメダメ君)への説教に端を発する『趣味人としての賢明なコミュニケーション』の話だな。どれだけ知識を仕入れても、それを活用する知恵が足りなければ、物にならないって話をTRPGと絡めようと考えた次第」

 

知識と知恵の定義

 

NOVA「で、俺には翔花と晶華の双子の娘がいるんだが、翔花は知恵キャラで、晶華は知識キャラのイメージで考えている」

晶華「知恵はD&Dのwisdom、僧侶系の長所で、一方の知識はintelligence、魔法使い系の長所ってことね」

翔花「私はプリースト系で、アキちゃんは魔法使い系ってことか」

NOVA「性格的には、妹の晶華の方がいろいろ物事を知っているけど辛辣で、ダークサイド寄り。姉の翔花の方は知識面で劣るけど、良識的で穏和かつ素直、ライトサイド寄り。そして、翔花は知識が武器とは言えないけれど、学習能力は結構高くて、知恵が回るというのが長所だ」

晶華「何たって、お姉ちゃんは神さまに祝福されたりしているものね。奇跡だって起こせるし」

翔花「その力は屋久島に封印しているんだけどね。神パワーなんて持ってたら、NOVAちゃんと一緒に日常を暮らせないから」

NOVA「自分でコントロールできない力は、しばしば暴走して害悪にしかならないからな。強い力をコントロールするには、しっかり精神性も磨かないといけない。で、知識と知恵に話を戻すと、昔、クラシックD&Dでその2つの能力の違いがしばしば話題になった。能力値判定をする際にも、知識で判定するのか、知恵で判定するのか、DMごとの指針を明確化するための議論が活発に行われて、日本のTRPG黎明期の活性化にもつながったものだ」

晶華「知識は物をどれだけ知っているかってことね」

翔花「知恵は、知っていることをどれだけ有効利用できるかってこと?」

NOVA「例えば、自分の知識を人に分かりやすく伝えるのには、知恵も必要ってことなんだよな。現在のD&Dでは知恵を判断力と訳していて、〈医術〉〈看破〉〈生存〉〈知覚〉〈動物使い〉といった技能のベースになったり、周囲で何が起こっているかを判断したり、理屈以外の情緒面を察する力、病状から適切な医療的処置を行うなど、ただの頭でっかち以外の実用的な知恵を意味している」

翔花「う〜ん、大体分かった気もするけど、例えば、小説を読んで感想文を書くときは、知識で判定するのか、知恵で判定するのか、どっち?」

NOVA「最低限、字の読み書きはできるとして、理屈っぽいとか蘊蓄いっぱいの文章を書くなら知識が必要で、人が読んで感じ入れる文章を分かりやすく書くのは知恵じゃないかなあ。登場人物の気持ちがうまく読み込めて描けているってのは、知識ではなくて、知恵の賜物だと思うぞ」

晶華「知っていることを並べているだけで、無味乾燥な文章にしちゃうのは、知識があって、知恵がないってこと?」

NOVA「まあ、書いていることが間違いだらけの場合は、知識もないってことなんだろうが、例えば、今回のコメント欄のケースで言うなら、『宮沢茉莉というのがアルシャードというゲームの物語に登場したキャラクターである』と知っているのは、知識判定が必要だな。

「で、判定の成功達成値が高ければ、『茉莉はアルシャードガイアのキャラであって、続編のセイヴァーの登場人物ではない』ということも分かるし、それなのに『セイヴァー最終PCと書いたのは、最初から区別せずに混同していたのか、ただのケアレスミスなのかは不明だけど、厳密には間違いである』ということも知識判定で分かる。つまり、知識判定では、その知識が正しいのか間違いなのかを知っていて、相手のケアレスミスの可能性まで推測、指摘できるわけだ」

翔花「だったら、知識が高ければ、何でも知っているということ?」

NOVA「いや。どれだけ物知りの人間でも、知らないことはそれなりにある。例えば、『アルシャード』という作品を知っているかどうかは、〈TRPG知識〉という技能を持っていなければなかなか分からないだろう。世界でTOPのD&Dや、日本でTOPのソード・ワールド、それにネット動画で大人気のクトゥルフなんかは聞いたことがあっても、TRPGに触れたことのない人間が『アルシャード』という作品を知っている可能性は結構、低い。小説やアニメ化作品のある『ロードス』『ゴブリンスレイヤー』『ナイトウィザード』なんかは、TRPGじゃなくても、〈ラノベ知識〉〈アニメ知識〉といった関連技能でまかなえるかもしれないが、『アルシャード』をTRPGファン以外がたまたま知る可能性は……別の記事が目的でたまたま覗いたブログで知ったとか、そんなセレンディピティみたいなものか。まあ、TRPGファンを名乗る者にとっては、決してマイナーな作品ではないんだが」

