Shiny NOVA&WショーカのNEOスーパー空想(妄想)タイム

主に特撮やSFロボット、TRPGの趣味と、「花粉症ガール(粉杉翔花&晶華)というオリジナルキャラ」の妄想創作を書いています。

天才論その5

天才論のまとめに入る

 

 長々と天才について語った一連の記事ですが、今回で完結させたいと思います。

 目的は、「天才というキャラクター属性を創作でどう描くかの考察」でして、自分がこれぞ天才と思えた「ボクシングの剣崎順」「バスケットボールの桜木花道」の2人を掘り下げてみた次第。

 この2人の特徴は「天才を自認して、たびたびアピールしている(普通は鼻につく)にも関わらず、物語内でそれがハマっていて、素直に格好いい」と感じられる点ですね。天才演出の成功例です。

 ちなみに、「天才を自認する」のは自意識過剰気味なギャグ演出が非常に大きくて、「俺って天才♪(調子ノリ)」「どこがやねん(作中キャラ、もしくは受け手の内心ツッコミ)」と来るパターンで、作者もそのキャラの天才性を深く掘り下げて描こうとしていないでしょう。単に多くいるキャラの個性づけの一環であり、天才ゆえのドラマを描きたいわけではない。

 しかし、剣崎は最終的に、主人公の高嶺姉弟を「自分を凌駕する天才だ」と認めて、主人公を「これまで努力で這い上がって来た人間だと思っていたが」と読者の認識を示しつつ、それを覆す発言を行います。つまり、天才・剣崎を散々強調しておいて、その剣崎をして「完成された真の天才たる主人公」を持ち上げる補強キャラとして活用しているわけです。

 一方、桜木はライバルの流川に対抗するために「天才」という言葉を吹聴しましたが、周囲はそれを認めない。まあ、お調子者の大言壮語と受け止める。ただのジョークだと。しかし、紆余曲折を経て、ドジもいっぱい重ねながらも、その天才としての資質を大きく開花していき、桜木の熱いプレイとひたむきな努力、そして直情的な漢気とサプライズな意外性に人は魅了されていく。天才という一般的なイメージ(割とクールで隙がない)とは大きく異なるキャラ像ですが、フィクションにおける天才像を新しくしたという存在感があります。

 

 それらとは異なる天才の使い方として、『キャプテン翼』は、「努力キャラの主人公VS天才キャラのライバル」という従来の定番を逆転させて「さわやかな天才主人公VS努力型のライバル」という構図で、スポ根ジャンルに新たな風を吹かせました。主人公が天才なのはもちろんですが、作劇としては「努力で成長する主人公」という描き方がそれまでの定番で、「天才たる主人公に、周りが負けるものかと成長を鼓舞される形式」というのは80年代当時は割と新鮮だったと思います。*1

 まあ、翼はキャプテンですから、チームを鼓舞するという物語上の役割があって、本来、天才というのは周囲を見下すものではなくて、その名プレイや名作品、名パフォーマンスに、周囲がワッと盛り上がる資質なわけです。周りをこけ下ろすようなのは似非天才であり、真の天才とは周囲を盛り立てる(今だと爆上げる)真のヒーロー(ヒロインでも可)である、と自分らしく主張してみる次第。

 

 もちろん、世の中には、イケ好かない慢心した天才もそれなりにいるとは思いますし、優れた才覚と業績に人格はあまり関係ないのかもしれませんが、フィクションの主要人物にイケ好かないキャラを配置して何のフォローもしないと、その作品世界の魅力を大きく損ないますからね。下手な天才使用は、双刃の剣なんです。

 天才に憧れて、自分の中にも天才を取り込もうとする。大いに結構です。しかし、天才と名乗ったから天才になれるものではありませんし、名乗るからには、天才として周囲を楽しませないといけません(エンタメ物語なら)。天才と自負するなら、それだけの努力と工夫を要して、周囲の世界を見下ろすのではなく、盛り立てることをしないと、偏狭な独り善がりのつまらない天才となってしまいます。

