トーリン「貴様、どういうつもりだ?」
ビルボ「……」
トーリン「もう少しで命を落とすところだったんだぞ。お前のような奴は、荒れ野では生き残れないと言った。仲間にはふさわしくないとも」
ビルボ「……」
トーリン「一生の不覚だった。許してくれ。疑って悪かった」(ビルボを抱きしめる)
ビルボ「はは、ぼくだって疑いますよ。ぼくは戦士でも、英雄でもない。忍びですら、ないんだから」
もう、『ホビット』第1部で、何度見ても、感じ入るシーンです。
原作にはないオリジナルセリフですけど、後の第3部への伏線にもなっていて、「誇り高くて頑固なトーリンが、様々な経緯でホビットに疑心を抱くものの、戦いの中で致命傷を受けた後に、死の床でビルボに謝罪し、孤立した闇から英雄としての輝きを取り戻して亡くなる原作シーン」を彷彿とさせる場面。
過去のオークとの戦い回顧から、道中の追跡を経て、クライマックスのアゾグ登場。因縁の敵の出現に対し、燃える炎の中で一騎打ちを挑むトーリン。
しかし、魔狼(ワーグ)に騎乗したアゾグに敗北し、あわや殺害される間際に、トーリンを救うために、体を張って飛び込んできたビルボ。
原作の要素を取り込みつつ、より綿密な伏線を張って、はるかにドラマチックなシーンに仕立て上げたことで、原作ファンのNOVAの頑固な思い入れをも打ち破った次第。
トーリンがビルボを傑物と認めたように、NOVAが『ホビット』を傑作映画と認めた場面ですな。
第6章あらすじ
ゴブリン洞窟から命からがら脱出したドワーフ一行。
しかし、行方不明になったホビットを巡って議論に。
ビルボの救出を主張するガンダルフに対して、「足手まといはいなくなって良かった」と主張するトーリン。
そこに、指輪の力で、ゴブリンの目をかすめて逃れてきたビルボが合流し、ドワーフ一行は単身危機を乗り越えたホビットの隠れた資質に感じ入ることに。
ゴブリンから逃れた一行は安心したのも束の間、辺りに巣食う魔狼(ワーグ)の襲撃を受けることに。
木に登ることで、当座をしのいだものの、集まってくる狼の群れに脱出が困難となる。
ガンダルフの火炎の魔法(松ぼっくりを火炎弾に仕立てて投擲)で、一時的に狼を追い払うことができたかに見えたが、
狼の盟友のゴブリン勢が、トーリンたちを追って合流。燃える木々を逆利用して、ドワーフ一行を火攻めにする計略を実行。
いよいよ追いつめられた一行だけど、ガンダルフの盟友である大鷲の群れが飛来し、窮地から救われる。
こうして何とか無事に霧降り山脈を越えた一行は、闇の森の向こうにそびえる目的地・はなれ山への旅を新たな決意で続けるのだった。
大筋は、うまく原作をなぞってるわけですな。
だけど、細かいところは大分違って、全てがドラマチックな方向に改変されている、と。
世界観的な最大の違いは、『ホビット』でのゴブリンが、『指輪』におけるオークの言い換えで、両者は同じ種族だったのが、
映画では、ゴブリンとオークは別種族扱い。そして、ゴブリンはザコであるのに対し、オークの方が割と手強いという位置づけ。
霧降り山脈の洞窟に巣食っていたのがゴブリンで、オークはそれ以前の荒れ野で狼に乗って、トーリン一行をずっと追跡し続けてるのが、原作よりも物語的な緊迫感を高めている要因の一つです。
トーリンに片手を切り落とされた恨みを持つオークの王アゾグが、初めてドワーフたちの前に姿を見せるシーンであり、
コミカルな肥満体のゴブリン王とは別格の、恐るべき強敵らしさをアピール。
穢れの王アゾグ
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このアゾグ、第2部ではネクロマンサー(サウロン)の後ろ盾を持ったオーク軍団の大幹部であることまで判明し、
トーリンのライバルどころか、ガンダルフすら脅かしかねない存在感を示しています。
ドワーフ追跡の任を息子であるボルグに託し、自らは前線から一歩引いたオーク軍の総大将として、サウロンの片腕にも相当する物語的立場に大出世。
原作では、アゾグを過去に倒したのがダインで、息子のボルグを倒すのが熊人ビヨルン。トーリンは、ボルグに挑むものの周囲の親衛隊に阻まれ、致命傷を受けるわけですが、それでもトーリンの奮戦がなければ、ドワーフ・エルフ・人間の三軍の不利を覆すことができなかったという流れ。