晶華「つまり、知識系の技能は、技能なし判定だと成功率が極端に低くなるわけね」

NOVA「頭の良い大学教授でも、全てのスーパー戦隊の作品タイトルを素で挙げることは、それが趣味でない限りは不可能に近いということだ。もちろん、インターネットとか資料を使って調べることはできるだろうし、そういう資料を必要に応じて活用する能力も知識関係のスキルには含まれるわけだ」

翔花「今の日本では、コンピューター操作技能さえあれば、いろいろな知識が入手できるってことね」

NOVA「ファンタジーRPGでも文献調査技能なんかは知識系の範疇だな。もちろん、知識があるということは、信頼できる資料と信頼できない資料をちゃんと区別できるってことだから、公式サイトに書いてある情報もチェックせずに(知らずに)、適当な考察サイトとか匿名掲示板で聞きかじった個人の主観考察を根拠に物を語るのは、決して知識があるとは言えないんだが。知識があるというのは、情報の真偽をある程度、自分で見分けられるってことだからな。少なくとも、趣味分野における知識において、付け焼き刃の知識で物を語るのは、容易に粗が見つかるので、知識ジャンルにおける誠意の問題で、ただのケアレスミス以上に嘘つきは毛嫌いされる元だ」

晶華「何にせよ、『アルシャードで宮沢茉莉というキャラ名を出されて、即座にレスできる』というのは、 NOVAちゃんも知識判定に成功したということね」

NOVA「そりゃ、彼女の登場するリプレイは全て買って読んだからな。まあ、雑誌掲載で単行本化されていないものは見落としている可能性もあるかもしれないが。そして、コメント欄で彼女の名前を出してくる程度には、彼は『アルシャード』を知っているというアピールにはなっている。そこは話の土台として認めてもいいんだが、知っているというだけで、面白い話ができるとは限らないのが問題だ」

翔花「知っているというアピールだけではダメってこと?」

NOVA「そりゃ、知っていなければ、そもそも話題に挙げることもできないんだろうが、『ケーキを食べたことがある』というのと、『ケーキの美味しさを語ることができる』のは別だし、グルメってのは『いろいろなお店のケーキを食べ歩いて、それぞれのケーキの魅力を愛情たっぷりに紹介できて、今、注目のケーキ店の情報までしっかりチェックして、とにかくケーキ好き』ってアピールするものだろう」

晶華「で、自分でケーキまで作っちゃう人は参考のために、いろいろなケーキ屋さんに通って研究しちゃうのは当たり前だし、それぐらいしないと、パティシエにはなれないものね」

NOVA「そして、愛されるケーキ好きってのは、『美味しいケーキの話をいっぱいできる人』であって、いちいち『あのお店のケーキの味は大したことない』とか『この店のケーキはここがダメね』なんてことを言う人間は、それだけ舌が肥えているアピールをしたいのかもしれないけど、一緒にいて、話が盛り上がるとは決して思わない。まあ、そういう人間が本当に美味しいケーキをその場で用意して、『これが本当のケーキの味というものよ。神のケーキ、心して味わいなさい。ホホホホホ』と言い張れるなら、ギャグ漫画の高飛車お嬢さまとして笑えるんだけど、リアルではただの嫌な奴にしか聞こえないな」

翔花「つまり、美味しいケーキの紹介をしてくれる人は、一緒にいて楽しいけど、いちいちケーキの悪口を言わずにいられない人は、友だちをなくすってこと?」

NOVA「批評の結果としてクリエイティブになる可能性はあるけど、それには知識を凌駕した知恵が必要だな。例えば、このルールは使いにくいから、自分がシナリオ運用するときは、こうアレンジしたらいい、とかGM視点で考えるのは、建設的批評だろう。プレイヤー視点でも、この呪文はMP効率が悪いのでこっちの呪文の方が使いやすい、とか考えるのは、有効な批評精神だと思うな。自分で使ってみた結果、『この魔法はどうも使いにくい』とか言っている人に対して、『でも、こういう使い方はどうでしょう?』とか知恵や機転で、役に立たないものを有効活用するのは、頭がいいと思わないかね」