 天才なのにつまらない。天才の名折れってものですね。

 仮に不世出の天才であっても(恵まれない天才は結構います)、その人物を知る者からは、「あいつは天才だったよ」と認めてもらえるぐらいのパフォーマンスを示して、何かを残せて行けたらなあ、と感じる次第です。

 

*1:アニメの『侍ジャイアンツ』で主人公・番場蛮の魔球を打ち崩すために秘密の特訓を重ねるライバルの姿などに原型はある。

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天才論その4

スポーツ漫画と天才

 

 前回は、車田マンガの金字塔『リングにかけろ』の天才・剣崎順を掘り下げてみました。

 リンかけとの出会いは、小学時代。最初に読んだのが、最終決戦の剣崎VS高嶺のマグナムVSテリオス、ファントムVS勝利の虹で、読み始めは剣崎が主人公だと勘違いしておりました。

 ちょうど、試合の描かれ方が剣崎視点で、恐るべき新アッパーの誕生を畏怖するように見えましたからね。まるで、高嶺がラスボスみたいな描写で、ストーリーは分かってなかったけど、絵の持つ幻想的なイメージが魂に植えつけられた感。

 で、後から友人がリンかけ全巻を買っているのを知って、遊びに行ったときに読ませてもらって……自分で単行本を買ったのは、その後、『リンかけ2』の際に出た『リンかけ1』の復刻改訂版でした。

 あと、自分で初めて買った車田マンガは『風魔の小次郎』の方で、それと『聖闘士星矢』が自分の車田バイブルとなってます。

 

 で、スポーツ漫画は、他のバトル漫画と比べても、天才が描きやすいな、と思っています。と言うのも、自称しなくても、実況解説のアナウンサーが選手や競技者の天才ぶり、技の凄さを語ってくれますから。

 この恩恵は、ヒーローコメディから超人プロレスに転向した『キン肉マン』でもありまして、各超人キャラの凄さを読者に大いに煽ってくれる。この煽り口調に乗せられて、超人の魅力が引き立つように演出されるわけですな。

 

 一方、このスタイルを持たない非スポーツバトル漫画の場合、誰が解説役になるかが作品ごとにまちまち。あと、冷静な解説役とは別に、感情的な驚き役というのも必要で、1対1のバトルの場合は、戦いながら会話をかわし、お互いの技を解説し合ったり、挑発や驚きなど、いろいろなドラマを見せてくれますが、戦いの当事者視点と、客観的に見える観客視点とでは演出も違っていて、視点変化の妙技を楽しめるのがスポーツスタイルのいいところだとも思っています。

 実のところ、自分の技を自分で解説するってのは、技の凄さはともかく、あまり天才っぽくは見えないんですね。「俺の技はこれだけ凄いんだ(ドヤッ)」って言っておきながら、負ける……というのは、結局、凄い技を持ってる相手を倒す味方側の強さや成長に重点を置いた演出ですが、

 天才の技の凄さは、自分ではなく、観察眼や審評眼を持った対戦相手、もしくは観戦してる解説役にさせる方が天才を引き立たせ、しかも、それを聞いた驚き役が「何て凄いんだ。さすがだぜ」とか舌を巻いてくれて、戦ってる天才は「フッ」と反応するだけで、何も喋らなくてもドヤ顔できる。

 そう。バトル漫画やスポーツ漫画の天才は、ベラベラ喋り過ぎない方が箔が付く。

 

 えっ、すると今、こうしてベラベラ解説してるNOVAは天才じゃないだろうって?

