今回も授業形式
NOVA「さて、今日も子どもたちに対して、NOVA先生の授業形式で始めるぞ」
晶華「また面倒くさい話をするつもりなの?」
シロ「これも修行の一環なんだ」
リトル「リウは学校に行ったことがないので、授業は楽しみですぅ」
NOVA「多数決で2人が乗り気だと分かったので、テーマ発表だが、本来は『趣味について』という話をするつもりだった」
晶華「いつもしているじゃない」
NOVA「そう、趣味というテーマだと広すぎて的に刺さらない。だから、もう少し限定して『理想的な趣味人とは何か?』みたいなことを考えたくなった」
晶華「趣味は英語でホビー。今年20周年のNOVAちゃんのサイトのタイトルは『ホビー館』。それに当ブログの前身タイトルが『つれづれ趣味雑記』だったから、趣味について語ることこそ、ここでの王道ということね」
NOVA「ああ。そして、趣味の中でもアウトドア系のスポーツや家庭実用的な料理、裁縫、菜園いじり、それに昔からある囲碁将棋などの伝統的な遊びを除いた新ジャンルをサブカルチャーと呼ぶ。具体的には、アニメ、特撮、ゲーム、読書、音楽鑑賞などのうち、昭和時代の大人が子供っぽいと考えたものが総じてオタク趣味と呼ばれている、と俺は認識している」
晶華「昭和時代の大人の感覚ということは、NOVAちゃん世代?」
NOVA「俺は昭和生まれだが、成人したのは91年だから平成時代の大人の感覚でいる。21世紀に入って30代。そこから20年ほどを経たので、令和の壮年世代だな」
晶華「壮年って、中年と何が違うの?」
NOVA「一つの定義によると、壮年は働き盛りの年齢で25歳から39歳。一方、40〜64歳を中年といって区分する分け方もあるが、本来の働き盛りという意味だと、40〜50代は今の時代、まだまだ社会の中核だから、定年退職するまでは壮年と定義することもできる。よって、30代までを壮年前期、40代以降を壮年後期とする定義もある。俺としては、自分のことを中年というよりは壮年と定義したい」
晶華「分かった。NOVAちゃんは少年の心を持った壮年、つまりリトル壮年ってことね」
NOVA「何だよ、リトル壮年って?」
晶華「リトルが付くと、何だか可愛くならない?」
NOVA「いい年したおっさんが、可愛さを売りにしてどうするんだよ。壮年後期の武器は、酸いも甘いも噛み分けた成熟だろう。未熟さと成長の可能性を武器にして通用するのは30代までだ。まあ、成長は限界なく続けて構わないんだが、少なくとも40代で得意武器の一つや二つ、持たなくてどうするんだって感じだ。鉄は熱いうちに打て」
晶華「NOVAちゃんの武器は、寄り道脱線芸と、説教芸?」
シロ「それは芸なのか?」
NOVA「寄り道脱線癖と、説教癖と言ってしまうと、欠点だけどな。癖を芸とか技とか自覚的に言い換えて、ネタとして昇華すると武器にもなる。これも災い転じて福と為す精神だな。寄り道脱線は『柔軟に話題を転換して、話を飽きさせないテクニック』だし、説教は『何かの教訓となって向上心を刺激するテクニック』にもなる」
シロ「ああ、自らの弱点を自覚して、それも個性と受け止めた上で、有効に使いこなす奥義というわけですか」
NOVA「長所と欠点は紙一重という考えもあってな。悪い寄り道脱線は、本筋を完全に見失ってしまい、良い寄り道脱線はアイデアを膨らませる元になる。ただし、話題転換が極端すぎると、聞いている人間の頭が付いて行かないので、路線変更をいかにスムーズにつなげるかが肝心要といったところだな」
リトル「すると、悪い説教と良い説教にも違いがあるんですかぁ?」
NOVA「当然ある。悪い説教は、相手の欠点を責めるだけで改善案を示さない、あるいは相手の人格否定をしてしまう。悪い行動を責めるばかりで、どうすればいいのかを考えさせず、相手の存在そのものを認めずに向上心すら断ち切ってしまう。良い説教はその逆だな」
晶華「ええと、悪い行動を反省させて、行動の改善を促すってこと?」
NOVA「そう。善悪の価値観の違いをある程度納得させたり、妥協させたりするための対話だな。相手の存在は極力受け止めたいが、それを笠に着て、何でも許されると勘違いする反省能力の低い人間(自分を戒められない人間)に対しては、仏の顔も三度までだ。昔は、反省文を書かされて、自分の気持ちと今後の振る舞い方を表明することは教育指導の常識だったが、今はそういうことをしないのかな。自省と自制のために文章を書かせるというのは、個々人が発信力を持つようになった今の時代にこそ必要な教育だと思うのは、俺だけだろうか?」
シロ「確かに、失敗を反省している姿をどう見せるか。言葉にしなくても行動で示すという方法もあるけど、言葉にしないと伝わらないこともある。だったら、自分の気持ちをどう言葉で表現するか、これも一つの武器と言えるでしょうね」
NOVA「とりわけ、創作小説家を目指すなら、言葉表現のプロであるべきだと俺は思うわけで、それが言葉足らずだと思われるのは恥ずかしいだろう、と。まあ、逆にプロなら推敲を重ねて、厳選された言葉を限られた文量で的確にまとめるべし、という考え方もあって、俺はそういう削る作業が苦手だという自覚もある」
晶華「過ぎたるは及ばざるが如しってことよね。いっぱい書いたら、相手に伝わるとは限らないわけだし、長すぎると読まれもしないものだし」
NOVA「そこは、俺の場合、エンタメ作品として書いている文章と、自分の気持ちを整理するために想いを吐き出しているだけの駄文の区別をせずに、ブログで書いているからなあ。で、今は前置きの文章なんだけど、すでに2000字を越えて、本筋に辿り着けていない駄文の類なんだ」
リトル「2000字も書いて、駄文呼ばわりですかぁ」
NOVA「自分の文だから、出来不出来の判断も自分でしないとな。他人がどう思うかは二の次だ。自分の書いたものの良し悪しはある程度、自分でできないといけない。剣の達人を目指す者が、何度も素振りをして、自分の思い描いた軌道を辿っているなら良し。切っ先がブレて刃が通らないなら悪し。そして、一通り振ってみないと、自分の調子が分からなかったりする。弓でも書画でも球技でも走りでも、そういう感覚は同じだろう。まずは、自分の調子を自覚できるだけの審評眼を持たないと、他人に意見を求めるなんてしてはいけないとさえ思うよ。少なくとも、素人満足じゃなくてプロを意識している人間ならな」
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