Shiny NOVA&WショーカのNEOスーパー空想(妄想)タイム

主に特撮やSFロボット、TRPGの趣味と、「花粉症ガール(粉杉翔花&晶華)というオリジナルキャラ」の妄想創作を書いています。

「第1章・思いがけないお客たち」感想

 さて、ここから原作をネタに、映画も絡めた感想なんかを書いていこうかな、と。
 で、テキストに使う本は、当初、新版のこれにしようかな、と思っていたのですが、
ホビット〈上〉―ゆきてかえりし物語
 固有名詞のあれこれが気になって仕方ないので、旧来の瀬田貞二版も改めて購入。
ホビットの冒険〈上〉 (岩波少年文庫)
 照らし合わせて、読んだりしています。


 う〜ん、我ながら酔狂だなあ。


 ただ、この2冊、底本が違うんですね。
 1979年に出版された瀬田さんの本は、翻訳の元が1951年の第2版とされています(第1版は1937年)。
 一方、『指輪物語』の出版は1954〜55年であり、『ホビットの冒険』と照らし合わせると、やはり矛盾が出たり、表現がふさわしくなかったり。
 それで、作者のトールキンが『指輪』の記述に合わせる形で改稿したのが、1966年の第3版。
 その後、作者死後の1978年の第4版、ワープロファイル化された1995年のリセット・バージョンと呼ばれるもの(実質、第5版)を経て、『指輪』の映画公開時(2002年)に出版された版が、新訳の元になっているそうで。


 よって、新版は瀬田さんの文章に慣れた目からは、それなりに違和感があるものの、旧版との違いがいろいろ楽しかったりします。
 とりわけ、新版の目玉は、巻末の膨大な注釈。
 初版との記述の変化箇所とか、変更するに当たってのトールキンの意図とか、さらには、物語の描写についてトールキンが影響を受けたであろう経験や創作物、伝承などの考察とか、地名の由来とか、マニアが喜ぶネタが豊富。
 何せ、全ページの3分の1が注釈ですからね(笑)。


 この二種の訳本と、映画の描写を比較するだけで、ブログ記事のネタとしては十分、濃いものになるはず。
 まあ、こういう形で、自分の『ホビット』愛の表明になればなあ、と。

第1章あらすじ

 平和に暮らす小人族ホビットビルボ・バギンズのところに、魔法使いのガンダルフが現われて、冒険への協力を依頼する。
 冒険は辞退するビルボだけど、礼儀上、ガンダルフをお茶会に誘う。
 ところが、ビルボの家にやって来たのは、ガンダルフではなくドワーフだった。次から次へと現われるドワーフ集団を追い返すこともできず、客人をもてなす主人役として慌しく働くビルボ。
 やがて、ドワーフの長のトーリン・オーケンシールドと、彼らの助言者であるガンダルフが現われ、彼らの冒険の計画を話す。そして、ビルボの忍びの技を必要としていることも。
 平和な暮らしを望みながらも、冒険への誘惑を断ち難くなったビルボは、断ることもできずに、「ドラゴンに滅ぼされたドワーフの王国と宝物」の話に聞き入るのだった。

 ……とまあ、自分なりにまとめると、こういう話ですね。
 映画でも、この第1章の再現度はかなり高いです。
 違いを言うなら、ドワーフたちが歌う場面で、原作では各人が楽器を手に持ち、即興のオーケストラを披露するのですが、映画では単に歌うだけで楽器は鳴らさず。まあ、それでも映画なので、BGMはきちんと鳴るのですが。

Far over the Misty Mountains cold,
To dungeons deep and caverns old,
We must away, ere break of day,
To find our long-forgotten gold.


The pines were roaring on the height,
The winds were moaning in the night,
The fire was red, it flaming spread,
The trees like torches blazed with light.

