White NOVAのNEOスーパー空想(妄想)タイム

主に特撮やSF、TRPGの趣味と、「花粉症ガールというオリジナルキャラ」の妄想創作を書いています。

水戸黄門第43部7話、8話&9話

 で、おまけ的に水戸黄門だ(また、おまけかよ)。
 ちなみに、今週やった10話はまだ録画分を見てません。理由は、上述の通り、iPadにハマッていて、水戸黄門どころではなかった、というわけで。


 とりあえず、簡単に感想を書くと、7話はつまらない、8話は普通に面白かった、9話もまあ楽しめた、となりますか。7話以外は、普通に「水戸黄門として楽しめた」という感想。
 問題は、この「水戸黄門として」というのが、ブログ記事として書く場合にネタが薄い、ということになります。今回は、そういう考察も含めて、「何で水戸黄門では、ブログが書きにくいか」という本末転倒なことを書いてみようか、と(爆)。

7話

 まず、お盆休みの時期にやったこの放送。
 珍しく、録画ではなく、本放送で見た回ですが、外れでした。


 いやね、ネタとしては、「貧しい農民親子」が生活のために、年端のいかない娘を女郎屋に年季奉公に出さざるを得ない、という話。
 風車の弥七ちゃんがその幼い少女に同情して、女郎屋の客として出入りしながら、励ましフォローしてあげる、というハートウォーミングな話……を狙っているのは分かります。
 さらに楓姉ちゃんも、女郎屋の下働きになってサポート……という意味では、忍者萌えのNOVAとしては、シチュエーション的に喜ばしい話……になるはず。


 でも、ダメです。女郎屋という舞台にも関わらず、色気が全くない。
 すると、まだ年端がいかない少女も、「将来性を見込んでキープ」という悪の計画(笑)にのっとって、ただの下働き奉公人という程度の扱い。ほとんど「おしん」ですな。
 まあ、今作に色気を求めるのが間違い、というのは、すでに分かっているのですけど、だったら「女郎屋」などという、そういう要素が求められる設定を出すな、と言いたくもなる。たぶん、脚本段階では、そういう色気たっぷりな方向も考えていたのかもしれませんが(推測)、じっさいの映像は「ただの困窮農民のひもじさ」が強調されるだけで、しかも、ご老公たちはそれに対して、直接関わるような立場ではなく、ドラマ的にも関わりが薄く間接的なものにしかなり得なかった、と。


 ええと、娘を年季奉公に出すための借金が3両。困窮農民には払えない額も、まあ、ご老公たちなら何とかなるでしょう、と思いきや、


格さん「ええい、見てられん。助さん、3両、何とかならんか」
助さん「(手持ちの金を見て)ダメだ、2両しかない。それに、この一軒を助けても、根本的な解決にはならない。困っている農家はここだけじゃないんだからな」


 ええと、この助さん発言、災害に対する義援金という庶民の真心を否定する「上から目線の為政者発言」な感じに聞こえました。
 当然、ご老公一行は為政者側の人間がお忍びで、庶民の真心に触れながら、彼らの苦境を助けるのが大前提なんですが、助さんのこの「ドラマへの関わりを放棄して、陰ながら何とかしようという消極的な対応」が、今回の人情ドラマからの逸脱を感じさせました。
 この後、ご老公側はほとんど何もできず、ただ、「娘を売ったことで自暴自棄になって首を吊ろうとするダメな父親」の自殺を止めただけ。何というか、大人側が完全に無力に描かれてます。


 一方、娘の方は、下働きとして扱き使われて、不遇な状況でも、家族思いの気持ちは忘れない、という一種、「小公女」的な展開なんですけど、親の側が諦めモードに入っているので、痛々しいこと、この上ない。


 で、肝心の悪党なんですけど、「困窮している農民を政治家として助けることもせずに、女郎屋と手を組んで、村娘を女郎に仕立て上げる算段を作りながら、裏で金儲け」という、まあ、小悪党。
 でも、農民たちが困っているのは飢饉のせいなので、悪党倒しても、根本的な解決にはならないんですね。一応、最後に女郎屋と代官所の役人を叱りつけて、「飢饉で困っている農民をさらに困らせるとは何事だ」という型通りの説教。
 ただ、女郎屋あるいは年季奉公の制度にしても、別に不正な儲け方をしているようにも見えず、まあ、「江戸時代に普通にあった社会システム」を、取り立てて悪事のように描くのも、時代劇というよりは、現代劇の感覚で作られているために、いまいち、しっくり感じなかった次第。