晶華「このケーキは甘さが足りないから、もっと砂糖をかけるってのは?」

NOVA「コーヒーとか紅茶ならともかく、ケーキに砂糖をかけるってのはあまり聞かないな。まあ、味を自分好みに変えるのは自由だが、まずはイチャモンを付ける前に、その店のケーキの味をしっかり楽しんで、ケーキ好きの和気藹々なノリを演出して気心を通じ合わせてから、自分の細かい好みをどうこう言うのは、その後だな。俺が誰かといっしょにケーキを食べていて、いきなり相手がケーキの味に文句を言って、砂糖をかけ始めたら引くぞ。ましてや、『このケーキには辛さが足りん』とか主張して、ケーキに醤油やわさびをかけようとしている奴がいたら、そいつの正気を疑う。俺から見て、ダメダメ君の批評はそれぐらいの不自然さに見えるんだが、そういう人間といっしょにケーキを食べたいとは思わない」

翔花「センスがズレているというのは、味の好みが合わないってことね」

NOVA「『やっぱ、ケーキにはタバスコですよ。世間のケーキは甘すぎます』とか言い出すレベルのセンスだからな。まあ、極論かもしれんが、俺が彼の発言に感じる違和感を分かりやすく言えば、そんな感じだ」

 

晶華「とにかく、いろいろなケーキを知っているのが知識で、ケーキを美味しく味わって人と交流できるのが知恵ってことでいいのかしら」

NOVA「そう。そして、ケーキの話をしているのに、美味しさを感じられずに、変な批評や悪口で興醒めなことを仕出かすのは、知恵がないゆえの無知と言う」

 

楽しみ方のセンス

 

NOVA「センスってのは感じ方だろう? 例えば、どんなタイプの美少女キャラに萌えられるかは、受け手のセンスにもよるし、時にはそれが論争に発展することもある。ドラクエ5ビアンカ・フローラ(加えてデボラ)論争は有名だが、共通の趣味の土台を持つ者同士が、推しの良さを主張して、互いの意見を交えるのは割と楽しい。まあ、時に論争が行きすぎて、相手の推しの悪口まで言っちゃうのは問題だが、匿名板だと角が立っても、その場限りだ」

晶華「結局は、その人の好みの問題に帰結するものね」

NOVA「基本的に、俺は作品の創り手に敬意を表するから、キャラをヨイショすることはあっても、悪口はあまり言いたくないんだよな。そのキャラの言動に不快を感じることはあっても、それが作劇手法だと考えたりもするし、本気で不愉快を感じたら、作品視聴を打ち切ればいいだけの話。ただ、自分には分からない作品の良さを人から教えてもらえることもあるし、自分でも作品の良いところ探しに神経を使うようにしている。まあ、批評なんてものは、自分が創作するに当たっての反面教師になればいいなあ、ぐらいの感覚だ」

翔花「作品批評を通じて、自分の物の見方、感じ方、考え方を確かめることもできるわね」

NOVA「そりゃ、何が好みか、何がダメか、ってのが、評者の個性だからな。不満や悪口めいた論評が多いとなれば、それはその人間の個性だろうが、全ての個性が平等に受け入れられるものではないのが現実だ。良い論評と悪い論評があるように、良い個性と悪い個性というものは当然ある。ダメな論評の多い人間は、ダメな個性と見なされがちで、いやしくも物を書く人間である以上は、ダメなところを改善して、少しでも良い論評を目指したいところではある」

晶華「ケーキの例えの場合、どうしても甘いケーキが舌に合わない人はどうするの?」

NOVA「辛口ケーキというものに需要があるかは知らんが、とりあえず、自分の舌が世間一般とは異なる少数派、レアなセンスの持ち主だということは自認した方がいい。つまり、自分の物の見方、感じ方が、いかに世間からズレていて、奇異であるかを受け止めて、それが世間一般で通じる常識だという勘違いは捨て去ることを勧める」

晶華「奇人、変人であることを受け入れろ、と?」

NOVA「個性を武器にするオンリーワンってのは、そういうことだろう? そういう世間からズレた、逸脱した物の見方、感じ方を上手くエンタメに活用して、変わり者を演出して強く楽しく生きることができれば、面白い創作ができるかもしれないけど、まずは世間は何を楽しむのが常識で、自分の非常識さの何が武器にできるか内省する必要はあるだろうな。ダメダメ君はおそらく、そういう内省を怠ってきたと見受けられるし」