でも、映画では、アゾグが生きていて、ボルグまで登場したわけだから、原作と違った因縁とか、倒す倒されるの関係が成立するのは間違いない。
因縁から考えると、映画のアゾグは、トーリンが倒さないと話が締まらないと思うのですが、一方でボルグのライバルはレゴラスになりそうだし、この辺は原作を知っていても、どう決着を付けるか読めない部分が楽しみですな。
まあ、スマウグ戦で、原作では何もできなかったドワーフ一行が、ホビットにも負けない知恵と勇気を駆使して、一矢を報いたわけですから、
アゾグに対しても、想像以上の大活劇で奮戦してくれることを期待。
ワーグ
原作よりも強い扱いなのは、この魔狼も同様。
原作では、火を見てキャンキャン吠えるぐらいの、ただの獣なんですけどね。群れを成すから脅威なのであって、戦士が1対1で負けるような相手ではない。
もちろん、小人のホビット視点では、相当、怖いのでしょうけど。
でも、映画のワーグは、本当に怖い、というか、サイズがデカいんですね。
『二つの塔』では、アラゴルンを引きずって走るほど、パワーとスピードに長けた敵で、単なる大きな犬ではなく、肉食の馬と考えた方がいい。
まあ、中つ国の第3期は、動物のサイズも我々の基準の倍以上に大きそうなんですけどね。
人を乗せて飛べるサイズの鷲とか、背中でやぐらを築けるサイズの象とか、犬のようにそりを引っ張るウサギとか。
ビジュアル的な違い以外では、ワーグがドワーフを襲撃した理由が全然違う。
まず、原作のワーグはドワーフを標的としておらず、本来の目的は「近くの人間の村に襲撃を仕掛けることを計画」していたのが、「群れの集合場所に、たまたまドワーフたちが踏み込んできた」ために、「こいつらは、襲撃予定の村の回し者か? オレたちの計画が連中にばれたら厄介だ。先に、邪魔物は始末しておくか」的な経緯で、襲ってくる、と。
以上の原作ワーグ思考から分かるように、彼らは割と頭がいいんですね。ワーグ語でしゃべるし。五軍の中でも、「ゴブリンとワーグで、合わせて二軍」扱い。つまり、ただの乗用動物ではなく、一つの知的種族という扱い。
一方、映画のワーグは知性をほぼ失い、完全にオークの馬に甘んじている一方、戦闘力は格上げされた感じです。
そんな映画ワーグは、第1部の半ばでオークと共にドワーフたちを追跡してきます。そこには、たまたま偶然なんかではなく、悪意の斥候としての役割がある。
ドワーフたちは、裂け谷のエルフに守られ、霧降り山脈の切り立った崖から地下を通ったため、一時的にワーグの追跡を逃れていたのですが、山脈東斜面の松林地帯でついに追いつかれた、と。
トーリンの心情
ゴブリン洞窟を脱出して、ホビットの生還シーン。
ここで、トーリンは原作以上の確信を持って、「ホビットは仲間にふさわしくない。足手まといを付いて来させる余裕はない。だから、ここで別れて良かったのだ」と主張します。
そして、原作にないセリフとしては、「ホビットは家が恋しいのだ。元々、冒険に出る奴ではなかった。ゴブリンに襲われたのをいいことに、怖気づいて逃げたのだろう。心配することはない。あいつは一人で家に帰ったのだ。もはや会うこともあるまい」
まあ、ゴブリンに殺されたかもしれない、とは口にしませんね。
ただの気休め願望でも、「家に帰った」と主張することで、「ホビットを心配して、一行の士気が落ちる」ことを警戒したとも取れますし、トーリンが口ではどう言っても、ホビットの安否を気にかけて助けようとしてきたのはこれまでの描写で明らかだから、「自分の心配心を断ち切るためのセリフ」と考えることもできます。
原作では、ドワーフたちは調子が良くて、「良い時はホビットを持ち上げ、苦境のときはホビットをなじり、発言に一貫性がない」感じでしたが、
映画のトーリンは、本当に融通が利かず、頑固一徹*1。友と見なせば一途に信じ、敵と見なせば決して心を許さない。ホビットに対しては、「取るに足りない小者」と見なし、被保護者として守ろうとする優しさは持つものの、その価値を見出すまでに、とにかく時間が掛かった、と。
王としての自分の資質にも不信を抱いており、そのことを腹心のバーリンに打ち明けるシーンも。