ドワーフの歌

 このドワーフたちの歌は、映画のメインテーマであり、彼らの壮大な旅を飾るBGMにもなり、またエンディングにも流れる主題歌ともなっています。
 で、原作でも、ほぼこの歌詞でドワーフたちが歌っているわけですね。まあ、実際はもっと長く、適度に編集されていますが。
 瀬田貞二訳だと、こんな感じ。

寒き霧まく山なみをこえ、
古き洞穴(ほらあな)の地の底を目指して、
われらは夜明け前に旅立たねばならぬ、
忘れられたわれらの黄金(こがね)を手にいれるため。


あの日、松林は山の背にうめき、
風は夜のやみになげいていた。
火は赤々と、炎をあげてもえ広がり、
木々がたいまつのようにかがやいた。

 ほぼ直訳ながら、分かりやすいです。
 まあ、詩の場合は意味だけでなく、1行目、2行目、4行目の末尾が韻を踏むとか、各連の3行目が対句になっているとか、そういう英語の技法が翻訳してしまうと消えてしまうのが残念ですが。
 そういう英語の技法は割愛しながら、日本語独自のリズムを作り上げようとしたのが、新版の山本史郎訳。

朝(あした)まだきにいでたちて、
霧にかすめる山を越え、
行かん、谷間の深き穴。
はるか昔の黄金(きん)もとめ。


マツが枝(え)に風の泣く夜、
猛(たけ)くも赤きほのお立ち、
野原を掃(は)いて広ごれり。
篝火(かがりび)のごと木々は燃ゆ。

 これに、今回の映画での吹き替え用の歌詞があると思うのですが、まあ、DVDを買った時のネタにしよう、と。

で、DVD買った後で、追記してみると、

霧の山なみ越えて
地の底、洞窟へ
旅立つ、暗き朝
忘られし宝求め

松林もうなり上げ
夜の風もむせび泣く
山の木々、赤く燃え
かがり火のように

曲に合わせて、短く要所のみシンプルにまとめた詩がいいですな。
「夜明け前」を「暗き朝」と古風に変えたところがお気に入り。


 ともあれ、原作でもこの詩のシーンでは、ドワーフの深く響く声が闇の中で重々しく流れ、望郷への想い、過去の栄光とドラゴンへの無念、そしてビルボの中に眠る冒険心を掻き立てる場面だったのですが、
 映画はこれを上手く再現できていたと思います。


 なお、ドワーフの歌はもう一曲、陽気な食器片付けの歌があるのですが、映画でも見事に再現。
 「コップをこわせ、皿をくだけ」などと物騒な歌詞をまくし立てながら、ビルボをはらはらさせつつ、器用に食事の後片付けをするドワーフたちの姿が楽しい。
 この明るさの後で、重々しい望郷の歌が流れるわけで、ドワーフたちの持つ両面が滲み出ていたな、と。


 ビルボだけでなく、NOVA自身も映画の世界に引き込ませた名シーンです。

ホビットのイメージ

ホビット 思いがけない冒険 3.75インチ ベーシックフィギュア ウェーブ1 ビルボ・バギンズ/THE HOBBIT AN UNEXPECTED JOURNEY 3.75inch Basic Figure BILBO BAGGINS
 原作では、まず、ホビットという種族、その住居、ビルボ・バギンズの人となり(家系も含めて)についての説明が延々と、4、5ページに渡って続きます。
 そこで、瀬田貞二版では、「ホビットは小人です。ドワーフ小人よりも小さくて、リリパット小人よりは大きいのです」とありますが、新版ではリリパット小人に関する記述が削除されています。
 中つ国にはドワーフはいるけど、リリパットはいないわけで、原作者が世界観を重視したわけですが。
 なお、瀬田さんの日本語版では訳者の注釈的に、原本にはなかったドワーフリリパットの説明書きが付加されていて、ドワーフは「白雪姫に出てくる、ひげの生えた小人」、リリパットは「ガリバー旅行記の小人」と。
 体格的には、ドワーフが人間の3分の2ぐらいでがっしり体型。ホビットは、D&Dでハーフリングとも称されるように、人間の半分くらいで子ども体型(やや小太りな傾向)。リリパットは、人間の4〜5分の1ぐらいかな。