翔花「何で、NOVAちゃんにそういうことが分かるのよ?」

NOVA「俺が内省のエキスパートだからだよ。内省というものは作家の一つの武器だし、内省経験が豊富であればあるほど、それだけ多くの自分の内面と対話して、多くのキャラを想像創造できる。作家というものは、自分の心の中の多くの要素を切り貼りしてキャラを作ったり、そのキャラの間でドラマを構築するのが仕事だから、俺で例えるなら、昭和NOVAと、10年前の平成NOVAと、今の俺で、それぞれ違う経験、考え方を持つ自分として、キャラ描写できると思うし、ステロタイプで作ったキャラにも、その作者の人格の一部が浮かび出るのは、同じキャラでも違う役者が演じると、イメージが変わってくるのを見れば明らかだ」

翔花「内省のエキスパートと自認する人の言葉なら、そうでない人に対して『お前には内省が足りん』と言っちゃえるってことか」

NOVA「内省ってのは、自己を内側から客観的に観察しているってことだから、自分と他人の物の見方の違いというのも当然、受け入れることができるわけだ。その上で、他人とうまく折り合いをつけるスキルはまた別物だけど、少なくとも他人と自分を下手に同一視しないとか、自分の論理と他人の論理の違いというものを認識して、その上で通じ合える要素を大事にするという、社会人として当然の身の処し方を心得ているはず」

晶華「確かに、私とお姉ちゃんは双子の分身だけど、これまで違う生活を歩んできたから、違う人格を持っているものね」

NOVA「作家の武器になるのは他人とは違う個性そのものを表現する技術だけど、それだけで周りの事象を観察する視点を磨かず、頭の中の想像だけでしか物事が見えていなければ、他人を感じ入らせるリアルな世界というものが描けない。そこで、アニメーターだったら想像力の他に、写実的な観察力も必要になってくるし、あなたの作家としての武器、強みは何ですか? と問われて、目指しているジャンル以外の引き出しがなければ、それは個性とは言えない」

晶華「ラノベしか読まないラノベ作家はダメってこと?」

NOVA「アニメしか見ないアニメーターは使い物にならないとか、クリエイティブな人間は、趣味関心の幅を広げながら、自分の得意ジャンルの専門家になることを求められる。元より、自分にはこれしかできないなんて言っちゃう人間は、クリエイティブな発想とは程遠いから、広げるべき時に広がらないというのは伸び代が少ないという目で見られるわけで」

晶華「つまり、広がらない深まらないというのは、それだけでつまらないってことね」 

NOVA「それで、人生を広げようとして、アウトドアなんてことを言っちゃうだろう? だったら、まずは一人でアウトドアを経験して、現実のアウトドア経験を積んで、そういうエキスパートを目指すならいいんだけど、ダメダメ君はそこで他人に頼るんだよな。

「前に一度、俺のところに共同創作を持ち込んで、そこで一時的に受け入れられたから、自分の望むものを俺が知恵を働かせて叶えてくれる便利なドラえもんみたいに考えたのかもしれん。前はどうして受け入れられたか、を分析していないんだな。たまたま偶然、彼の需要と俺の需要が噛み合ったから、それは千載一遇のチャンスだったわけ。そのチャンスを彼は無駄にしちゃったんだな。覆水盆に返らずってものだし、その時の経験で、こちらとしては彼の伸び代のなさを見限ったわけだ」

翔花「見限っているのに、こんな記事を書いているのね」

NOVA「この記事自体は、彼を肴にして、極力、一般論的な教訓になるように書いているからな。彼に伸び代はなくとも、彼を反面教師として、どう生きればいいのかを考えるテキストにはなるだろうということだ」

晶華「それで、その人を除く他の人に伝えるべき、楽しみ方のセンスって何?」

NOVA「そりゃ簡単だ。楽しくないことは言葉にしない。ネガティブな発言はしない。俺は言霊魔術師だからな。言葉の力の恐ろしさ、強力さを知っているし、自分の放った言葉は巡りに巡って、自分に返ってくることを知っている。仏教では、因果応報とか還著於本人とかいう言葉があるし、天に唾するという言葉も仏典由来だということを今、初めて知った。もっとストレートに言えば、口は災いの門ってことだな。うかつに批判すると災いを招くから用心しろって話だよ」