 いや、この記事はバトル漫画やスポーツ漫画じゃありませんし、NOVAも別に戦っているわけではありませんからね。

 ええと、言葉を武器にしている者は、言葉の中身で天才を証明するしかないじゃないですか。ジャンルが違います。

 できれば、NOVAも天才らしく、「フッ」と言うだけで、誰かが解説したり、驚いたりするのを聞きながら、内心でドヤッて思っていたいですが、残念ながら、そういう立場に身を置けるのって、有名なプロ作家とかネームバリューのある人たちですからね。

 自己プロデュースするには、自分のことは自分で上手く解説しないといけないんですよ。言葉で勝負する人間は。

 もちろん、絵で勝負するとか、作品で勝負でも構いませんが、その場合でも、インタビューされて「あなたの作品の魅力は?」と尋ねられて、適切なコメントを返せる力というのは大切ですな。

 ともあれ、天才を引き立たせる創作テクニックについて、あれこれ私見を述べるのが、一連の記事の目的ですが、

 実際のバトルの強さ(実力)はもちろんのこと、例え戦闘力では主人公に及ばずとも、観戦する位置に身を置きながら、適切な審評を行える観察力、解説力を備えることで、天才性をアピールできるわけですし、

 ここで一歩引いた距離から解説することでキャラ立ちするためには、「敵味方に関わらず、客観的な姿勢を崩さない」ということでしょうか。

 「敵対相手の凄さを持ち上げながら、それに対峙する味方の健闘をも称える」、要は両方持ち上げることで、バトルそのものを盛り上げる。自分が解説している戦いは凄いものなんだ、という演出をしっかりできて、それを見聞きする者を酔わせる。

 それができるのが、天才解説役、あるいは天才コメンテーターだと考えますね。

 逆に、口を開くたびに何かをDisってドヤ顔しているのは、本人は溜飲を下げて自分が高みに立っている気分になれますが、そこに同調すると下衆さに引きずり込まれて、天才とは程遠い所業になります。

 

 少なくとも、真の天才は、上を見て凄さを語って、高みを示してくれるものであって、

 どれだけ賢しらぶって、何かをDisってみせても、それでその人の評価が上がるわけではないと考えます。

 だから、「天才は周囲を見下すもの」と勘違いしているクリエイターが描く天才像は歪で、「天才は高みを目指し、良いものを峻別できる者、そして自ら高みを体現できる者」と定義してみます。

 俺の方が凄い(ドヤッ)と満足する豚よりも、世の中にはまだまだこんな凄い奴らがいるんだな、ワクワクして来たぞって言える求道者であり続けたいものです。

 その方が天才っぽくありませんか? 

 

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天才論その3

剣崎順から学ぶ天才の描かれ方

 

 前回は、エンタメフィクションにおいて、主人公の持つ天才性と、敵やライバルの持つ天才性を述べてみました。

 主人公は自ら積極的に状況を動かすにせよ、周囲から巻き込まれて状況の当事者になるにせよ、物語の中心人物として事件の解決を担当するか、解決はできなくても(ホラーサスペンス系が多い)事件をほぼ最後まで見届ける役割を背負わされます。事件の解決能力か、最低でも終盤までの生存能力および事件の観察・分析能力、そして周囲のキャラへの何らかの影響力、感化力を備えていなければ、主人公とは呼びにくいです。

 一方、主人公に対峙する敵やライバルは、主人公に匹敵あるいは凌駕する程の存在感、物語を動かす原動力だったり、主人公が乗り越える壁だったり、主人公を成長させる要因だったりするので、最終的に主人公に敗れるにせよ、主人公に勝るとも劣らぬ天才性を示していることが多いです。

 稀に、主人公がライバルに敗れる形で物語が終了するようなケースもあるわけですが(『あしたのジョー』とか)、その場合は主人公以上にライバルが人気を博すこともあったりして、ライバルキャラの持つ天才性は研究に足るテーマです。

 

 そして、前回は『リングにかけろ』の主人公・高嶺竜児に対峙するライバルにして、チームメイトにして、もう一人の主人公とも呼べる剣崎順こそ、自他ともに認める稀代の天才キャラとして紹介し、持ち上げました。

 そう、フィクション世界において天才と称されるキャラクターは数多くあれど、剣崎ほどのスーパースターにしてカリスマ、天才を自称してもギャグにならず、格好良さを貫き通した天才の中の天才、天才王とでも称すべきキャラクターは、NOVAの知るかぎり、他にいません。

 その魅力を分析し、剣崎の魅力をパクるのではなく、自分の創作に取り込むにはどうしたらいいのでしょうか?