 借金のために風俗に身を堕とす女の子。だから、風俗産業を全部つぶしたとしても、だったら「借金そのものはどうなるの?」という難しい疑問が出てきます。結局、助さんが「根本的な解決にならない」と、話の都合で賢しらなことを言ってしまったために、では「根本的な解決って何?」となって、小悪党に説教して終わりかよ、というオチに、納得できなかったわけですね。
 社会性のあるドラマを描こうと問題提起してしまった場合、単純に悪党倒して終わり、というのでは、しっくり終われない。ここでドラマを成り立たせようと思えば、「飢饉で困っている村人が、それでも自分たちで状況解決の方法を考える」ぐらいまで悟らせないと、根本的な解決にならない。


 まあ、いたいけな少女をサポートする弥七おじちゃんの優しさに感情移入できるなら、この回は当たり、となるのかな。
 でも、弥七には、そういう表立った甘さじゃなくて、もっと裏の世界に関わるハードなキャラを求めていたからね。

8話

 で、どうも、しっくり来なかった7話の後で、この8話はいかにも「典型的な水戸黄門」の話です。
 正直な宿屋と、いじわるな宿屋がありまして、前者は貧しくも真心たっぷりなサービスをしてくれる。後者は金持ちで、悪役人とつるみながら、正直宿屋の暖簾を奪おうと、虎視眈々と狙っている。
 こういう状況で、最初に繁盛している悪宿屋に泊まったご老公一行が、サービス精神の欠如したもてなしに怒りを覚え、その後に、貧しくも正直な宿屋の心づくしに感動して、そこを助けるべく、いろいろ手を回す、と。


 さて、水戸黄門に必要な(是非あってほしい)要素といえば、「スケベな悪人」。これがいることで、くノ一に迫って、翻弄された挙句、情報を奪われるという定番シチュエーションが生まれます。
 「よいではないか」と鼻の下を伸ばして、娘の帯を解こうとして、「あ〜れ〜」とくるくる回される……という古き時代劇の定番シチュエーション。いやあ、久しぶりに見ました。
 こういうのを見ると、「ああ、時代劇のツボが分かっているなあ」と妙に安心できます(笑)。
 しかも、黒幕が「藩の家老の弟」という、暇と権力を持て余している、ある意味、悪党三昧なお方。これが、悪宿屋と手を組んで、正直宿屋の可愛い一人娘を借金の片として手に入れようという、もうお定まりの話。
 同じ借金の片でも、前回の「飢饉という、どうしようもない天災」ではなく、「正直宿屋をつぶそうという大計画の一環」ということで、悪事の責任は全てこいつらにある、だから悪党倒してハッピーエンド、でしっくり収まる、と。


 この話、正直に言えば、「昔の時代劇の伝統そのままに作ってみました」という意味で、ちっとも斬新ではありません。でも、時代劇に懐かしさを求める向きにはお勧め。いや、別に今さら「斬新なドラマの時代劇を水戸黄門には求めていませんから」と。

9話

 水戸黄門の定番ネタの一つ。
 各地の伝統工芸などを紹介しながら、それにまつわる悪の陰謀と、伝統を守り通そうとする真面目な職人の成長を描くエピソード。
 本話でのそれは「花火」です。


 で、「花火の火薬」を鉄砲のために使おうとする権力者と、「花火の火薬は、人を楽しませるためにあるんだ。人を傷つける道具にはしたくねえ」という頑固な職人(加藤茶)の対立が背景にありまして。
 加藤茶さんの職人さんは、物語開始時にはすでに悪の陰謀で殺害されており、回想シーンのみの登場。職人の死は、火薬の爆発事故のように擬装され、その火薬の製法は息子に受け継がれていたのだけど、息子は父親の事故を怖れ、自分は花火職人の跡を継ぐつもりはない、というシチュエーション。
 そこに、楓が絡んで、恋愛モードと、父親の跡を継ぐかどうかで迷う若者のドラマが成立。


 一方、ご老公たちは、「昔の悪事の秘密を知り過ぎた件で、斬り殺されかけた悪の手下」を助けて、情報を得ることで、事件に関わります。
 8話にしても、9話にしても、ご老公と助格の基本メンバーが、うまく情報に接するシチュエーションを用意しており、実質、忍者組しかドラマに関わらなかった7話とは、物語の組み立て方が伝統時代劇の作法にのっとって、いい感じです。
 本当に、弥七って便利キャラで、戦闘も、捜索も、人情ドラマも一人で何だってこなせる。彼を主人公にしても物語は成立するわけで、逆に、彼にスポットを当てる場合、「では、助格に何をさせるか」が物語構成のポイントとなります。
 弥七主役回は、自分にとって当たり回とも思っていましたけど、そこで助格が何もしないと、バランスの悪さを感じるわけですね。