翔花「悪口を言っちゃいけないってこと?」

NOVA「杓子定規に構える必要はないが、『その批評は何のためか自覚しているか?』ってことだな。そういうことをわざわざ言うことで、場が楽しくなる、相手が喜んでくれるって内容なら、盛り上がるネタとして言ってもいい冗談というケースはある。『あいつってバカだねえ。本当にどうしようもない奴や』と共通の困ったちゃんの陰口を叩くことで、酒の席が盛り上がる場面だってあるだろう。大抵は、その場だけの軽いネタで終わるし、政治家や芸能人のスキャンダルなんかは、天気の話題と同じで、軽く言い流す程度の便利なネタ、あいさつみたいなものだな。万人が嫌だと思うことを嫌だねえ、と言うだけで、お互いの共感を確認できる。別に議論に発展するようなものでもないし、そこでマジになる方がおかしい程度の小ネタという認識で、世の中は軽い悪口トークも時には楽しんでいる」

翔花「悪口で通じ合って、そこから本題ってこと?」

NOVA「日常での人の会話って、共通の価値観の確認から入ることが多いんだ。ただ、別に悪口が本題でもないし、単に世間の話題に自分が合わせていますよって提示に過ぎないし、もしも振った話題が相手の逆鱗に触れるようなネタ(応援している政治家や芸能人のスキャンダルなら、話題次第で不愉快になる可能性は常にある)であれば、そこで相手の反応を見て、『いろいろ大変ですな。御同情申し上げます』とトーンを切り替えることも、対面の会話ならあり。つまり、相手と友好的な会話をすることが目的だから、いろいろとネタを探りながら、角を立てずに振る舞うのが基本の社交だな」

晶華「だけど、趣味人の会話は違うよね」

NOVA「いや、本質は同じだろう? 毎週見たTV番組の話題をしたり、相手のブログの話題に乗ったりするのは、友好的な社交の一つだよ。話のネタが少々マニアックだったり、特定ジャンルに限られたり、ブログ主の見解に対するコメントだったり、いろいろだけど総じて言えるのは、楽しく社交するの一点だ。まあ、議論を戦わせるのが目的の掲示板もあるし、匿名板など違う空気の場所もあるが、少なくとも、俺が掲示板やブログのコメント欄を解放しているのは、楽しい社交を意図している」

晶華「そこで、トラブルを起こす人は、楽しい社交ってのが分かってないってことね」

NOVA「楽しい社交ってのは、知識よりも知恵の領域だな。知識は物を知っているかどうかだけど、知恵というのはその話題が場にふさわしいか、そういう批判が場において妥当かどうか、判断できるセンスということになる。『相手はこういう質問の連発を嫌っている。だったら控えよう』と判断するのが知恵ってものだし、それでもついつい忘れてやってしまうのは知恵のないバカってことを証明しているわけだ。しかも、質問のセンスがなっちゃいない。すなわち、ナンセンス(分別のない、意味のない、つまらない、バカ)の塊ってことになる」

翔花「バカと言っても、知識がない無知と、知恵のない無知の2種類あるってことね」

 

バカ「この前、こんな本を勉強して来ましてん」

管理人(へえ、それで何が分かったんかな?)

バカ「全く、驚いたの何の。当然、載ってるはずのキャラが載ってない。ありえんでしょ」

管理人(いや、別にありえんとは思わんけど)

バカ「こっちのキャラが載っているんだったら、こっちも載ってないのは不自然だ。(=このワールドガイドはダメですわ)」

管理人(その本、俺も持っているんだけどな。別にダメとは思わないし。何で、こいつはわざわざ自分が読んだ本の悪口言いまくって、こっちの心証を悪化させてるんだろう。せっかく読んだんなら、もっとポジティブに盛り上げたらいいのに)

 

NOVA「……と、こんな感じか」

晶華「勉強して、知識を習得したのは偉いわね」

NOVA「そうだな。彼としては、勉強した自分を認めて欲しいという気持ちはあるのだろう。そこは認めてやってもいいが、そうやって習得した知識の使い方が全くダメだ。何のために知識を習得するかと言えば、社交の場では、相手と情報のやり取りで楽しむとか、見識を披露し合うことだろう?