 

 そこを考察してみたいと思います。

 

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天才論その2

今は亡き天才作家への献辞

 

 天才論その2です。

 前回は、リアルの天才について、NOVAが考えるところをいろいろと述べてみました。

 NOVA自身が、自分のことを天才と考えていた時期があったこと(公立中学校という狭い世界ながら自他ともに)、そして、今も時々、天才と感じる瞬間があることなども含めてです。

 もちろん、「天才オブ天才」とか「俺さまこそが最強の天才だ」なんて言い張るつもりは毛頭ありません。天才の世界は非常に奥が深く、ジャンルもまちまち、たとえ妄想の中であっても、「最強の天才」いや「最強」と名乗ることも、おいそれとはできません。

 ただし、「自分の人生劇場では、自分こそが主役」であるという信念は持っていますし*1、小学校時代の夢は小説家ではなくて、俳優でした(卒業文集より)。

 そう、お話を作りたいのではなく、お話を演じたい方なのです、原点としては。

 TVや映画の中で、物語の登場人物として、いろいろな人生を過ごしたい。できれば、重要な役として活躍したい。

 でも、俳優になるためには、背も高くなければいけない、運動もできないといけない、明るく振る舞わないといけない、などなど、小学校から中学に上がる中で、自分の俳優イメージに勝手に制限を加えて、あっさり諦めていました。

 代わりに、俳優の裏方で物語を作る人、物語に関わる人になりたいと思い、趣味でお話作りを試してみる。主人公は自分だったり、マンガやドラマのキャラクター(のパクリ)だったり、広告の裏にあらすじや断片的なシーンを書いたり、小説もどきをいろいろ書いておりました。SF作家の星新一さんのショートショートを知ったのも、この時期。

 世間知らずの中学生で、審評眼も備わっていない頃ですから、これぐらいなら簡単に書けるだろうと思い上がって、自作のショートショートをいろいろ書いたこともあります。内容が面白いとは思っていなかったのですが、何となくお話が書けていることで悦に入っておりました。

 でも、高校時代に違う道が開けます。

 TRPG。役割を演じるゲーム。演劇の脚本めいたリプレイも、自分の性に合った読み物ですし、同時期に流行ったゲームブックも「You are the HERO.(きみが主人公だ)」のキャッチフレーズで、そう、小中学校時代の夢をそのまま実現させてくれる、まさに夢の読み物との出会いでした。

 別に、世間で称賛されなくてもいいのです。引っ込み思案な性格で、目立ちたいわけでもないですし、ただただ物語の中で役割を演じたかった。主役でなくてもいい。

 だったら、どうして演劇部に入らなかったんだろうって、今も不思議に思ってますけど、たぶん、自分の性分はまっすぐストレートに突き進むのではなくて、方向音痴に迷いながら、寄り道脱線して、その周辺をさまよってしまいがちなんでしょうね。

 ……たぶん、夢に対して一途なのではなくて、あれもしたい、これもしたいと思いながら、自分から手を伸ばさずに、偶然舞い込んで来た出会いに運命を感じて夢中になるところがあったな、と。元来、受け身な性分だったのですね。

 でも、ゲームマスターダンジョンマスター)という役割を果たすことで、自分が監督とか脚本とか演出とか、グループの中心(物語の主役ではなくて、ストーリーや世界を構築する神であり、ルールの裁定者であり、敵役や裏方サポートが主な役割)として拙いながらも経験することになった。

 これによって、引っ込み思案だった自分にも多少の社交性とか、自信が付いて来ることになった。自分の趣味の世界に人を誘うことの喜びとか、自分の構築した物語世界を楽しんでくれる友人とか、自分にも人を楽しませることができるんだ、とか、いろいろと開眼したのが高校時代です。

 