 ともあれ、トールキン以前には、ホビットという種族は存在していなかったわけですから、その説明は非常に手が込んでいます。
 まあ、『指輪物語』になると、さらに手が入っていて、序章で延々とホビット族の種族的特徴やら、歴史やら、風習やらを書きつらねて、設定マニアを喜ばせるとともに、普通に物語を楽しみたいのに飛ばし読みの技能を持たない未成熟な読書家(高校時代の自分とか)を大いに困惑させるのですが(笑)。


 当然、映画だと視覚描写が大事なので、牧歌的なホビット庄の光景を見せるだけで、説明が延々と続くことはないんですけどね。
 ビルボのお母さんのベラドンナが、ホビット族の中の変わり者とされるトゥック家の出身で、格式の高い安定志向のバギンズ家と、冒険心旺盛なトゥック家の両方の血筋がビルボの「普段はおとなしいけど、ここぞという場面では大胆に振る舞う気質」を形作っている……という設定は、まあ断片的なセリフで明かされるのみ、と。

ガンダルフのイメージ

『ホビット 思いがけない冒険』 【ミニバスト】 ガンダルフ
 原書の初版では、「小柄な老人」だったらしいです。
 まあ、ホビット穴で、ドワーフたちといっしょにパーティーをするわけですから、長身よりは、小柄な方がイメージに合うんでしょうけど。


 ただ、『指輪』での活躍ぶりが念頭にあってか、第2版以降のガンダルフは小柄という記載が削除され、むしろ長身のイメージまで付与される形になったようです。
 そのせいで、映画では『指輪』でも『ホビット』でも、ホビットの家で天井に頭を打ちそうになるシーンが描写されていたり。
 ビルボ(後にフロド)の家は、親戚の羨望の的になるほど裕福で立派なホビット穴で、13人のドワーフが宴会を開けるほどの規模なんですが*1


 そして、ガンダルフ初登場時のセリフのやりとり*2も、原作どおり映画は再現していて、偏屈爺ぶりを遺憾なく発揮。
 『指輪』の映画では、ガンダルフは悪の勢力に反抗する善の勢力の代表として描かれ、原作ほど偏屈ぶりは強調されず、むしろ「白」に覚醒してからの英雄ぶりが印象深かったのですが、
 『ホビット』では、いろいろと意地悪な感じになってます。
 とりわけ、映画の方では、トーリンとの口論が序盤から目立っていたり。


 『指輪』のガンダルフは、ホビットたちに対する接し方も、愛情いっぱいに描かれているのに対し、
 『ホビット』では、ビルボを騙したり、何も言わずに姿をくらましたり、やたらと胡散臭い描写が目に付きます。まあ、映画では、そういう胡散臭さを減らす方向に演出されているのですけどね。
 そして、まあ、ビルボの活躍を間近で見て、ホビットという種族の素朴な素晴らしさを本当の意味で理解したからこそ、『指輪』のガンダルフがフロドたちを可愛がるようになった。一方で、『ホビット』の物語内では、まだそれほどまでには、ビルボに愛情を抱いているわけではないのかな、と思います。
 映画では、原作にないガラドリエル様との会話で、正体の知れない不安を吐露する弱いガンダルフが見られますが、ビルボを冒険に参加させた理由として、「小さい者の振る舞いが、自分に勇気をくれるから」と打ち明けます。


 この辺のガンダルフ解釈は、原作の陰謀気質な魔法使いのイメージ*3を払拭し、いろいろ考えているんだけど、なかなか思うように進まない苦労人のガンダルフ、すなわち、より人間的なキャラクターになっている、と思えますね。


 今夜はここまで。
 第1章は、あとドワーフたち個々のキャラクターについて、まとめようとも思っていたのですが、文量が多くなるのは明らかなので、次回に回します。

*1:少なくとも、日本の庶民の家よりも大きいでしょうな。我が家で13人の客人を招く余裕は絶対にない。

*2:「グッド・モーニング」というあいさつの言葉の解釈について、ビルボに意地悪く絡む。

*3:自分の目的のために他者を扇動し、本音は明かさない。こういう要素は、『指輪』ではサルマンの方に受け継がれた。