そして、コンプレックスがあるために、「そんな自分に付いてくるドワーフ仲間」に対しては、「出自はどうであれ、百万の兵より心強い」と本音を漏らす。
ホビットの心情や能力については、別に目を背けているわけでなく、実によく観察している。だから、「しょっちゅう家のことばかり気にしている」とか、「戦士としての能力や持久力は当てにすべきでない」と考える一方で、ガンダルフの主張する「ドワーフにない機知や、臨機応変の才、すばしっこさ」は認めてもいる。
決して、盲目で短絡的というわけではない、と。
でも、よく考えると、ガンダルフの言うとおり「ビルボは優秀な忍びである」ことを信じれば、それって「ビルボは、仲間として必ずしも信用できない」となるジレンマが。
何せ、「忍び=泥棒の意」ですから。
身内に泥棒がいて、しかも、こちらに忠実とは限らない。
そりゃ、信じられないですな。
ガンダルフも、ホビットの能力ばかり持ち上げた説明をして、ビルボの性格が友達思いで善良だ、ということを(あまりにも当然過ぎて)伝えなかったものだから、その点でも、トーリンがビルボを信じられなかったのも当然。
だって、ウィザードリィのゲームなんかでも、「善良な盗賊」なんてのは基本的に存在しないですし(悪が反転した場合を除き)。
要するに、トーリンの基準でも、ホビットの資質がどういうものか、読むのが難しいわけですな。
だから、理解できないために、思いがけず姿を現したビルボに質問をする。
トーリン「もう、会うことはない、と思った。家に帰りたいのではなかったのか?」
ビルボ「ええ。あなたがぼくのやる気を疑っていたのは知っている。家に帰って、本も読みたいし、庭の草むしりだってしたい。だって、自分の家なんです。当たり前でしょう?」
ここで、ビルボが本音を隠さないのもポイントですね。
トーリンはビルボを観察してきたのですし、その主張は正論です。否定しても、説得はできない。
トーリン「だったら、どうして戻ってきたのだ?」
ビルボ「だからです。ぼくには家がある。あなたたちにはそれがない。ドラゴンに奪われた。だから家を取り戻す……そのお手伝いがしたい」
ビルボは、ドワーフたちの望郷の念を理解し、それに共感してみせた。
異種族の、自分とは関係ない問題に、利害関係とは離れた部分で優しさを示した者がいる。
この時点で、トーリンはホビットの善良さを信じたい気持ちになった。
だけど、ホビットに応じる前に、邪悪が出現する。
一難去って、また一難
トーリンとビルボの交流を遮るように、ワーグが出現。
完全に包囲されているために、木に登るよう指示するガンダルフ。
しかし、原作と違って、ワーグは木を押し倒すほどの体力を持っており、すぐに次の手を打たないといけない。
そこで、結局、原作同様、松かさ爆弾で辺りを燃やして、ワーグを追い散らす作戦に出る。原作ではこの炎が却って、窮地を招き、章題「フライパンから火の中へ」という事態になるわけですが、
映画では、この炎は舞台背景として、効果的に演出されます。
炎が逆巻く中、闇から出現するアゾグ。
その姿を目撃したトーリンの心にも炎が燃え盛り、仇敵の挑戦に応じるように劫火の戦場に足を踏み出す。
しかし、仇敵はかつて戦ったときよりも力を増しており、トーリン一人では太刀打ちできなかった。
小さき者の大いなる勇気
ここで、トーリンの窮地に、ビルボが勇気を示すのが最大のポイント。
これまでは、ガンダルフが救い主であったわけですが、このシーンでは、ガンダルフが動けない状況をうまく作っています。
一行の登った木がワーグに押し倒された結果、崖っぷちになってる状況。
ドワーフの仲間ドーリたちが崖に落下しそうになって、何とかガンダルフの差し出した杖にしがみついてるんですな。
ガンダルフが魔法でトーリンを助けようにも手が離せず、犠牲なしでは切り抜けられそうにない。
トーリンの窮地を仲間のドワーフが助けようにも、すぐに木から下りられなかったり、慌てて手を滑らせて崖に落ちそうになったりして、悲痛な叫び声を上げるだけ。
この他の仲間が動こうにも、すぐに動けない状況を巧みに演出しておいてから、ホビットがいち早く勇気を奮って、トーリンを助けるために乱入する必然を構築。
部下にトーリンのとどめを刺させようと命令するアゾグですが、その部下に体当たりして、トーリンに向けられた刃をそらしたビルボ。