 そこから90年代に、自分に夢を見せてくれ、道を見せてくれたグループSNEに運よく飛び込むことができて、そこでの出会いとか知見とか思い出はすでに語ったので今回は割愛しますが、知った人が相次いで亡くなると、いろいろ自分の来し方も含めて考えたくもなるわけですよ。

 自分にとっては、山本さんも天才だったし(本人は著書の中で謙遜して凡才と言ってますが、著書の内容を読み取ると、十分天才だったと思います)、川人くんも天才の部類になると考えます。少なくとも、NOVAが天才を自称するためには、お二人はさらに上の天才でなければ困る。

 あと、山本さんの著書の中では、NOVA自身も天才の認定を受けました。

 この晩年の著書の中で、山本さんはご自分の創作技法を丁寧に語られ*2、山本さんがご自身で天才だと感じたのは、「少数のイタコ作家と称すべき、キャラクターが勝手に降りて来て、勝手に動いて、勝手に事件解決してくれるスタイル」だそうで、そういう経験は山本さん自身の長い創作生活において、ごくわずかしか体験しなかったとのこと。

 イタコ作家の例を挙げて、「そういう能力が自分にあれば、こんなに苦労しなくて済むのに」みたいなことを率直に述べられています。

 で、それを読んで、NOVAは「え? それって少数派なの? 作家は誰しも、そういうことが普通にできる人種だと思っていた。え? もしかして、自分が普通だと思っていたのは、特殊能力の部類だったの?」と教えていただいた形になります。

 頭の中にキャラがいろいろ浮かび上がって、好き好きにあれこれ喋って、天使と悪魔がケンカするように議論を始めて、それを必死でコントロールしないといけないので、乱れた感情を落ち着けるためにクールダウンのシンキングタイムを要して、やむなく文章で思考に形を与えて整えないと、何がポンポン飛び出して来るか分からないカオスな脳が、山本さんにとっては天才性の一環らしい。

 山本さんはプロ作家として、業界にも顔が広く、NOVAよりもよほどたくさんの作家と顔見知りな御仁だから、その人が「イタコ芸は少数派」と言うのだから、そうなんでしょうな。

 まあ、仮に「創作におけるイタコ芸」が特殊能力だったとしても、それだけでプロ作家になれるとは限らないわけだし(実例が自分)、仮に天賦の才があったとしても、それに振り回されて上手くコントロールできなければ、日常生活を送るのにも苦労するというのは、多くの超能力ストーリーでも語られるところです。

 特殊能力持ちでも、天才であっても、苦労するのは、リアルなわけですよ。

 

 いずれにせよ、ご本人は意図しないながらも、最後にNOVAの天才性を示してくれたというか、気付かせてくれたということになります。

 この『天才論』記事も、実は山本さんのご著書を再読して感じたことなんかも、執筆動機の一つなわけです。

 要は、先人に感化されて自分にしか書けない創作論を、試みまでに書いてみたくなった次第。

 

*1:他人の人生劇場では、名脇役だったりすることもあるでしょうし、敵役だったり、背景のモブキャラだったり、登場さえしないこともありますが。

*2:こっちにはマネできない手法も結構あった。天才じゃないから凄い努力して来たとあるけど、そういう努力をできる時点で天才だと思う。まあ、天才じゃなければ奇才とか鬼才とか、凄い人という形容語句はいろいろ付けられるけど、とにかくその創作手法には改めて敬服します。

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天才論その1

人が天才になれる瞬間

 

 あなたは、自分が天才だと思ったことはありますか?

 NOVAはあります。

 文章を書きながら、凄いアイデアが閃いたとき。

 躁状態が絶好調で、何でもできると調子づいているとき。

 何かを予想して、見事に的中したとき。

 いつもそうだというわけではありませんが、運気に恵まれているときに、ラッキーを通り越して、天が味方してくれていると勘違いして、それがしばらく続いていると、自信満々に天才か、俺は、と思うことは、結構あります。

 

 まあ、その反動もあるんですけどね。

 文章が自分でも支離滅裂で、何を書きたいんだ、と訳が分からなくなったとき(それが度を越すと、人には見せません。「当記事 完」が付かないまま、消した文章もたまにあります)。