 この回の自分的当たりは、最後のクライマックス戦闘。
 相手が鉄砲を使うということで、「ご老公を狙って鉄砲が……」というシチュエーション。助か格が身を呈して、老公の楯になろうとする描写も見せながら、そこに飛んでくる風車。敵が鉄砲を取り落とし、という流れ。
 昔の水戸黄門では割と見られるパターンでしたが、最近はなくなっていて、ちょっと寂しかったり。
 やっぱり、弥七はこういう使い方をしてくれないといけません。普段は身を潜めて、ここぞというところで、しっかり存在感を示す、と。
 ともあれ、8話と9話は、「水戸黄門らしいシチュエーション」をしっかり魅せてくれた、ということで、自分は評価します。それと、どちらも「すでに殺された父親。後に残された妻と子供のドラマ」ということで、悪役の罪を確定させたり、話に適度な重みを与えてくれたりしています。水戸黄門の作劇上、「物語の途中で人は殺しにくい」というのがありますが、「すでに殺されていた」ということなら、老公たちの無力さが減免されるな、と。

水戸黄門で、ブログが書きにくい理由

 ここまで文章を書きつらねて、今さら「書きにくい理由」もあったものではないのですけど(苦笑)。
 書き始めたら、いろいろ書けるのが自分の性ということですが、
 書き始める前に、迷いがあるわけですね。


 これが必殺の場合だと、「殺しのシーン」という見せ場があるから、たとえドラマにほとんど絡んでいなくても、見せ場を作っただけで、「しっかり仕事した」という感じになります。
 これに相当するキャラだと、「弥七は風車が飛んでくるシーン」があるだけで、弥七らしさとなるわけですな。やはり、小道具があるとお得だ。


 ただ、水戸黄門って、「斬新なことをやっても、いまいちしっくり来ない」というのが、現状、一番のネック。
 それこそ、水戸黄門に新しい風を吹き込ませようと思えば、助さんを「男装の麗人」にしてしまうとか、いろいろ手はあると思うんですけど。まあ、パロディならともかく、一般視聴者には拒絶反応があるでしょうな。
 水戸黄門で変化を付けるとするなら、ご老公と助格を除いた忍者で、いろいろ変化を付けるしかない……ということで、弥七とかお銀とか飛猿とか、バラエティに富んだ忍者キャラが出ていた時代が、自分にとっては華ということになります。ある意味、スタッフのアイデアがいろいろ活かせるのが忍者キャラ、ということになります。
 同じ伝統重視でも、暴れん坊将軍が、お庭番(忍者)キャラの個性が薄く、仮面ライダーオーズでも最後の成敗役は代用できる、ということを今夏は示したわけですが、今後は、水戸黄門もライダーや戦隊とのコラボで再起を図る時代でしょうかね(シンケンジャーがそのきっかけということで)。


 で、ドラマ的に新しいことをやっても受けず、NOVAに受けているのは、「伝統的なシチュエーションの再現」。
 でも、そういうのって、「こんな伝統を再現していて、ツボにハマッた」と記事書きしても、読者の共感は得られるんだろうか、という懸念はありますね。だから、記事書きする前は、若干の躊躇を覚えた次第。


 あと、今作で最後となる場合、「伝統重視だけで終わる」というのも、果たしてどうなのか、という気にはなります。何というか、最後だったら、これでもか、という派手な展開とか、「剣劇人」にも匹敵する羽目を外した大暴れの展開があってもいい、とは思うのですけど。
 相変わらず、マンネリでございます、と言っても、記事として面白いのかどうか。
 

 個人的には、今作の格さんは、当初からキャラ立ちしていて、最近も「幽霊嫌い」という個性が何度も繰り返し言及されて、愛されているなあ、と思ってます。
 楓については、お銀さんとはまた違った魅力を覚えている次第。彼女の場合は、女性として未熟な男勝りな娘、というキャラ立て。お銀さんの場合は、女性の武器も使いこなす、妖艶なくノ一の顔も持った姐さんでしたけど、楓はその辺がいまいち空回りして、もったいなさを感じさせるところが逆に魅力かな、と。当初にあったドジキャラ属性が、時々発動したりするのも、お銀にない魅力。
 ただ、普段着と、戦闘時のコスチュームチェンジがないのが、いまだに残念。


 ともあれ、記事として書く以上は、批判ばかりなのも疲れるので、不満以外にも、今後の要望とか、妄想で埋め尽くしていいなら、何とか書けるかな。