反撃しようとするオークに対し、まだ命名前のスティングを突き立てます。映画で、ビルボが殺しをしたのは、これが最初*2。
小さな乱入者の出現に対して、簡単にひねりつぶそうとするアゾグですが、ホビットはひるむことなく、トーリンを守るために、エルフ造りの刃を振り回します。
ホビットが時間稼ぎをしている間に、ドワーフたちもようやく木から下りて態勢を整えることができ、
ビルボが追いつめられたタイミングで、戦場に乱入。
ビルボの勇気ある行動が、仲間の士気を鼓舞する形に。
原作でビルボが活躍するのは、ガンダルフと別れた後、闇の森の蜘蛛戦においてであり、この章でのビルボは、「洞窟を抜けた忍びの技」でドワーフたちの尊敬は得られるものの、ワーグの襲撃に際しては、完全に足手まといでした*3。
でも、映画のテーマが「小さき者が勇気をくれる」ということで、ガンダルフもホビットの勇気を頼りにしている、と(ガラドリエルとの会話シーンより)。
ガンダルフの奇跡
杖を封じられたガンダルフは、得意の炎や雷光の攻撃魔法を使うことはできませんでしたが、いち早く召喚の準備を整えていました。
「蝶に連絡してもらって、盟友の大鷲を呼んで、空から脱出」という演出は、『ロード・オブ・ザ・リング』でサルマンの塔から脱出するシーンの再現。
原作でも、鷲に助けてもらうシーンはあるわけですが、別にガンダルフが召喚したわけでなく、ワーグ嫌いの鷲の王が勝手に乱入する流れ。まあ、昔、ガンダルフが鷲の王の怪我を治した縁があって、と後から語られたりもするのですが。
映画では、そういう「偶然」を排除し、伏線張って「因果」をきちんと説明するように作ってあり、「ガンダルフが呼んだから、いいタイミングで鷲が来た」という流れになってます。
あ、でも、昔、ホビットの映画の感想ツッコミで、「ガンダルフが鷲を召喚できるのだったら、もっと早く呼べよ」というのを見かけましたが、呼んですぐ来るものでもないし。
それよりも、この鷲召喚のシーンは、『ロード・オブ・ザ・リング』のシーンと比べてみると、自己オマージュがたっぷりで感心させられます。
夜明けを背景に雪山の上を飛ぶ鷲の映像は、芸術的に綺麗だし、前の時は一羽だったのが、今度は群れですから、単純に進化してる。さらに、前の時は物語半ばのちょっとした1シーンでしかなかったのが、今回はクライマックスのバトルからドラマに通じる名シーンにまで昇華されたわけで。
お気に入りの絵の一つ。
はなれ山へ
鷲に救われた一行は、オークの手を逃れ、霧降り山脈越えを果たす、と。
アゾグの手痛い一撃を受けたトーリンも幸い命に別状はなく、ガンダルフの簡単な治療で目覚めた後、ホビットの安否を確認して、責めるような勢いで詰め寄ります。
これが本記事冒頭の会話なんですが、「まるで怒っているような勢いから一転、ホビットを抱きしめて謝罪」という、もうツンデレ街道まっしぐらな演出は、これでトーリン萌えになったホビットファン女子続出な勢いですよ、ホント。
そして、第2部では、トーリンが完全にビルボを信用しきっており、エルフに囚われたときでも、ビルボが捕まってないことを知ると、「希望は残されている」とバーリンに語るわけで、魔法使いの代わりに「ホビットが最後の希望だ」という展開。
でも、終盤で、アーケン石が間近になると、もう一度ホビットに対して疑念を見せるようになって、第3部への伏線になるわけですが。
いわゆる「デレツン・トーリン」が第2部の流れかな。
そして、第3部のクライマックスで、もう一度トドメの「ツンデレぶり」が見られると思うと、トーリンに惚れ込んでる一ファンとしても、楽しみすぎるな、と。
ともあれ、第1部のラストは、彼方に見えるはなれ山を映して、その地下に眠るスマウグまで見せて、第2部への期待を煽られたな、と。
第2部の方は、ドラマ的には伏線だけ張られて、何の解決もしないまま宙ぶらりんな状態で、第3部につづく、とされたわけで、期待は強く煽られたものの、一つの作品としては、楽しかったけど感動には至らず、もやもやしてる状態。
まあ、そのもやもやを昇華するために、こんな記事書きしてるわけですがね。
ラストに、「はなれ山の歌」でも流しながら、第1部感想は、これにて終結。
第2部も、いずれまたじっくり書く予定。