 鬱状態で、かつ、冷静な思考もろくに働かずに、何もする気がなくなったとき(人生終わった……とは思わない。したいことをいっぱい残しているから)。

 予想したことが、ちっとも当たらなくて、先を考えることに意味を感じなくなったとき(もう、日常業務をコツコツこなすしかないよね。読めない予想なら、黙っている方がいい)。

 天才は、いつでもどこでも天才じゃない。

 天才じゃなくても、生きてはいける。

 まあ、ここぞという時には、天才であって欲しいんだけど、どうでもいい時ばかり天才が発現してもなあ、と「残念な天才モード」「天才の無駄遣い」「使えない天才」と自嘲することもたまにある。

 そう、天才のリズムが、長年生きてると、分かるんですね、NOVAは。

 この扱いにくい天才性は、一歩間違えると、いや、一歩ぐらいじゃ問題ないと思いますが、調子づいて10歩ぐらい踏み外すと、自分の上に天災を巻き起こしたりします。

 天災級の天才って、フィクションの世界ではたまに、どころか、しばしば発生しますが、天才が幸せに生きていけるとは限らない。

 不幸にも破滅した天才の逸話を知ると、我々(一時的な)天才は、天才の正しい扱い方を考えないといけません。

 

 ここから先は、「天才の気持ちが分かる」もしくは「天才の気持ちが知りたい」と考える人だけ読んでください。

 天才だと!? 何を、この男は調子に乗ったことを書いてるんだ? 天才なんてクズだ、そんなことを言う奴はこの世に生きている資格はないんだ〜、天才なんていなくなれ〜と悪しきオーラに飲み込まれそうな人は、ここからいなくなった方がいい、と忠告しておきます。

 精神衛生上、絶対にその方がいいですからね。

 

 では、天才に理解のある(または理解したい)人だけが、天才の世界にどうぞ。

 

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創作論を試みる

新カテゴリーの話

 

 当ブログ作者のShiny NOVAです。

 この6年近く、精霊少女の娘たちとの会話文体が楽しく、そういう戯曲シナリオ形式で多くの記事を書いてきたわけだけど、それ以前の記事などを読み返して、普通のエッセイとか、会話じゃない文体の記事の書き方を忘れているんじゃないかと思いました。

 会話文の良いところは、以下の3点に集約されて、ハマって来たわけですが。

 

  1. 単純に書いていて楽しい。
  2. 多面的な物の見方や発想ができる。
  3. バカなことが書ける(ボケに対するツッコミが機能する)

 

 1番は、お喋り感覚で独りじゃないって気になれる。……と書くと、ぼっちかよ、とツッコまれるかも知れないけど、まあ、友人はいても、いつでもどこでもってわけじゃないし、1人で考えたことに、その場で反応してくれる話し相手がいると、社交してる気分にはなれる。

 おそらく、ChatGPTなどの会話AIとか、それ以前の人工無脳とか、コンピューターゲームNPCとのやりとりとか、機械相手でも人間は話し相手を求めるものだろうし、自分の話に何らかのリアクションがなければ虚しくも感じる。

 そして普段の仕事は、私塾の講師なんかをしていると、毎日顔を合わせるのが、世代の違う中学生前後の子どもたち。彼らの成長とかを見ているのも充実した時間なんだけど、日常生活で「気心の知れた大人とのコミュニケーション」が極端に限られてくる。

 こういうコミュニケーションの欠如は、社交的存在と定義されている人間にとってどうこう……って難しいことを考えるでもなく、心理的に寂しくもあり、虚しくもある。

 だから、掲示板で趣味や感想話を披露し合ったり、サイトやブログで自分語りをしたり、TwitterなどのSNSでつぶやいたり、LINEなどでお喋りしたり、いろいろと対面以外のネットコミュニケーションも行うのだろうけど、それで何でも話せるか、というと話題に気を使う。