「見識ってのは、単に知っているだけでなく、そこからどういう物の見方を示して、自分の考える力を高めようとしているか、が大事なんだが、自分が読んだ本の内容を否定して、そこから楽しさを汲み取らない態度を示して、どうするんだ? 書いているものを無意味に批判するのが見識か? 批判の仕方を間違っているし、せっかくの知識も有効に使えていない。知識が足りないのは資料を調べて知ればいいんだが、根本的に知恵が足りないのをどうすればいいんだってレベルで、バカなことを言っている。

「どうも、この男の中では、『批判することが頭の良さの証明になる』と思い込んでいるらしいが、批判ってのはただの研究考察の手段、道具であり、やみくもに批判しても、その目的が見えていなければ、辺り構わず拳銃を乱射しているキ印と同じで、誰も賢いとは思ってくれないことは心得た方がいいだろう」

晶華「バカが行う批判の例示を挙げよ」

NOVA「そうだな。中学1年生が初めて、正負の数の乗法を習うときに、『マイナスとマイナスを掛けたらプラスになる』というルールを、大抵は簡単に習得するんだが、たまに素直に認めない者がいるんだ。『マイナスとマイナスをかけて、プラスになるのは不自然だ。納得できない』と。そこで『反対の反対は賛成になるだろう』とか、本人に分かるような説明をして腑に落ちる者も多いが、それでも加法の『マイナスとマイナスを足せば、マイナスが増える』と混同して、ついついケアレスミスをする者が出てくる。加減乗除が混ざると、一気に間違いが増えて、複数の作業の順番を取り違えたり、うっかりマイナスを書くのを忘れたりして、その辺の処理を正確にさせるための訓練に時間を割くことになる」

翔花「意味がちっとも分からない。正負の数って何よ? 正義が負けるって理不尽よ。そんなのぶっちゃけ有り得ない」

NOVA「いやいや、正義が負けることだってあるだろう? お前の狭い世界で判断するな。悪が勝ったら、今度は悪が体制派になって、正義を僭称することだってあるんだよ」

晶華「つまり、見識が浅くて狭い人は、批判するにしても、『目の前にある事実を見ようとせず、ましてや自分の知らない話は最初から受け入れず、自分勝手な思い込みの浅薄な理論を振りかざして、不自然だと言っているだけ』だから、批判する前に、まず土台となる知識を身に付けよってこと?」

NOVA「と言うか、世の中の脳が退化したお年寄りって、新しい知識が素直に頭に入って来ずに、自分が受け入れられない何を見ても『そんなのおかしい』と頑迷に批判する習性があるからな。脳の硬直化は避けたいところだが、俺も遠からずそうなる可能性は心しておきたい。

「ともあれ、批判するのは、まず新しい知識をしっかり身に付けた後で、改めてじっくり考えたら見えてくるって過程を踏むんだけど、土台の構築があやふやなままに思いつきの批判を試みても、それが上手く的を射る可能性は低いことを知っておいた方がいい。少なくとも、的外れの批判ほど、その人間の愚かしさを如実に示すことはないので、『知恵なき批判はバカの証明にしかならない』ことは肝に銘じるべし」

晶華「しっかり物を考えて行う批判は賢さの証明だけど、批判という形だけをとってみても下手な内容なら、無邪気に素直に楽しむ子ども回路よりも愚かしいってことね」

NOVA「賢い批判かどうか見分けるコツは、『その批判が何かを生むのか?』という一点だな。思考ゲームとしての批判なら、本人の見識を高める訓練にもなるが、それには自分の物の考え方を自分で切り捨てる自己批判、すなわち内省が必要になる。内省もできていない人間が、やみくもに批判の真似事だけしても、見識には届かない、という結論だ」

翔花「内省とか批判とか、ややこしいことを考えなくても、楽しくコミュニケーションできる作法さえ身につければ、社交としては必要十分なんだけどね」

NOVA「まあ、そうだな。何かを批判して見識を示したいなら、その批判の目は自分にも向けよ、というのが、ソクラテスの『汝自身を知れ』『無知の知』に通じる道理だと考えるぞ。NOVA流哲学講座はこれにて完」

 

晶華「時々、妙に哲学かぶれになるのが、NOVAちゃんの悪いところね」

翔花「良いところじゃないの?」

晶華「寄り道脱線回路が暴走しているんだから、褒めちゃダメなの。下手したら、キャラ作りがますます遅れちゃう」

翔花「それは、困るわね。だったら、次に寄り道したら、W花粉症バスターの刑ね」

 

 果たして、NOVAは次こそ、建設的にキャラ作りを果たして、花粉症バスターの刑を免れることはできるのか。

 さもなくば、刻の涙を見ることに。

(当記事 完)