天才論のまとめに入る
長々と天才について語った一連の記事ですが、今回で完結させたいと思います。
目的は、「天才というキャラクター属性を創作でどう描くかの考察」でして、自分がこれぞ天才と思えた「ボクシングの剣崎順」「バスケットボールの桜木花道」の2人を掘り下げてみた次第。
この2人の特徴は「天才を自認して、たびたびアピールしている(普通は鼻につく)にも関わらず、物語内でそれがハマっていて、素直に格好いい」と感じられる点ですね。天才演出の成功例です。
ちなみに、「天才を自認する」のは自意識過剰気味なギャグ演出が非常に大きくて、「俺って天才♪(調子ノリ)」「どこがやねん(作中キャラ、もしくは受け手の内心ツッコミ)」と来るパターンで、作者もそのキャラの天才性を深く掘り下げて描こうとしていないでしょう。単に多くいるキャラの個性づけの一環であり、天才ゆえのドラマを描きたいわけではない。
しかし、剣崎は最終的に、主人公の高嶺姉弟を「自分を凌駕する天才だ」と認めて、主人公を「これまで努力で這い上がって来た人間だと思っていたが」と読者の認識を示しつつ、それを覆す発言を行います。つまり、天才・剣崎を散々強調しておいて、その剣崎をして「完成された真の天才たる主人公」を持ち上げる補強キャラとして活用しているわけです。
一方、桜木はライバルの流川に対抗するために「天才」という言葉を吹聴しましたが、周囲はそれを認めない。まあ、お調子者の大言壮語と受け止める。ただのジョークだと。しかし、紆余曲折を経て、ドジもいっぱい重ねながらも、その天才としての資質を大きく開花していき、桜木の熱いプレイとひたむきな努力、そして直情的な漢気とサプライズな意外性に人は魅了されていく。天才という一般的なイメージ(割とクールで隙がない)とは大きく異なるキャラ像ですが、フィクションにおける天才像を新しくしたという存在感があります。
それらとは異なる天才の使い方として、『キャプテン翼』は、「努力キャラの主人公VS天才キャラのライバル」という従来の定番を逆転させて「さわやかな天才主人公VS努力型のライバル」という構図で、スポ根ジャンルに新たな風を吹かせました。主人公が天才なのはもちろんですが、作劇としては「努力で成長する主人公」という描き方がそれまでの定番で、「天才たる主人公に、周りが負けるものかと成長を鼓舞される形式」というのは80年代当時は割と新鮮だったと思います。*1
まあ、翼はキャプテンですから、チームを鼓舞するという物語上の役割があって、本来、天才というのは周囲を見下すものではなくて、その名プレイや名作品、名パフォーマンスに、周囲がワッと盛り上がる資質なわけです。周りをこけ下ろすようなのは似非天才であり、真の天才とは周囲を盛り立てる(今だと爆上げる)真のヒーロー(ヒロインでも可)である、と自分らしく主張してみる次第。
もちろん、世の中には、イケ好かない慢心した天才もそれなりにいるとは思いますし、優れた才覚と業績に人格はあまり関係ないのかもしれませんが、フィクションの主要人物にイケ好かないキャラを配置して何のフォローもしないと、その作品世界の魅力を大きく損ないますからね。下手な天才使用は、双刃の剣なんです。
天才に憧れて、自分の中にも天才を取り込もうとする。大いに結構です。しかし、天才と名乗ったから天才になれるものではありませんし、名乗るからには、天才として周囲を楽しませないといけません(エンタメ物語なら)。天才と自負するなら、それだけの努力と工夫を要して、周囲の世界を見下ろすのではなく、盛り立てることをしないと、偏狭な独り善がりのつまらない天才となってしまいます。
天才なのにつまらない。天才の名折れってものですね。
仮に不世出の天才であっても(恵まれない天才は結構います)、その人物を知る者からは、「あいつは天才だったよ」と認めてもらえるぐらいのパフォーマンスを示して、何かを残せて行けたらなあ、と感じる次第です。
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