 思いつきで変なことを言ったりして、嫌われたりしないか? とか、

 つまらないジョークを思いついたけど、ウケそうにないから口に出すのは恥ずかしいけど、それでも言いたいとか、

 このネタはさすがに場違いだから別の場所で語ろうか、それとも少しぐらいならいいか、とか、社交的にあれこれ考えながらやっている。

 それで、自分が会話とか発言をして支障のない場を確保、構築、維持しつつ、自分に合わない場所と分かったら立ち去って、別の場所や相手を探す通りすがりやさすらい人になるのも一興。まあ、その中で縁があれば、常連として居心地のいい酒場やたまり場にお世話になったり、バーのマスターみたいに受け答えしてくれる相手と懇意になったり、ネット社交もリアルと同様、多くの形式がある。

 自分はサイト主として長年、掲示板運営をしたり、ゲストよりもホスト役の方が多かったりする。それは基本的に出不精で内向的な奴なので、外に遊びに行くよりも、誰かが家に遊びに来て、会話ネタや情報を持って来てくれるとありがたいなあ、と思ったり、昔からの性分だったりする。

 自分のコミュニケーション能力の参考書となったのは、TRPGゲームマスター経験で、普通は誰かのマスタリングで、まずはプレイヤーとして参加して……というのが多くの一般ゲーマーの道なんだけど*1、最初にルールブックを買って、いきなりゲームマスターとしてプレイヤーを誘って……という入り口からスタートした身には、自分の代わりにマスターしてくれる相手は(自分の狭い社交範囲には)なかなか確保できなかった。

 そんなわけで、プレイヤー経験が少ないのに、仕切りたがりな癖がついた歪なゲーマーが誕生して、それはたぶん今も尾を引いている。

 いや、今だと旧世紀に比べて、ネットを利用したオンラインプレイとか、遊ぶ機会はいくらでもあるのだろうけど(その分、GMに求められるハードルも上がったような気がする)、大人になると社交のための十分な時間が確保できなくなって、フットワークも重くなりがちなわけで……と言い訳してみる。

 元々、出不精な人間が、新しいことに挑戦するには相応のエネルギーを要するものなのだ。まあ、それでもずっと続けていると、相応に自分の居場所は確保できるし(壊れた場所もあるけど)、昔できなかったことを代替的に満たしてくれる場所や機会も得られるし、もちろんそれを維持するための努力や責任もまた自分を充実させてくれる糧となる(まあ、努力や責任もまた楽しいと思えなければ続けられませんな)。

 

 そして、自分が信頼して付き合える人間ってのも、多かれ少なかれ、そうした努力や責任を果たして来たと思しき人間だと思うし、会話の端々からそういう生真面目な感覚を持ち合わせてなさそうな無責任な相手(その割に相手に負担ばかり背負わせようとする)とは、付き合いきれんって話になる。

 それでもユーモア感覚とか、共有してる趣味に関して一途とか、自己の欠点を改善しようと努める真摯さとか、それでも上手くできずに悔し涙を浮かべながらもコツコツ頑張っている姿勢とか、そういうものには共感できる。

 自分も他人や他のキャラのそういう姿に憧れ、そういう自分でありたいと思って、100%完璧とまではいかないけど、それなりに達成できていると思うからだ。

 あ、この人のユーモア感覚はいい、とか、

 趣味を一途に追っかけてる愛情の発露に感じ入ったとか、

 自分の欠点に自覚的だなあとか(そういうのを率直に言える屈託のなさもいい)、

 大変な状況でも好きだから頑張ってるんだなあとか、

 精神コマンド「(趣味)愛」「根性」「努力」を示している御仁には、素直に敬服できるし、欲を言えば、自分もその点で敬服されたい(笑)。

 

翔花「さすがNOVAちゃん。愛と根性と努力ね。わたしも目指します」

晶華「って、自分で敬服されたいなんて、読者さんに求めて、恥ずかしくないわけ?」

NOVA「いや、読者に求めているわけじゃなくて、単にささやかな自己承認願望を書いただけだし、それを満たしてくれる内輪キャラがお前たちだからな」

晶華「ふうん。それが私に求められてる役割だったら、満たしてあげるわ。まずは、愛からね」

NOVA「何だ、瞳を閉じて、唇を突き出したりして?」

晶華「愛情表現って奴よ」

NOVA「俺の愛は、そういうのじゃないんだ。とりあえず、これぐらいにしておけ(娘の唇にそっと指先を当てる)」

晶華「う〜ん、父親ラブな娘ってのは、NOVAちゃんのツボじゃないの?」

NOVA「ツボってわけじゃないけど、最近よく見かけるな。ラノベの作者が年齢を重ねているうちに、ヒロイン役にそういう育成感覚を求めるようになってるのかな。まあ、父親感覚で娘に接するような作品だと、こういうものがパッと思いつくが」

 

*1:普通の卓では1人のGMと複数のプレイヤーなので、単純計算でGM人口はプレイヤー人口の3分の1〜5分の1程度になる。もちろん、GMを持ち回りで担当するグループもあるわけだし、GM経験もプレイヤー経験もバランスよく持っている人間もいるだろうけど、世の中には少数の例外もいて、「たまにはプレイヤーがやりたい」と口癖にしてるグループ内のTRPG先駆者=専任GMだって珍しくはないのだ。

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デスティニー(DD第3章パート12その2)

種Dの話の続き

 

009『前回に引き続き、ぼくとジロー兄さんのスパロボタイムだ』

ケイP『よろしくッピ』

晶華「まあ、ナイン君はNOVA2009だから、アナザーNOVAちゃんみたいなものなんだけどね」

009『Shinyじゃないから、令和の時代では通用しない旧時代の遺物なんだが、懐古主体のスパロボを語る上では問題ない。2010年以降の作品を語る際には支障が出るが、今回の範囲ではオルフェンズを除けば、全部2009年以前だった』

ケイP『ユニコーンガンダムのアニメは2010年スタートだったから、ナイン君の守備範囲外だッピ』

009『原作小説が2009年に完結しているから、大筋においては問題ないんだよ。それに、ぼくだって2010年以降の作品を学ばないわけじゃない。学習機能は普通に搭載されているんだから』

翔花「学習機能が壊れたようなポンコツ人間に比べると、KPブラザーズは優秀よね。NOVAちゃんがいなくても、十分に代役が務まってるし。主役不在でも話が進展できるのは、キャラが十分に育っている証拠だって」

晶華「大丈夫。主役は私だし。主役もこなせれば、アシスタント役の名脇役にもなれるのが、良い役者さんだってNOVAちゃんが言っていた」

009『さすがに、ゲスト出演のサポート役なのに主役のポジションを完全に乗っ取ってしまうV3さんや、ウルトラマンゼロさんみたいなのは、上手く扱わないと主人公の魅力を損なうからな。主役を焚きつけるカンフル剤として導入されたのに、主役を食ってしまってファンの攻撃対象にされてしまったのが、桐矢京介だ』

翔花「って何で種Dの話なのに、響鬼さん? また、いつもの寄り道脱線?」

009『いや、その2作はリアルタイムの放送期間が近く(種Dは2004〜05年。響鬼は2005〜06年)、しかも番組前半と後半の作風の変化で本放送中の作品の叩かれ方が凄いレベルで炸裂した作品として、印象的だったんだ。簡単に言えば、前半と後半で主人公の少年の描かれ方が変わって、実質的に主人公の座が他のキャラに奪われたように見える。よって、シン・アスカのファンや安達明日夢のファンが、彼の座を奪ったキラ・ヤマトや桐矢京介にヘイトを抱くケースもあって、まあ、理由はそれだけじゃないんだけど、その2作はつなげて語ることも可能なんだ』

ケイP『アスカと明日夢、キラと桐矢と並べてみると、音感も似ているッピね』

晶華「無理やりなこじつけっぽくも聞こえるけど、あれから20年ということで懐古ネタには使えるタイミングってことね」

翔花「でも、今回はデスティニーさんが主役なので、話を戻します」

 

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